霧雨が降る朝

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その日は何時まで経っても朝日が昇らずいつまでも外が暗かったから、うっかり寝坊をするところだった。太陽が出ないとこんなに暗いものなのかと、薄いカーテンを開けて窓の外を覗いてみると微かに霧雨が降っていた。そのうち止むさと高をくくっていたが、霧雨は止むことがなかった。

ホテルを出てトラム乗り場までの道を歩く。傘を持っていたが差さなかったのは帽子を被っていたからだ。それに通行人の誰も傘を差していなかった。この辺りではこの程度の雨では傘を差さないのだろう。それにしたってトラム乗り場はたったの100メートル先だった。そこから1番のトラムに乗ればよかった。トラムはオペラハウスまで大まか真っ直ぐ行くと左折して、リンクと呼ばれる旧市街を取り囲む環状道路をぐるりとまわり、4分の3周するかしないかのところで環状道路から外れてプラータと呼ばれる遊園地へと向かうのだ。しかし私が目指していたのはプラータではなく、その少し手前で下車した辺りに在る風変わりな建物だった。その家は以前ヴィエンナにきた時に見たことがあった。何しろ有名な家で、外見を見るだけでも十分興味深い。それだから前回は外から観察しただけだった。さて、同じところにもう一度行くには理由があった。その建物の上階で催されている写真展を見たかったのだ。ヴィエンナの旧市街を歩いているときにその写真展を知ったのだ。写真家の名前は聞いたことがあるような無いような。私の興味を大いに惹いて足を運ぶことになったのである。それによって外からしか見たことのないあの建物の中を覗けるのだから、それもまたよいだろうと。トラムの中から見るヴィエンナ。歩いているときよりも高い視線から見るので、ほんの少し違って見えた。通行人たちを上から眺めるのも楽しい。一瞬見えた美しい路地。しかし路地の名前を確認する暇もない。トラムの中には数人の地元の人たちが無口に腰を下ろしていて、この町の人々の行儀のよさに感心した。と、途中から乗り込んできた若い男女のふたり。見るからに旅行者でどうやら英語圏からきているようであった。男のほうが車内に貼ってある停留所の名前を確認し、女の方がガイドブックをぶつぶつ言いながら食い入るように読んでいた。と、突然70歳くらいの寂しげな女性がふたりに声を掛けた。何処へ行きたいの? と。若い女は私が降りる少し先にある、もうひとつの変わった建物の名前を言い、寂しげな女性は、それならここから幾つ目のところで降りればいいが、自分はその先まで行くから停留所の近くになったら教えてあげるから、と言った。親切な女性だ。私の経験上、ヴィエンナで嫌な思いをしたことはない。訊ねれば親切に教えてくれるし、訪ねなくても向こうから声を掛けてきて親切に教えてくれる。彼らは旅行者に慣れているのだろうか。それとも根本的に親切なのだろうか、ヴィエンナの人たちは、オーストリアの人たちは。それを語るには私はあまりにも知らなすぎるが、しかし気持ちの良い人たちであることには違いないようだった。そんなことを考えているうちに目の前の彼女たちの話は先に進んでいた。、若いふたりはニュージーランドからの旅行者。若い女はフランス人だが家族でニュージーランドに移民したそうだ。すると寂しげな女性が話し始めた。自分は昔ヴィエンナに移り住んで、それからずっと此処にいる。母国にはそれ以来帰っていない。これがこの女性が寂しげな理由に違いないと若いふたりは(そして背後で話に聞き耳を立てていた私もまた)はっとした。若いふたりはその話をするにはあまりにも若かったが、だからこそそんな質問ができたのであろう、母国に帰らないなんて寂しくないのかと訊いた。女性は一瞬考えて、そうねえ、寂しいけれど帰れなかったのよ、と言って、そしてさらに付け加えた。何十年も住んでいるのに私はやっぱり外国人だわ。その言葉は若い女の心を刺して、そして背後で聞き耳を立てていた私の心をも刺した。何十年住んでも外国人。若い女性の表情が一瞬曇ったのを見て女性はあらあらごめんなさいね、つまらない話をしてしまったと詫びた。私が運が良かったのは、ちょうど止まったそこが私の停留所だったからだ。さもなければ私は少し感傷的になっていただろう。私は根無し草。これは日本を飛び出してからずっと私の心から離れない言葉だ。根を生やそうとしても生えない。根がないから大風が吹いたり大雨が降るとすぐに流されてしまう。そんなことをここヴィエンナで思い出そうとは。霧雨は止んでいたが、とんでもなく寒かった。気温はやっと零度ほどで、息を吐くたびに白い煙となって立ち上った。

写真展は素晴らしく、変わった建物の内部もまた人間味溢れ、そしてユニークでよかった。こういうものはボローニャでは手に入りにくいもの。ボローニャとヴィエンナの文化は似通ることがないらしい。しかしだからこそ双方とも魅力的なのだということも知っている。文化とはそういうものなのだ。ヴィエンナに来て私はとても敏感だ。様々なことを感じて考える。肌のすべての呼吸網から何かを吸収しようとしているのを感じる。それを私は嬉しく思う。敏感でいたい。いつも何かを感じていたい。昔の私がそんな風であったように。


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コメント

その建物のデザイン:フンデルトヴァッサーかと。

「直線を好まず、すべて曲線で作った」と言われている作品かと。
「この世界に直線でできた自然物があるだろうか?」みたいなことを
おっしゃられた記憶があります。
もう20年前のこと。


こちら昔、建築を学ぼうと決めたとき
出会った建築物がこちらの建物でした。

それからずいぶん月日が流れ、
今、ちょうどその世界から離れようか悩んでいるところ。

そんなときにこちらの記事で原点に再会した気持ちでいます。
きょう、この記事に出会えたことに感謝を。


約1年ぶりの投稿です。
(引っ越しの記事)

そちらの履歴には残らないかと思われるんですが、
Amebaの「アメブロ以外のお気に入り」というところに
保存さして頂いております。
いろんなブログの更新がその場で一気に見れるので便利です。
余談でした。


m(__)m


2013/12/26 (Thu) 04:47 | arune #.ZojGY8o | URL | 編集
Re: タイトルなし

aruneさん、こんにちは。そうです、フンデルトヴァッサーですよ。と平然と言いますが、いくら考えても読めなかったのでカタカナで書いて頂いてやっと読めたと言う訳です。感謝です。彼の頭の中には曲線しか存在しないようです。それにしても自然との共存を好む彼のデザインは、何か共感できるものがありました。今回中に初めて入る機会を得たことを幸運と思っています。
aruneさんは建築の世界に居るのですね。誰にでも今いる世界を離れようかと考えることは一度はあるようです。私は一度去ってしまった自分の世界に、あれから長い年月が過ぎた今になってもう一度戻ろうとしています。勿論全く同じことはできません。でも何かクリエイティブな中に居たいと。今回のヴィエンナの旅でそんなことを考えるようになりました。一度離れても、また戻るようですよ。自分らしく生きると言うことは、そういうことなのかもしれません。

2013/12/26 (Thu) 18:28 | yspringmind #- | URL | 編集

今日のブログを読んで色々と考えさせられました。
私は香港とロンドンに住んでいたことがありますが、孤独を感じたことはあまりなかったのです。
若くて好奇心が旺盛で、お金がなくて。(笑)
ただ、たまに感じる違和感が、自分を故郷の東京に引き戻すといいますか。懐かしくはないのですが、"あ。自分はこの土地由来の人間じゃない。"という、ちょっとした切なさ。

それを味わいたくて、外国に住んだのですが。

2013/12/27 (Fri) 04:36 | micio #O/XG6wUc | URL | 編集

こんにちは、

これは素晴らしい建築ですね。そしてとっても素敵な写真。
これを撮る(見る)ためにだけでもヴィエンナに行くだけの理由がありそうです。
いつかきっと、と心に誓いました。(笑)


良い年を迎えてください。

2013/12/27 (Fri) 16:50 | September30 #MAyMKToE | URL | 編集
Re: タイトルなし

micioさん、こんにちは。実を言えば私も孤独感を感じたことはありません。そもそもひとりが好きなので、問題が無いようですよ。しかし外国人、異国人であることを感じると言うのは別の感覚のようです。疎外感でもない。けれどもどんなに沢山の人を知っていても家族がここに居ても、土地になじんでイタリア人と同じように生活しても、しかし私は最後の最後でやはり外国人なのだと、ふとした瞬間に感じさせられることがある。そういうことなのですよ。それは周囲が引いている境界線なのか、それとも私が知らぬ間に引いている境界線なのか。いくら考えてもわからないのですけれど。

2013/12/28 (Sat) 20:48 | yspringmind #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

September30さん、こんにちは。この建物をデザインした人は直線の存在を嫌い、曲線ばかりが頭の中に交差しているらしい、実にユニークな発想の持ち主なのです。外観もさることながら内部も面白いです。床が波打っているのですからね。いつか本物を見ていただきたいです。私の写真よりはるかに素敵なのですよ。
September30さんも良い年をお迎えください。

2013/12/28 (Sat) 20:54 | yspringmind #- | URL | 編集

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