水撒きの男

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降りそうで降らなかった雨。遠くのほうで雷が幾度も鳴って、あれほど空が黒かったのに、風があれほど吹いていたのに、いつの間にか空が晴れてしまった。其の後はどうしようもない暑さだけが残った。思えば7月も残り一週間だから、この暑さは別に不思議ではなかった。しかし連日37度にも上がると、ああ、そうですかでは済ませなくなってくると言うものだ。近頃、相棒と私の間でこんな会話が交わされている。ねえ、今晩は何にする? つまりこの暑い日の夕食に君はいったいどんなものを食べたい気分なのか、という質問。なるべく火を使わずに、美味しくて栄養になるものを。そうねえ、と毎日同じような会話をする。水牛の乳で作った新鮮なモッツァレッラに小さな真っ赤な太陽の味のするトマト、それから野菜を茹でたものや薄く薄ーくスライスした生ハムも良い。しかも空が明るいうちは夕食をしない。何時のころからか夏の夕食はそんな風になった。

一昨日の晩に美しい満月を見た。月明かりとは美しいものだ、と久しぶりに感動した。私がテラスからそんな月を眺めていたら隣の建物の庭を長い水撒きホースを持って歩く者を見た。それは隣の建物に暮らす男性で、いつも彼が庭に水を撒いている。別に管理人ではない。多分彼は水撒きが好きなのだ。恰幅の良い彼は私と仲の良い猫の飼い主で、猫もまた恰幅が良い。ただ猫のほうは水撒きなどする筈も無く、いつも出入り口に寝転がっているだけだ。と、彼は口笛を吹き始めた。イパネマの娘。私が知っているのはフランク・シナトラの歌だけど、もとをただせば60年代初期のボサノヴァで、とても有名な曲である。それが実に上手くてリズミカルで美しい月夜にぴったりで、私は耳を澄ましながらテラスで踊りだしてしまいたいくらいだった。そんな彼をテラスで待つ人がいた。彼の妻で黒い豊かな長い髪を持つイタリア女性。彼らはいったい幾つぐらいで何年夫婦をしているのか知らないが、とても仲がよい。暑い季節が始まるなり毎晩食事をテラスで楽しむようになった。テラスに小さな白いテーブルをだして、向かいあって食事をする。日没を待っての食事。どうやら彼らもまた空が明るいうちは夕食はしない派らしかった。さて其の妻だけど、軽快なボサノヴァを奏でながら水を撒く夫をテラスで待っていた。白いテーブルにはワイングラスが並んでいて、真ん中には蝋燭が置かれていて灯が揺らめいていた。どうやら夕食の用意がすっかり整っているらしい。夫のほうは軽快に水を撒きながら偶然視界に入ったらしい私にひょいと手を掲げて挨拶をした。こんばんは。こんばんは、今日も暑いね。再びボサノヴァを奏でながら水を撒く彼に私が言う。奥さん、テラスで待っているから、水撒きはその辺にして家に戻ったら? するとテラスでそれを聞いていた妻が、あら、みたいな様子を見せて、夫のほうはといえば、おお、水撒きはまた後にしようか、などと言って口笛を吹きながら家に帰っていった。そしてふたりがテラスに揃うと私に向かってワイングラスを掲げた。乾杯、とでも言うように。それで私もグラスを持つ振りをして彼らに向かってひょいと手を持ち上げた。乾杯。満月の晩に乾杯。満月の晩は全てが美しく、愉しく見える。

其の月も今夜は少し欠けていて、消えてしまいそうな弱い光を放っている。それもまた美しい。


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コメント

すごく素敵な光景ですね。
映画のワンシーンのように目に浮かんできました。
東京の熱帯夜では夜でもオープンテラスでというわけにはいかないのですが。(泣)

2013/07/25 (Thu) 00:56 | micio #O/XG6wUc | URL | 編集
Re: タイトルなし

micioさん、こんばんは。今夜はボローニャも熱帯夜。昼間は39度にも上がりました。今の家に暮らし始めてから季節が良いこともありテラスで過ごす時間が多くなりました。夜風に吹かれながら月を眺めたり、遠くに見える打ち上げ花火を眺めたり。この辺は東京と違って全く暢気な空気が流れています。

2013/07/26 (Fri) 22:57 | yspringmind #- | URL | 編集

打ち上げ花火ですか~

我が家も高台にあるため、夏の夜は 休日にもなると
あちらこちらから 花火が見えます
毎年「うわ~今年も見えるね~」なんて 同じ言葉を繰り返してます

今日は近所の夏祭り
娘の帯締めに悪戦苦闘してました

待ち合わせに間に合わない~なんて言われながら 汗だくです

2013/07/27 (Sat) 10:40 | 春風 #jgTtIlIo | URL | 編集
Re: タイトルなし

春風さん、こんにちは。ボローニャの花火は日本のに比べたら全然小規模ですし、花火の華やかさも控えめですが、それでも花火の音が遠くで聞こえると、何処?何処?とテラスに飛び出してしまいます。花火はちょっとした魔法なんですよ。
夏祭り。いい響きですね。春風さんが娘さんの帯締めに奮闘している様子が目に浮かびました。懐かしい。私も十代の頃、母にそんな風にして帯を締めてもらいました。

2013/07/27 (Sat) 20:02 | yspringmind #- | URL | 編集

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