丘の上

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夜がやって来るのが早くなった。仕事を終えるころの空はまだ明るく、夕方の自由な時間を楽しもうとウキウキと足取りも軽いのに、14番のバスに乗って旧市街にたどり着くころになるといつの間にか夕暮れ時らしくなり、ちょっとワインなど頂いているうちに夜の気配が漂い始めるのだ。面白いもので夜遅いわけでもないのに家に帰らねばならないような気分になる。若しくは家に帰りたいような気持になる。夕暮れ時というのはそんな魔法があるのかもしれない。日曜日の雨は案の定涼しい空気を運んできた。朝の涼しいことと言ったら。街を歩く人たちは早くもジャケット姿。もちろんそんなに重いものではなく、例えて言えば風除けみたいなもの。私はジャケットは羽織らないが、首元が涼しくてどうしようもない、ということで薄い大判のシルクのスカーフを無造作に首にぐるぐる巻く。そうすると面白いうことにジャケットを着ているくらい暖かく、そのうえ安心感があるのである。首元をしっかりカバーしているから大丈夫、と。もちろん長袖が宜しい。こんな素敵な季節に風邪など引いていられない。バスの中や旧市街には時々未だに袖なしシャツ姿を見かけては其の元気な様子が羨やむ。私も20代の頃は秋口まで半袖を着てさっそうと街を歩いていたものだけど、しかし、そういう時代は終わったのだ。今は少しくらい暖かいくらいがよい。

先週、南オーストリアの小さな町グリッフェンを発った朝、このまま真っ直ぐボローニャに戻るのは何となく勿体ないような気がして、私たちは地図を片手に車で彷徨った。聞いたこともない町ばかり。もっともこの辺りの町のどれも聞いたことがなく、大体グリッフェンだって聞いたことのない町の名前だった。とにかく天気が良かったし、とにかく空が青かった。と、左手の遠く遥か向こう側に小高い丘があるのを見つけた。目を凝らしてみると天辺に何かがあった。城だった。あ、あそこに行こう。喜んで相棒を促すが、相棒ときたら車で頂上まで行けるはずがないという。彼は車での移動が好きなのだ。裏返してみれば彼は歩くのが苦手なのである。しかしどうやら彼も丘の上の城に興味が湧いてきたらしく、どこまで車で行けるかとにかく行ってみようということになった。丘の4分の1まで行くと城へと続く道をふさぐような形で入口があった。ここから有料らしく、ここから徒歩、若しくはケーブルカーを利用するようになっていた。ケーブルカーが急な斜面に沿うようにして高速で上り下りする様子は驚きだ。見ているだけで貧血を起こしてしまいそうな怖さだった。それだからなのか多くの人は徒歩を選び、でこぼこの道をゆっくり歩くのを堪能するかのようにしてひたすら頂上を目指して歩くのだった。私たちがようやく頂上にたどり着いたのは1時間も掛かってからだった。それほど長い道のりではなかったが、何しろ興味深いので止まっては歩きで1時間も掛かってしまったというわけだ。頂上には思いがけず小さな博物館が設けられていて驚くほど保存状態の良い1500年代後半からの剣やら衣類とか書物とか様々が展示されていた。私が興味深く思ったのは当時の城に暮らす人々の絵の数々で、なかなか前に進むことができなかった。小さな博物館に1時間もかけてやっと中庭に出てくると、年配の夫婦が互いの写真を撮っていた。年の頃は70くらいで小奇麗にシンプルに纏めた装いと真っ白の髪に好感を持った。私は近づいてふたり一緒の写真を撮りましょうかと申し出ると、妻のほうは遠慮したが夫のほうが、いやいや是非お願いしますと言って喜んだ。私は彼らの写真を1枚撮った。妻のほうは引っ込み思案らしい。それとも東洋人と接したことがないのかもしれない。始終口をつぐんでいたが、夫のほうは全く陽気で、いやあ、僕たちはドイツからの旅行者でね、と言い、それであなたは何処の人なの? と私に訊いた。私が日本人であること、でもボローニャに暮らしていることを伝えると、おお、ボローニャか、と喜んだ。それはいい、あの町は食事が期待できていい、と付け加えたところを見ると彼らはボローニャに来たことがあるのかもしれなかった。彼らと別れ、中庭のテーブルについてカッフェを頂いていると、城の人が近づいてきた。ほら、あの上の部屋はレストランになっていてね、と指差した。夜のみ店を開けるそのレストランはとても雰囲気があり、満月の晩には演奏を聴きながら食事を楽しめるのだそうだ。一度満月の晩に来てみたいものだと思いながら、私たちは城を後にしたのだ。楽しかったあの日。足が疲れて大変だったが楽しかったと相棒も嬉しそうだった。

私のテラスから見える満月は白く光る真珠のようだ。あの城のレストランでは演奏会が開かれているのだろうか。あの分厚い壁に小さく取り付けられたガラス窓からも、同じように美しい白く光る満月が見えるのだろうか。一瞬中世に引き戻されて過ごす城での満月の晩。今夜はそんな夢でも見ることにしよう。


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