思案

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春一番が既に吹いたのかどうか私には分からない。そもそも春一番とは日本にだけ起きる現象なのかもしれないし、それとも似たようなものが欧羅巴大陸にも存在するのかどうかも分からない。でも、存在したらよいのに、と思う。季節を感じさせる春一番という言葉が昔から好きだ。立春から春分の日間に毎年ふらりとやってくる、生暖かい大風が吹くと私は大抵咽喉をやられてついでに扁桃腺が腫れて熱を出して2日ほど寝込むのだが、あの大風が春一番だったのだな、と思うと思わず顔がほころぶのだ。やっと来た春。寒いのが苦手な私にとって、それはひとつのセレモニーのようなものであった。春一番の有無は分からないにしても、三寒四温は此処イタリアにも存在すると思う。私自身がそう感じるだけでなく、何時だか周囲のイタリア人がそれに近い言葉で3月を表現していたからだ。何かと大雑把で無頓着に過ぎていくイタリアの生活の中で、こんなことを耳にしたり感じたりするとほっとする。そして自分がいろんなことに敏感に感じて喜んだり有難く思ったり思案出来る日本人であることを嬉しく思うのだ。
特別困ったことも無く、大きな事件も無く、平たい大地のように続く毎日。病気もせずに仕事へいける毎日を有難く思うべきなのかもしれないが、少し物足らなく感じ始めている。それを誰から我侭と言われたなら、返す言葉も無い。私は今まで自由奔放にしたいことをしてきた。数年前からそんな自由が利かなくなって、限られた枠の中で出来ることを自分なりにしてきたが、それでは満足できなくなってきたのだろう。私にはひとりの友人が居た。私より8つくらい若い、エネルギッシュで変化を恐れずに新しい世界に飛び込んでいく女性だった。彼女とはフィレンツェで働いている時代に知り合い、私はあっという間に彼女が気に入った。彼女のほうがどう思ったかは分からないが、しかし時には一緒にエノテカでお喋りをしたり美術館に足を運んだので、案外悪くないと思ってくれていたに違いない。彼女を見ていると若い頃の自分としばしば重なった。結婚をしていないために自由な毎日、しかしその分なんでも自分でしなくてはいけなくて、毎日あちらにこちらに走り回っていた。それで居てそんなことすらも楽しいかのように、大変なんですよと言いながらきらきらと顔を輝かせていた。私がアメリカの生活に飛び込んだ頃がそうだった。頼る人はひとりも居なくて、むしろ自分だけが頼りだった。こんなことが自分の人生の中で起きるとは思っていなかったような心細い毎日、しかし同時に驚くほどポジティブで明日を迎えるのが楽しみでならなかった。次は一体どんなことが待ち受けているのだろう。私はそれを乗り切るのだ。と、心細くも不安より希望に似たものを沢山胸に抱えていた頃のことだ。彼女を見ているとそんな自分を思い出して、頑張れ、頑張れ、と私は心の中で応援したのだ。それで今の自分の生活は、そんなことが欠けているようだ。それは安定という言葉に摩り替えるととても聞こえが良いのだけど、自分らしくないように思えてならない。先日、今はイタリアに居ない、はるか遠くに暮らす、相変わらず前向き精神で頑張る彼女から便りを貰ったせいなのか、それとも春とはそんな風に思案する季節なのか、こんなことを考える毎日だ。


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