つつじに想う

今日は復活祭の翌日のパスクエッタという祝日。それに今年はイタリア解放記念日が重なって二重の祝日となった。其れがめでたいかどうかは別として、祝日が重なっても決して振り替え休日なんてことにはならぬイタリアなので正直言って残念でならない。と言ったら人は笑うだろうか。そんな風に思っているのは私だけなのだろうか、誰の口からも不満の声が零れないところを見ると。世間は祝日で私も仕事はお休みだけど特別なプランがないので旧市街へ行った。丘の町ピアノーロからボローニャ旧市街へ行くバスは日曜祝日ともなると一時間に一本しかなく、其の一本を逃してはいけないと忙しい朝であった。そんな時に限ってバスが遅れてくるもので、案の定私が目指したバスも15分遅れでやって来た。ところがバスに乗って理由が分かった。下車する為のドア、つまりバスの車体の中央に設けられている降り口のドアが何者かによって破壊されたのであった。其のドアと言うのは分厚いガラスで出来ていて、その半分以上が無くなっていた。ドアの近くに座らないで下さい、下車は前の入り口からどうぞ。運転手が各停留所から乗り込んでくる客人たちに丁寧に説明しているのを見ながら、これでは遅れてきても仕方がない、と乗客者の誰もが思ったのだった。そうして通常より長い時間を掛けてボローニャにやって来た。二重の祝日だからひょっとして大層賑わっているのではないだろうかと思っていたが、驚くほど静かだった。店と言う店が閉まり、と言っても勿論閉まっていると予想していたが、気に入りのバールまで休みとは思っていなかった。多分あそこだけは開いている。と、勝手に予想していたのでがっかりだった。まあ宜しい。空いた道を歩くのは私の好むところであり、多分もうひとつの気に入りのカフェZanarini はきっと開いているに違いない、今日が月曜日だとしても、だ。その辺がZanarini の良いところで、何処もがしまっているときは必ず開いているZanarini なのであった。ひと気のない道を自分の庭のように我が物顔して歩いた。道の真ん中辺りに来て燃えるようなピンク色のつつじを見つけた。つつじが日本の花かそうでないかは私には分からない。でも少なくとも私にとっては沢山の日本の思い出と重なる大切な花なのである。そういえばこれと良く似たつつじが家の庭にもあった。こんなに大きくなかったけれど父がいつも手入れをしていたので毎年この季節になると美しく咲いたものだった。父は盆栽とかには関心が無かったけれど花が咲く植物が大好きで、そうそう、沈丁花とか金木犀、くちなしの木の手入れを好んでしていた。あの広い庭のある家は父が亡くなってから独りでは広すぎるからと母が手放してしまった。そんな母を責めるつもりは毛頭無くて、傍にいて一緒に手入れが出来ない糸の切れた凧のような親不孝な娘に腹は立つばかりなのである。それにしてもあの家を買い取った家族はあの庭の植物を大切にしてくれているだろうか。それとも趣味が合わないからといって引っこ抜いてしまったかもしれない。そうでなければいいけれど。せめてあのつつじと金木犀だけは、と。つつじを眺めていたら後ろから声が聞えた。まあ奇麗、本物かしら。人というのは面白い。私は少したりとも本物かどうかなんて考えはしなかったけれど、そんな考え方もあったか。声の主が私の横に立ってつつじに鼻先をくっつけて匂いを吸い込んだ。これも面白い。私はアレルギーなので鼻先をくっつけるなんて恐ろしいことは出来ないわ。と隣の彼女に言うと、屈託のない笑顔を見せてくれた。このつつじ、何時まで此処にあるだろうか。次に来る時もあると良いけれど。

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