春の匂いがする

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雨が嫌い。そんな私にぴったりの雨降りの土曜日。雨が昨夜から俄かに降り始めて、そのまま静かに降っていたらしい。それにしたってこの降りはどうだ。南東から吹き付ける風雨がしきりに窓ガラスを叩きつける。こんな日に外を歩くなど論外だと言いきる私に、君の雨嫌いには困ったものだと周囲が言うけれど、私が窓から眺める限り外を歩いている人などひとりも居ない。少なくともこの辺りでは。元気が無いわけではないけれど、こんな日は家の中で本を読んだり書き物をするのが良いだろう。

家を購入したがまだ内装工事が始まらない。それはイタリアではよくあることなので、気を揉んだりしてはいけない。どっしりと腰を据えて、そのうち必ず始まるさと見せかけだけでも良いから大船に乗ったような様子で居るのが良いだろう。そんなことを思いながら無数の雨粒がついた窓ガラス越しに外を眺めているうちに、思い出した。スカーフのことだ。美しい色柄のスカーフを見つけたのは昨冬の、クリスマス前のことだった。私が職場から逃げるようにして飛行機に飛び乗って行った、寒い寒いヴィエンナでのことだった。クリスマス前で何処もが其れ一色だったヴィエンナに、その店だけは一足春の光が届いているようだった。中心地の広場から細い道を入ったところにそれはあった。良く晴れた日の遅い午前で、良く磨かれた一面のガラスが一際美しく見えた。スカーフは大きな花柄で、春の色が詰まっていた。春の匂いがするような。それを見て、私はこんなスカーフを昔持っていた、と思った。スカーフはもっと安物のシルクで、しかも色は若草色だったが、こんな風に沢山の花が絡み合っていて首に巻き付けて街を歩くと、しばしば通行人に止められて、この美しいスカーフは何処で手に入れたものなのかと訊かれた。そしてまっすぐの黒髪の私にとてもよく似合っていると褒めてくれた。貧しかった私が思い切って買ったとはいえ、思い切ることが出来るほどの、今思えば手ごろな値段のスカーフだった。多分、20ドルくらいの。22年も前のことだから、あまり確かではないけれど。確かにあれは美しかった。綺麗に折りたたむことなく、くしゃくしゃと首に巻けばよかった。私の目の前にあったこの高級そうなスカーフがそんな話を聞いたらば迷惑がるかもしれないけれど、しかし何と似た印象のスカーフであろう。大変気に入っておきながら、それでいてこれを手に入れることが無かったのは、店の中に人が居るくせ早い昼休みで閉まっていたからだ。中の人が指をくるりと回してまた後で来るとよいみたいなことを示したので、私は右手を軽く上げて、了解、と答えた。でもそれきりになってしまった。それきりになってしまった理由は、その午後私は随分見当違いの方向を散策していて、戻って来た時にはとうに閉店時間になっていたからだ。街中の、ヴィエンナなどと言う旅行者の多い町でありながら、昼休みをきっちり取るのが実に欧羅巴らしくて、そして昔からの伝統や習わしを忠実に守るのがオーストリアらしいと思った。そうだ、此処はオーストリアなのだ。郷に入れば郷に従え、である。そう思えば文句のひとつも出てこない。しかしそんな訳で、私はスカーフを手にすることが出来なかった。あの店に行こう。ふとそう思いつき、まだ予定ひとつない夏の休暇をヴィエンナ辺りで過ごそうと思い始めた。多分、私がそう言えば、行ったばかりなのに、と周囲は呆れるに違いないけれど。あのスカーフはないかもしれない。でも私の感覚に似合うものがきっとあるだろう。スカーフ好きな私だから、あの店は何とも魅力的なのだ。そうして12月には寒すぎて堪能しきれなかったヴィエンナをそぞろ歩くのも悪くない。長い夏の夕方の涼しい風に吹かれながら、異国の石畳を辿るのは楽しいものだ。それに私は、ヴィエンナが大好きなのだから。

雨はまだ降り続ける。丘の緑が強かに濡れて、濃い緑を光らせている。春は何処へ行った。そう呟きながらも、実はその辺に隠れていて、再び出番を待っているのを私は知っている。


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