石鹸の匂い

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火曜日は晴れ。予定通りだ。話によると明日頃から大きな寒波がやって来て北イタリアをすっぽりと包み込んでしまうらしい。これも聞く話による情報だけど、また雪が降るらしい。其れも楽しみが一杯詰まっている週末に。何と言うこと。と思いながらも雪の降る旧市街を散策するのも良いだろうと、心のどこかでプランを練る。そうだ、塔に登ってみようか。塔の上から雪化粧したボローニャの街を眺めてみようか。まだ一度も見たことのない、塔からの雪の眺め。しかしあまり雪が積もれば、そうも行かないかもしれないけれど。大体バスで旧市街に行くこと自体が億劫かもしれないのだから。

私がボローニャに到着した日は5月24日だった。冬の微塵も無い初夏だった。なのに町の人はまちまちの装いで、袖なしの女性が歩いていると思えば、まだキルティングのジャケットを着ている老紳士も居た。それは奇妙な風景であった。袖なしのワンピースを着た私と相棒の友人が旧市街のポルティコの下を靴の踵の音を小さく立てて静かに歩いてくる様子は17年が経つ今も忘れない。美しい、其れは美しい様子だった。そもそも彼女は友人ではなかった。彼女が旧市街のアパートメントを分け合って暮らしている女性、クリスティーナが相棒の友人だったのだ。私たちがボローニャに引っ越してくるにあたって暫く部屋を空けてくれたクリスティーナ。街中のほうが便利でいいでしょう、と言う気配りだった。そして私たちはそのアパートメントに2週間居候して、あの袖なしのワンピースの美しい姿の女性と仲良くなったのだ。古いイタリア映画に出てくるような美人でチンツィアという名だった。彼女とクリスティーナはボローニャ大学時代からの友人で互いに励ましあい刺激しあってきた中だそうだ。もう直ぐ30歳になろうとしていた彼女たちはそれぞれ才能に恵まれていて、ひとりは駆け出しの弁護士として、もう一人は広告デザイナーとして活躍していた。此の2人は若く、そして豊かであるがために住まいの中には素晴らしいものが鏤められていた。美しい大理石の床や全ての部屋から見える緑溢れる中庭だけでも素晴らしかったのに、1800年代のボローニャの食器棚やテーブル、それから手描きの紅茶のカップなどがさりげなく置かれていた。ボローニャは日に日に暑さを増していった。そんなある日彼女たちが言ったのだ。こんな暑さはまだ序の口で、其のうち暑いなんて言うのも面倒臭くなるほど暑い夏がやってくる。でも、冬を思えば我慢が出来る。ボローニャの冬の陰気なことといったら! そう、彼女たちが私に言い聞かせるのだ。其のうちあなたにも分かるわ、と。ええ、私はあなたたちの言うとおり、直ぐにその意味が分かったわよ。陰気なだけではない。暗くて寒くて長くて。そんなことを考えているうちに彼女たちが愛用していた石鹸をのことを思い出した。手を洗うための固形石鹸だった。レモン色で、泡立てるとレモンの匂いがした。泡切れが良くて気持ちの良い石鹸。私が褒めると旧市街の大きな化粧品店で売っていると言った。700リラなの。石鹸にしてはちょっと高いけど、長持ちするし、いい匂いだし、此のくらい贅沢してもいいわよね? 彼女たちは互いに顔を見合わせて頷いた。金銭的問題の無い彼女たちが700リラの石鹸のことを贅沢と言ったのに驚き、実は彼女たちは案外質素に暮らしているのかもしれないと思ったのだ。あの石鹸、今でもあの店で売っているのだろうか。あのレモンの匂いが急に懐かしくなった。


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コメント

yspringmindさん、こんにちは。石鹸ではないですが、私も、匂いで過去を思い出す事がよくあります。アパートの廊下を拭く洗剤の匂い等。今は過去の思い出と、霞を食べて生きています。でも、それも悪くは無いのかもしれないなと思いながら。どうしたって遺伝子が違うのだらから、そのように暮らすことは出来ないと分かっているのですけどね。そちらは寒いようですね。こちらは暑いです!

2013/02/20 (Wed) 01:50 | TSUBOI #- | URL | 編集
Re: タイトルなし

TSUBOIさん、こんにちは。私の思い出の多くは匂いや気配、そんな感覚的なものが多いようです。例えば霧の匂い、初夏の朝露の匂い、草の匂い。風の匂いや春の月夜の匂い。其れはどれも私にしか理解できないものですから、表現するのが難しくて、ましてや文字にするのは。しかしそんな感覚的なものも案外素敵なのではないかと思います。石鹸の匂いは、そんなことのひとつです。ところで外では雪が降っています。白い、氷点下の世界。

2013/02/21 (Thu) 23:29 | yspringmind #- | URL | 編集

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