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冬らしい天気。空は一向に晴れず鼠色。これがボローニャなのだから仕方が無い。多分2月になれば青い空を望むことが出来るだろう。少なくとも私が覚えているボローニャの2月とはそんな青い空ある。空気が飛び切り冷たくて寒くて仕方が無い分だけ、空がすっきりと高く青い。分厚い雲に覆われて何処もかしこも鼠色の1月よりはずっといい。それにしても1月になって日が少しずつ長くなってきたのを実感する。確実に春に向かっているのだ、と思うと気分が良い。と思っていたのに。朝から雪が降った。朝、まだ空が酷く暗い時間に窓の外を眺めたときは目にも見えないような、音も聞こえないような雨だったのに。雪は昼過ぎまで降り続き、一面を白くした。いやいや、寒い。と窓から外を眺めながら、それでも幸運だったと胸をなでおろす。もしまだピアノーロに暮らしていたら、大変だったに違いないからだ。そういえば数日前も雪が降ったらしい。ボローニャでは雪片のひとつも見かけなかったというのに。此の寒さと、雪が降ったり止んだりは週末まで続くらしい。

私がローマに暮らし始めたのは17年前の1月だった。ローマにしては寒い日で、ボローニャから着てきたオーバーコートが丁度良かった。はじめは相棒の友人宅に、そして直ぐに新聞で見つけた旧市街の広場の前にある古めかしくも立派なアパートメントに暮らす老女のところに部屋を借りて住んだ。ひとりでアパートメントを借りたかったが高くて手が出なかったからだ。借り部屋とて決して安くなかったが場所が便利そうだったから、何か不都合があったら別のところに移ればよいと思って、軽い気持ちでそこに決めた。場所は悪くなかった。窓から見える広場の様子を眺めるのが好きだった。しかし驚くほど狭い部屋で、キッチンもバスルームも思うように使わせて貰えない。もうすぐ85歳になるらしい老女場始終見張っているのだ。お湯を使わないように見張っていることもあれば、ガスを使わないように見張っていることもあった。一番不便だったのは夜も9時になると扉をきっちり閉めてしまうことだった。つまり門限が9時だったのだ。ローマにこれといった知り合いのいない私だったから取り立てて不都合にも感じなかったが、其のうち知人が増え始めると折角誘われても夕食に出掛けることもできず、残念な気持ちになるのだった。近くに毎朝食料品市場が建った。だから此の界隈には食料品店が少なく、朝市に通うことが出来ない私は夕方店探しに苦労した。例えば果物。探しても探してもバナナの一本が手に入らなかった。其のうち朝市に立ち寄って仕事へ行くようになった。バナナやオレンジの入ったプラスティックバッグを下げての出勤はあまり格好良くなかったけれど。老女の家は代々時計屋だった。金製の懐中時計などの高価なものが家の何処かに置かれているらしく、誰かに盗まれるのではないかといつもびくびくしていた。階下には息子家族が住んでいた。立派な装いをした息子は、私を大そう気に入っていた。日本人は礼儀正しいから、とのことだった。日本人に部屋を貸していれば問題ないに違いない、と思い込んでいる節があった。が、私は2月の終わりのある日、この家を出ることを宣言して息子を酷く悲しませることになった。自分の老いた母親が原因なのだろうかと何度も私に訊いた。母親の振舞いのせいでこの部屋に長く居ついた人がいなかったといって首を横に幾度も振っていた。確かにそれも理由だったが、此の辺りが意外に治安の悪い、不都合な界隈であることがわかったからだった。勿論それは言わなかった。何しろ此の家族はここに住んでいることをとても誇りに思っていたからだった。200年に建てられた歴史ある建物に暮らしていること、ローマの旧市街に暮らしていること、名のある大きな広場を部屋の窓から眺めることが出来ること。私は友人と暮らすことにしたのだ、と言って家を出た。それは満更嘘ではなかった。テヴェレ河の向こうにある、プラティという界隈に暮らす若いイタリア人たちと暮らすことになったからだ。それが私の冬のローマの思い出。思えば何も解らずに、よくもあんな危なっかしい界隈をひとりでぷらぷら歩いていたものだ、と思い出しては笑いがこみ上げる。17年も前のこと。今となってはあの老女も息子も、エレベーターの無い古い建物の階段を4階まで毎朝夕上り下りしたことも、狭すぎる部屋も、窓からの眺めも古書の一頁と化してただただ懐かしい。私の冬の思い出のひとつ。


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