懐古

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日曜日のこの時間は、静かで落ち着いていて大好きだ。この時間というのはお昼時で、この辺りの人達は日曜日ともなると何処かに出掛けてしまうらしく、また、近くを走る、いつもなら交通量の多い道もはする車が殆どなくて、取り残されたと実感する時間なのだ。騒々しい音を立てて青信号を猛スピードで通過するのは大型のモーターサイクル達。こんなに天気がよければツーリングもしたくなると言うものだ。彼らは何処まで行くのだとう。アペニン山脈へと続く谷間の路を走り、山を越えてトスカーナまで行くのだろうか。そんなことを想像しながら、私はもうずいぶんの間、山へ行っていないことに気がついた。近いうちに足を延ばしてみようか。

こんな呑気な日曜日は色んなことを思い出すらしい。思い出したことのひとつは、それはもう大変前のことで、私がまだ10歳にもならなかった頃のことだ。私たち4人家族は東京の隅っこに住んでいて、月に一度くらいの割合で目黒区に住む親せきの家を訪ねた。親戚の家にたどり着くまでに色んな電車に乗るわけだけど、子供ながら一番インパクトが強かったのは、車両数の少ない目蒲線だった。目黒駅で乗り換えた。今となっては記憶は定かでなく、確か目蒲線に乗り継ぐための短い階段を上り、小さな改札を通過せねばならなかったと思うが、どうだろうか。今は何処もが改善改良新築されているから、目黒駅の在り方さえも随分変わっているだろう。兎に角目蒲線上にある駅はどれも面白そうだった。その幾つかに下車したことがあるけれど、どれもが私にとってはワンダーランドだった。何か下町風の、昔風の、路地を歩いているとチリリンと風鈴の音が聞こえてくる、長閑な町だった。それで親戚の家はその目蒲線の中ほどにあり、小さい駅ながら街はそれなりに広がっていて活気があった。駅を出て少しのところの角に大きな店があった。これは果物屋さんで、野菜は一切置いていないから青果店ではなく、正真正銘の果物屋さんであった。果物屋さんは繁盛していて、何時も待たねばならなかったが、兎に角いいものを置いているので、お土産に持っていくならばやはりこの店の果物でなくては、と私たち家族は思ったのだ。何も訪問先の地元の店で買わなくても、と今の私なら思うけれど、何しろ両親は子供だった姉と私の手を引いてのことだったので、私達が暮らす町の名物を持っていくのは大変だったのだろう。それに、そもそも私達が暮らす町に名物なんてなかったけれど。さて果物屋さんだが、地元の人達が普段に食する果物を求めに来るだけでなく、訪問先への手土産を求めに来る客も多いと見えて、店の人は家で食べるのか、それとも手土産用かと必ず聞いた。手土産用だと答えと店の人はいい具合に包装してくれて、その上に気の利いた色付きのひもで結わいてくれた。それを手にぶら下げて歩くのが私の小さな願いだったが、父も母も、それから姉でさえも、必ず落とすに違いないから、と持たせてはくれなかった。実際私は一度そんな失敗をしていて、それ以来土産物は一度たりとも持たせて貰えなかった。親戚は私たち姉妹を大そう歓迎してくれた。私達が来ると楽しくなると言って。あの時代は、どの店もがそうだったように魚屋さん、鰻屋さん、果物屋さん、お茶屋さんと今思えば専門店に思えるが、あれもこれも置いている店はあまりなかった。いつの間にか一軒の店であれもこれも手に入るようになって便利といえば便利だけれど、私は専門店風の昔の店の在り方のほうが好みらしい。懐古趣味と言えばいいかもしれない。
と、そこまで思って分かったのは、私がボローニャに暮らしてそれほど不便を感じなかった理由だった。大型店などあまりなくて、鶏肉と卵は鶏屋さんで、パンは勿論パン屋さん、小さな青果店で野菜と果物を買って、雑貨はカザリンガと呼ばれる生活必需品店で買った。アメリカから引っ越してきて、初めの頃こそ疎ましい思いをしたけれど、すぐに順応できたのはそんな背景からかもしれない。

もう私があの町を訪れることはない。だからあの果物屋さんが今も存在するのかもわからない。狭い道に入り込むと風鈴の音が聞こえるかもわからない。でも、目蒲線が今も元気に存在することだけは知っている。


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