本と私

好きなことは沢山在る。其の中のひとつが本を読むことだ。昔から好きになると飽きるまでとことん追い求める癖があって、そんな癖によってひと目で良いインスピレーションを得たアメリカの町に通いに通って挙句の果てに暮らすようになったりもした。それから例えば好きな映画は何十回も見たり、好きな写真を毎日のように鑑賞したり、それから本にしても次のページに何が書かれているのか分かるくらい読んでいても数ヶ月経つと本棚から引っ張り出して読み始める。そんな私を相棒はまるで風変わりな動物を見るような目で眺めるけれど、あちこちに散らばった私の大切な友人達はそれが実に私らしいと言う。飽きるまで追い求めると言うけれど実際飽きてしまったことはない。思うにこれは大変幸せなことなのではないだろうか。勿論、ひとつのことに執着して新しいものに接するチャンスが他の人より少ないかもしれないけれど、例えば本に関して言えばかなりの本を読んだけど結局いつものあの本に戻るといった具合である。アメリカに居た頃はエイミー・タンの本が大好きだった。原語のペーパーバックを読んだときの感動もさることながら、あれを日本語に訳したものも素晴らしかった。翻訳者の翻訳力の凄さと感性に脱帽したものだ。それでペーパーバックと翻訳本を行ったり来たりしながら何年も読み続けた。ボローニャに暮し始めてから何年か経った頃、日本人の青年と知り合った。彼は私より幾つも若く、ひ弱な文学青年といった感じだった。其の第一印象はまんざらはずれでは無かったと思う。いつも家に閉じこもってこつこつ物を書いたりパソコンに向かっている時間の長い人であった。今となってはどのようにして彼と知り合ったのか幾ら考えても思い出せないけれど、兎に角仕事をしないでぶらぶらしていた私は旧市街に行ったついでに時々彼の家に立ち寄った。彼の家は旧市街の便利な場所にあったのだ。そして彼は沢山の本を所有している人であった。それで私は時々そんな風にして立ち寄っては本を数冊貸して貰ったのだった。其の中に其の本があった。彼から借りた須賀敦子さんの「ミラノ 霧の風景」という題名の本が気に入ったと返却がてら述べたら、この作者が翻訳した本があるけれど、と奥から引っ張り出してきてくれたのがナタリア・ギンズブルグの本だった。ある家族の会話と言う題名の本だった。ギンズブルグ? 聞いたことのない名前ねえ。そんなことを言いながら借りて帰った。初めは何だか良く分からなかった。初めのページから父親が家族を叱咤する会話で始まって、内心がっかりもしたのだ。ところがページが進むに連れて止まらなくなった。自分の家族について書き綴ったナタリアの何という観察力、何という描写力。あまり飾らない文章が尚更私の好みだった。いつもならあっという間に読み終えてしまうところだけれど、それが勿体なく思ったのか、それともあっという間に読み終えてしまうことが出来なかったのか、何日も掛けて読み上げた。そして其の晩もう一度初めのページから読み始めた。運命的な本、と呼ぶと良いかもしれなかった。知人に本を返却するまでに一体何度読み返しただろう。そうして私は納得いくまで読んでから、しかし別れを惜しむような気持ちを引きずりながら彼の家に本を返しに行ったのだ。数年経ってからボローニャの本屋で原語の本を手に入れた。しかし何しろ1900年代前半に生まれ育った彼女の書く文体は私には難しくて数ページを読むのに何時間も必要だった。だから彼女の文章を楽しむというよりは何しろ大変で、というのが本心だった。そして文章を目で追いながら、これを翻訳した須賀敦子さんの素晴らしさに脱帽したりもした。あれから何年も経って、私はようやく翻訳された本を手に入れた。誰に返す必要も無い、正真正銘の自分の本。これを手に入れた日は大変だった。早く家に帰って読みたい衝動に何度も駆られて困った。そうして家に帰るなり私はどっしりと腰を下ろして食事をするのも時間が経つのも忘れて読み耽った。感動とかそういうものとは違う、ごく普通の家族の日常を同じ部屋の角に置かれた椅子に座って眺めているような錯覚。そんな言い方が一番合うかもしれなかった。彼らと共に反ファシズムの時代や世界大戦を通過した様な気分になった。そうして読み終えるとあの日そうしたようにまた初めのページから読み始めた。そうして2ヶ月もするとまた本棚から引っ張り出してこの本を読んだ。こんなに気にいって繰り返し読む私の姿を、ナタリア・ギンズブルグと須賀敦子さんは空の上からそっと覘き見て喜んでいるに違いない。
本屋の前を通ると足を止めるのも私の癖のひとつ。どんな本があるのだろうか。ひょっとしたら運命的な本が此処にあるのかもしれないと。

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コメント

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こんにちは。少し前から、いつも楽しみに拝読させていただいております。ちょうど今、須賀敦子さんのエッセイ「コルシア書店の仲間たち」を読んでいて、たまらなくなってコメントします。はじめまして。
私も、気に入った本ばかり何度も繰り返して読むので、高校生だった頃からの連れ合い(本)は表紙や角がすでにもろもろになっていたりします。でもまたよんでしまう。飽きないです。笑。
かといって、無類の本好きというわけではなく、特定の本の世界に入り込んで味わうのがすき、という保守的な趣味です。
[文字数制限に引っかかってしまう為二回に分けてコメントします。長文すみません。]

2011/04/16 (Sat) 05:37 | ayaco #79D/WHSg | URL | 編集
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須賀敦子さんのこの本と出会ったのは、偶然入った古本屋さんでした。表紙に惹かれて連れ帰って、読み始めるととまらなくて。
大きな話のうねりはないけれど、描かれている人々のひととなりやその生活をすぐ傍から自分も一緒に見つめているような、なんだか自分も、ミラノの教会の軒を借りた小さな書店にいるような感覚になります。
古本屋から家に帰ってきたあとに、ナタリア・ギンズブルグの「ある家族の会話」を翻訳された方の著書であろことに気づいて、とても嬉しくなりました。
長文になり、すみません。
今日の記事、とても嬉しい気持ちになりました。
「ミラノ 霧の風景」も、探して読みます☆ありがとうございました。

2011/04/16 (Sat) 05:38 | ayaco_02 #79D/WHSg | URL | 編集
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ボナセ~ラ
わぁ大好きな一冊です!やさしさあふれる文章だと感じました。さてフローレンスのバールですがPITTIかRICCHIではありませんか?じゃないとしたら残念知らないです!場所覚えてたら教えてください。おいしいエスプレッソ飲みに行きたいので・・自分の行動範囲って案外狭いかもしれませんね。

2011/04/16 (Sat) 21:12 | florentia55 #79D/WHSg | URL | 編集
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ayaco さん、初めまして。こんにちは。今、「コルシア書店の仲間たち」を読んでいるのですね。それを読んだのはもう随分前のことなので鮮明には覚えていませんが、良い本だったことだけは記憶にあります。確かに話に大きなうねりはないのです。多分彼女自身、淡々とした性格の方だったのではないかと想像し、其の彼女らしさがそのまま本という形になったのではないかと思うのです。良い本と出会えたときの嬉しさは格別ですね。これはそんな本に出会った人にしか分からないことなのかもしれません。私の本棚にも繰り返し読んで表紙の角が擦り切れた本が幾つもありますが、それらは単なる古本ではなくて大好きな本である証拠なのですよ。
長い長いコメント有難うございました。これからもお付き合いお願いします。

2011/04/16 (Sat) 22:26 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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florentia55 さん、こんばんは。共感していただけてとても嬉しいです。さて、フィレンツェのバールですけど、其のバールはもう無いのですよ。多分10年前くらいになくなってしまいました。そこに居た人は、その後サン・ロレンツォにバールをだしてそれなりに繁盛しているようですが、あの美味しいカッフェはもう頂けないのですよ。フィレンツェで美味しいカッフェが頂けるところがあったらば、是非教えてくださいね。

2011/04/16 (Sat) 22:33 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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私も同じ映画を何度も見たり同じ本を繰り返し繰り返し読み返すタイプなので賛同者を得る思いでした。仰っているギンズブルグの本は読んだことが無かったのですが日記を拝読して是非とも読みたくなりました。探してみたのですが英訳(Family Sayings)は廃刊になったらしく入手が困難そう、しかしオリジナル(Lessico famigliare)は私の語学力では到底無理そう・・・日本から邦訳を送ってもらおうかと思案中です。ご紹介ありがとうございます。また是非お奨めをお知らせください。

2011/04/17 (Sun) 10:27 | orpheusbritanicus #79D/WHSg | URL | 編集
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・・・と書いた後すぐ、「The Things We Used to Say 」という題で新しく英訳されたものが手に入ることが分かりました。早速注文しました。楽しみです!!

2011/04/17 (Sun) 18:32 | orpheusbritanicus #79D/WHSg | URL | 編集
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orpheusbritanicusさんも同じ映画を何度も見たり同じ本を繰り返し読んだりしますか。嬉しいですねえ、そういう人の存在を知るのは。てっきりそんな人は私だけで、私は大変な変わり者なのではないだろうかと心配していたんですよ。英語のタイトルはThe Things We Used to Say という新しいタイトルで出ているんですね。英語になるとどんなだか、興味深いです。何時か読んでみますね、英訳本を。古い時代に生きた家族の本です。若いorpheusbritanicusさんにどんな印象を与えるのでしょうか。ゆっくりじっくり読んでくださいね。お勧めの本があったら、是非私にも教えてください。宜しくお願いします。

2011/04/17 (Sun) 23:00 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集
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>若い

・・・私はいつまでも子供っぽいのでそういう印象を与えてしまったのかも知れませんが、実はちっとも若くありません(汗。おそらくyspringmindさんよりも年上なのでは、と思っているのですが・・・)。
私も好きな本について書いてみたいな、と思っています。

2011/04/18 (Mon) 11:38 | orpheusbritanicus #79D/WHSg | URL | 編集
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orpheusbritanicusさん、多分、多分なのですがこの件に関しては私のほうがずっと上。色々分析した結果、そういう答えがでました。ま、いいんです。心はいつまでも20代なので。

2011/04/18 (Mon) 22:34 | yspringmind #79D/WHSg | URL | 編集

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