彼女

Immagine 235 (Small)


正午を過ぎた途端、急に気温が上がった。ほんの少し前までは時々冷たい風が吹いて上着の襟を立てなければならなかったと言うのに。それにしてもまるで5月のようである。今日が特別そうなのか、それとも平日の昼間は職場に閉じこもっているために知らなかっただけで最近毎日そうなのか。兎に角3月とは到底思えないような気候である。長い冬に飽き飽きしていた私にとっては嬉しいの一言に尽きる。出来ればゆっくりと春を通過して貰いたい。今日は歩きながらふと思いついていつもと違う方向へ足を運んだ。この辺りにはあまり来ない。理由は無い筈だけど、ひょっとしたら学生が多いからかもしれない。それは彼らへの一種の羨望なども含まれているのではないだろうかと思い当たって、苦笑した。後戻りできない人生。道をそれることがあったとしても、時には立ち止まることがあったとしても、先に進む。そういうことを大人になって学んだ。学生たちを眺めていると自分のあのよき時代を思い出して後戻りしたくなる。戻れるものなら戻りたいと思うくらい、あれは確かによい時代だったのだ。この通りはボローニャに住んでいる人なら誰でも知っている。本当に町のど真ん中なのに、何故かひと気が少ない。静かだから自分の靴音が低く響く。一年中ポルティコの下に出されているテーブル席に着く人達の脇を通り過ぎながら、思い出した。シボルのことだった。彼女と知り合ったのは今から20年も前のこと。私よりも少し若かったが、彼女は精神的に大変大人で時には彼女から教え諭されたものだ。シボルは香港の裕福な家に生まれ育ち、憧れていたパリの生活を経てアメリカにやってきた。美しいシボルはシンプルな装いを好み、それが彼女の美しさを際立てていた。もともと同居人の友人だったが、そのうち同居人がいなくても家に遊びにきたり私を連れ出すようになった。あの日の夕方、まだ明るいというのに東の空にもう月が出ていた。それは美しい真珠のような満月で、私たちは丘の上から長々と続く階段の道を下りながら月を眺めた。彼女はいつもこんな風に訊くのだ。ねえ、それであなたはどう思う? 彼女は欲しいものは何でも手に入る恵まれた環境にいるくせに、いつも手に入らないものについて悩んでいた。それは例えば好きな人の関心をどのようにしてひけばよいのかとか、お金で買えないものだった。あの日彼女はこんなことを言った。あなたのように夢中になって頑張っている人がたまらなく羨ましい。あの頃私は確かに一生懸命だった。でもそうでもなければ生活できなかったのだ。勉強をしながら仕事に励み、その合間にこんな風に友人と会ったり、時にはちょっとした恋愛をした。だから私はこんな風に答えたのだ。ねえ、シボル、私はあなたのようにさらりと当たり前のように素敵な生活が出来る人が羨ましいのよ。すると彼女は足を止めて月のほうを見つめると、こんなのは素敵な生活ではないと言った。彼女は遠い目をしていたが世間によくある手に入らぬものを欲しがる類と思って私は気にも留めなかった。あれから暫くした頃、彼女から電話があった。しかし私は留守だった。留守番電話に、また電話するからと彼女の声が残っていた。次に掛かって来たときも私は留守だった。留守番電話に、電話をくださいと入っていた。神妙な声が気になって電話をすると香港に帰ると言う。それも直ぐに。どうやら父親からの命令らしかった。彼女があの日言わんとしていたことがふと浮かんだ。自由。多分彼女には自分で選ぶ自由が無かったのかもしれない。家で決められたとおりの人生。何かに夢中になっても突然打ち切られてしまう。彼女が私を羨ましいといったのはそんなことだったのかもしれない。私たちはもう会うチャンスも無く、電話でさよならをした。通りすがりのような友人関係だった私達。でも私が時々彼女を思い出すように、彼女も思い出してくれたらよいのにと思う。明るい夕方の東の空に美しい月が出ていたら、思い出してくれたらよいのに。ポルティコの下で楽しそうにお喋りをする人達を眺めながら、シボルが私の周囲に存在しないことを寂しく思った。


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コメント

今でも思い出す友だちとの日々。もう会えないけど、でもそのとき一緒だった時間はいつまでも残るものですよね。
なんだか私もいろいろ思い出してしまいます。
でもなんかの拍子にまたつながってしまう人も居るんだし、彼女も自分のことを思い出してくれているときに、自分はまた必死になにかを求めて走っている最中かも知れないし、私たちは大きなうねりの波の中を漂っている気がします。

2012/04/01 (Sun) 19:57 | inei/reisan #pNQOf01M | URL | 編集
Re: タイトルなし

inei/reisanさん、こんにちは。友達と言うのは私にとっては宝物です。小さな様々な思い出を共有していて、もうあえない人も沢山いるけど、またいつかふとしたきっかけで繋がるかもしれないと思うと嬉しいですね。私たちは大きなうねりの波の中を漂っている、ってとてもよい表現だと思いました。ありがとう。

2012/04/02 (Mon) 21:15 | yspringmind #- | URL | 編集

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