あっ、彼女が居る

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5月は今日で終わり。雨が降ったことくらいしか覚えていないのは、多分私ひとりではないだろう。近所の青果店の店主も言っていたけれど、月の3分の2が雨降りなのはあまりにも残念過ぎた。あまりの湿度に黴が生えそうだと冗談を言ったら、シニョーラのような人に黴は絶対生えませんよ、と店主が神妙な顔で言うので内心驚いた。真面目な人なのだ。人の言葉を100パーセント真面目に受け取るこの人に、下手なことは言ってはいけないと反省した。

そんな雨降りも一昨日で終わったらしく、昨日から青い空が広がり気分が良い。本来ならば5月とは、こんな青空の月なのだ。ぎりぎり間に合ってよかったと、何処へ行っても居合わせた人達と喜びを分け合う。
昨夕はあまりに気分が良いので、旧市街へ行った。晴れの日は早朝から空が明るく、そして夕方だって空が何時までも明るい。この時期だから当たり前といえば当たり前、しかしそんなことを忘れてしまうほど晴れの日が少なかったのだと、ポルティコの下を歩きながら思った。この辺りは暫く歩いていない。贔屓の仕立て屋さんがある通りだ。仕立て屋さんが出産の為に11月に休業に入り、僅か3カ月後の2月早々復帰したが、閉店時間が1時間早くなって仕事帰りに立ち寄れなくなると必然的に足が遠のいてしまった。店は土、日曜日が定休日なのだ。仕方がない。他の店を探すとしよう。と、色々探したが、未だに見つからないで居た。あーあ、仕立て屋さん居ないかなあ。センスのある、上手に仕上げてくれる人。呟きながら久しぶりに其の道を歩いていたら、驚いたことに店のシャッターが上がっていて、店の照明がついていた。ガラス越しに目を凝らしてみると、奥に彼女が。ガラスの扉を軽くノックして彼女に合図をおくると、手作業に没頭していた彼女が顔を上げ、ぱっと顔を明るくすると店の扉の鍵を開けてくれた。店の扉には常に鍵が掛っているのだ。店に入りたい客は入り口に備え付けられている呼び鈴を鳴らす仕組みである。私が呼び鈴を鳴らさなかったのは、単に彼女に手を振りたかったからだ。私のノックに気がついて彼女が顔を上げたら、其れで充分だったからだ。彼女は疲れた顔をしていながらも明るい笑みを湛えて嬉しそうだった。疲れた顔をしていたのは仕事の終わりの時間帯で、しかも目を使う手仕事だからだろうと思った。赤ん坊は元気か、貴方は元気なのかと訊くと彼女は嬉しそうに写真を見せてくれた。とても6か月の赤ん坊とは思えないような精悍な顔立ちだと言うと、生まれた時からそうらしく、6か月経った今は随分と大きくなって誰もが驚いているのだと言いながら、このぐらいだと手で示した。今は子供と家と店とで毎日が大忙しだが、それでも仕事が出来るのが嬉しいと、彼女は仕事の復帰を本当に喜んでいるようだった。話によれば夫が失業中で、だからこの店が頼りの綱なのだと言った。有難いことに良い客が沢山居て、3か月店を閉めたのに店を開けてみたら常連客が足しげく通ってくれるので、疲れたなどと言っていられない、そんなことを言ったら罰が当たる、と彼女は言った。常連客が持ち込む山のような仕事をこなすために、朝は7時半に店に来て仕事をしているのだと言った。彼女の常連客とは旧市街に点在する衣料品店。衣料店の客に合わせて様々な寸法直しやアレンジを彼女特有のセンスで仕上げるのだが、仕上がりが大変良いので此処に持ち込む店の数の多いことと言ったら。それから私のような客も。店で買ったものを彼女のところに持ち込んで、彼女に意見の意見を聞きながら、こうしましょ、ああしましょと直すのが好きな客。店の人に見て貰うよりもずっと良い、と言うのが私の感想なのである。あなたの仕事は上等だから一度頼んだ客はそうそう去りはしないだろうと私が言うと、ありがとうと言って私の首に両腕を巻きつけて抱きついた。彼女は心配なのだろう。小さな赤ん坊が居て、夫の失業、そして産休からの復帰。彼女の顔を見ながら、そうか、そういう訳で疲れた顔をしているのかと思ったら胸がぎゅっと痛んだ。仕事帰りには店が閉まっているからどうしようかと思っていたことを話すと、電話番号をくれた。事前に電話をしてくれたら、店で待っているからと言って。こんな有難い話は無かったから、今度は私が彼女の肩を抱いた。また近いうちに、と約束して店を出た。色んな人が居る。世の中には色んな素晴らしい人が居る。でも、私は中でも彼女のような一生懸命な人が好きだ。どんなことも当然などと思わずに、感謝しながら生きている人が好きだ。

5月よ、さようなら。名残惜しいけれど時間は止まってくれない。明日目を覚ましたら6月。どんなことが待っているのだろうと心を躍らせる。




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サクサクの甘い

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毎日帰り道に雨が降る。だから寄り道はあまりしていない。バスの中から見えた麦畑。ボローニャ市内の住宅街の中に存在する麦畑に、初めてみた時は心を躍らせた。ああ、麦畑だ、と。鮮やか緑の麦の穂が雨に濡れて銀色に光る様子を眺めながら、ボローニャに暮らし始めたばかりの頃のことを思いだした。私達は住む家を探して田舎にまで車を走らせたものだ。相棒と、相棒の幼馴染と、その恋人との4人で共同生活をしようと話が進んでいた。そもそも4人で暮らす話に私は不安を感じていたが、恐ろしい田舎に連れていかれた時には、これは大変なことになりそうだと、それまで黙っていた私が待ったをかけた。それは本当に何もない、麦畑の真ん中にある田舎の古い一軒家だったから。でも、麦畑の一軒家もこんな街中ならば話は違う。街に暮らしながら麦畑を眺められる毎日は、心が休まるに違いないのだ。

ところで私は甘いものが好きだけど、メリンガという名の菓子は苦手だ。卵白と砂糖をしっかり泡立てて乾燥焼きしたもので、歯触りはサクサクと軽快だが、しかし甘い。甘いものが好きな私が甘いと言うのだから、これは筋金入りである。相棒を含めて多くのイタリア人がこの菓子を好み、店先に並んでいるとつい注文してしまう、と言った類の菓子。それを食べると自分の下が目リンガのこぼれかすで一杯になり、口の周りや頬にもかすがつくことが多い。そうして誰かに、あ、君、メリンガを食べたね、などと言われるのだ。そんな苦手な類の菓子だが、店のショーウィンドウに置かれていると、ついつい欲しくなるもので、袋に3つ入れて貰った。大きなメリンガ。私の為にひとつ。相棒の為にふたつ。だって最近肌寒いから、などと自分に言い訳をして。

それで、明日は晴れるだろうか。




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記憶のかけら

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木箱の蓋を開けたら思いがけない物を見つけた。アメリカの海岸で拾った艶やかな丸い石。相棒が引っ越しの時にこの箱に詰め込んだのだろう。他の人には馬鹿げたものでも相棒と私には思い出深く、どうしたって捨てることなど出来ない物のひとつ。記憶のかけらみたいなもの。

東京の小さな家に暮らしていた頃、棚の中にカメラがあった。それは今で言うカメラとは随分と姿が異なり、写真機と呼んだ方がしっくりくるような、そんな感じのものだった。黒と銀の二色で構成されたそれは、手に持つとずしりと重かった。機体は茶色の革のカバーで覆われていて、父と母がそれを大切にしているのが窺えた。父が写真を写すこと、何かを写真に残すことを好んでいたようだ。その証拠にうちには沢山の写真があった。姉と私が成長する過程や、母と父の若い頃の様子。それから時には家族で写真屋さんに写真を撮りに行った。一番覚えているのは私がやっと歩き始めた頃の写真。黒いベルベットの、恐らく母が縫ったに違いないワンピースを着て背の高い椅子に座っていた。襟元にはレースの襟が縫い付けられていて、これも母の手製に違いなかった。その横には姉がいて、私達は、じっとして、動かないで、と言われたのだろう、身体を固くして表情までもが硬かった。そんな風にして両親が私達の様子を写真に残してくれたことを有難く思う。ただ、その有難さに気付いたのはごく最近のことだ。それらの写真は今何処にあるのだろう。今も母の手元に在るのかどうかは分からない。あればよいと思うけれど、無くても母を責められまい。ところであの写真機は東京から田舎に引っ越してからもうちにあった。何時まで使っていたかは思いだせないけれど、かなり活躍していたことは確かである。新しいものに目がくらみやすかった私と姉には単なる鉄の塊でしかなかったけれど。その写真機も何処にあるのかわからない。恐らく何処かに置き去りにされたのだろう。父が亡くなり、母が独り暮らしには広すぎる家を売り払う時に多くのものを寄付したと聞いたが、その中に混じったのかもしれない。何の機種だったかも覚えていなければ手触りさえも思いだせないが、多分私の写真好きはあれが原点だったかもしれない。父譲りと言うことになるのだろう。私は父から他にも譲り受けたものがある。文字好き。読み書きするのが好きといった、地味な父からの贈り物だ。地味だった父らしい、しかし素晴らしい贈り物だ。今頃になってその素晴らしさが分かるようになった。まだ父が生きていたら、ありがとうと言いたいのに。もっと早く気付けばよかったのに。

雨はまだ降り続く。明日も雨、明後日も雨。雨降りを楽しむ術を知りたい。昔、階下のアンバーという名の少女は雨の中で踊るのが好きだったけれど、他に何かないだろうか。例えば雨の写真を撮るとか、例えば雨の歌を書くとか。




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美味しい塩のある生活

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外の雨の酷いことと言ったら。湿度がすごくて日本の梅雨時のようだと窓を開けて眺めた時には雨のひとつ粒も落ちてこなかったと言うのに。窓を閉めて棚から本を取り出している間に降り始めた雨。雨とは初めはゆっくり降り始めるものと思っていたが、それは実に勝手な思い込みだと私を諭すような雨が突然降ってきた。驚きなんてありきたりな言葉では言い表せぬほどの感情。窓辺に座っていた猫と私は言葉もなく外の雨を眺めた。もうじき5月が終わる。こんな風にして。こんな残念なことはないと空に訴えてみようか。

いつの頃からか、私は塩に微妙に凝っている。昔は塩なんてどこのものでも同じだと思っていたが、ある日、母がいつもと違う塩を家に持ち帰り、それをちょいと舐めてみたところ、単なる塩辛いものではないことに気付き、塩とは奥が深いものだと驚いたものだ。私が10歳になった頃の話である。あれから随分と月日が経ち、相棒暮らすようになると塩が大変身近なものになった。パスタを茹でる為である。ところが当時アメリカの、私が暮らす界隈の店には、岩塩というと足の治療に使うためのものしかなかった。岩塩を湯の中に入れて足を浸す、あれである。料理用ではないが岩塩であるのは違いなく、足の絵が描いてある大袋を抱えて家に持ち帰ったものである。恐らく少し足を延ばしてイタリア人街まで行けば料理用もあっただろうが、しかしイタリア人街の店は何処も高く、それにパスタを茹でる為に重い塩を抱えて帰るなんて当時の私にはとんでもない話だった。ボローニャに暮らすようになると、岩塩が安易に手に入った。やはりイタリアでは岩塩は欠かせない物なのだ、と納得して頷いたものである。初めは国産の、シチリアはトラーパニ辺りの塩。岩塩に限らず料理に使う細かく砕いた塩も種類が豊富で、これをあの頃の母が見たら喜ぶに違いないと思った。母もまた、こうしたものが好きだったから。そのうち私はフランスの塩にぞっこんになり、そしてポルトガルで塩田に足を運んで素晴らしさを知ると、この塩なしで食事はできないとまで夢中になった。この塩には相棒も脱帽で、遂にこの塩が家に無くなると何とか手に入れる方法は無いかと頭をひねった。ポルトガルの塩を使い終えてからの代用はフランスの塩。そして最近はヒマラヤの塩も仲間に入った。此のヒマラヤの塩は昔から名前を知っていたし、店に並んでいるのも幾度か見かけていたけれど、最近までなぜか手が出なかった。あの美しい薄いピンク色が胡散臭かったのか、気に入らなかったのか、理由は今となっては思いだせない。それでヒマラヤの塩だけど、結果的にはとても美味しい。何故もっと早く使ってみなかったのかと、野菜の上に塩をばら撒きながら、相棒と頭をひねるばかりである。兎に角美味しい塩がある幸せとは、例えば美味しいオリーブオイルを手に入れる幸せに等しい。こういうことが幸せで喜べるのだから、私達の生活の中に如何に沢山の幸せが存在するか分かるというものだ。ヒマラヤの塩を野菜の上にばら撒きながら、ふと思いだして姉にそのことを知らせると、そんなことはとっくの昔に知っていると言う。そう言われて、姉がいつも私の先を行っていることを思いだした。例えばビートルズのこと。例えばアメリカのラジオを聴く楽しみ。踵の高い靴、美しい色のワンピース。塩の話から色んなことを思いだした晩だった。

5月最後の一週間が喜びあふれるものとなるように。皆が健康で楽しい気持ちで生活できるように。今日の私は何故だかそんなことを考えている。まるでホリデーシーズンに贈るカードのフレーズのようだ。




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風のささやき

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昨日の、昼間の晴天を裏切るように夕方雨が降ったらしい。らしい、というのは私が知らぬ間に降ったからだ。日没前に窓の外を覗いたら地面や屋根が濡れているのを見て、ああ、また雨が降ったのか、と知ったわけである。夕立といえば聞こえがいい。初夏のシンボルみたいなものだから。ポジティブにそう思うことにすればいい。そんな具合だったから、今朝の空が明るかったのが嬉しかった。週末の晴天。週末の空が明るいのは何よりも有難い。
大窓の外に茂るのは菩提樹の葉。2か月前までは裸だった枝がこれほどもの葉を茂られて、向こうの敷地の建物の姿を遮る。菩提樹の樹がさわさわと音を立てて揺れる。私は風のささやきに耳を傾けながら昼寝をする。枝に栗鼠がやってきて、街中に居ることを忘れさせる。長閑な、幸せな午後。

イタリアに引っ越して来たのは24年前の昨日だ。そんなことを思いだしたのは、ほんの偶然なこと。カレンダーを眺めていたら、ああ、そうなのかと気が付いただけだ。私にとってそれは、忘れ難いことでありながら、もう忘れて良いことのひとつになりつつある。沢山の希望を持って此処に来たが、アメリカに暮らすイタリア人達から聞かされていたのとは程遠い、実に厳しい現実が待っていた、それが私のイタリア生活の始まりだった。もし私が、その昔アメリカに心を寄せたように、イタリアが好きで好きで幾度も通い詰めて暮らすようになったのならば、多くのことが異なっていたに違いない。少なくとも気持ちが異なっていただろう。どんな苦境に会っても、でも私はイタリアが好きだ、イタリアに居たい、と。人間の気持ちとはそういうものだ。気持ち次第で好転したり、そうでなかったり。相棒にとっても同じだっただろう。20年近く留守にしていた自分の町に戻ってきたが、勿論居場所などある筈もなく、知っているのは自分の家族だけで昔の遊び友達ひとり見つけることが出来なかった。だから、本当に愕然としたのは私ではなく、相棒の方だったかもしれない。相棒が家族のところで見つけた束のような紙きれの中からひとり、ふたりと友人の名と電話番号を見つけ、私達は街を彷徨った。ストラーダ・マッジョーレのポルティコの下に大きなヴィンテージの店を持つロベルタを訪ねたのは初めだったのか、それともその筋向いの同じくポルティコの下に小さな自転車店を持つマウリツィオを訪ねたのが先だったか。兎に角その辺りがは始まりだった。バスにも乗らずに徒歩で、街の反対側から歩く相棒に連れられて、彼らを訪ねた時のことは良く覚えている。暑くて気が遠くなるような日の正午だった。どちらも同じことを言った。何故ボローニャに帰ってきた。何故アメリカに居残らなかったのか。若い頃、彼らは仲間で、誰もがアメリカに夢を抱いた。アメリカへ行こう。そういう時代だったのかもしれない。そんなことを聞いてしまった私は、前途多難、と思った。それがイタリア生活の始まりだった。24年が経って思うのは、少しづつ居心地の良い環境を作り上げて、必要なものを手に入れるのに困ら無くなり文句のひとつもないけれど、ならばここに来て良かったかと訊かれたら、どうだろう。ちょっと言葉に詰まるだろうか。相棒のふたりの友人がイタリアに戻ってきたことを好ましくないことのように表現したのが、私達の此処での生活を暗示するかのようで残念だったか、良いことを言ってくれた人も居た。ボローニャに来て、人伝に知り合った日本人女性が初めて会う私に言った言葉。大丈夫よ、あなたはきっとうまく行くから。言った本人は忘れている。数年前、20年振りに会ったが私のことを少しも覚えていなかったくらいである。彼女にとっては私は通りがかりの人で、記憶のひとつにも残らぬ存在。しかし私にとっては彼女のそんな希望の言葉が有難くてならなかった。こんな簡単な言葉が、相手に与える安堵は限りなく深い。だから私は自分と関わる人達に言う。大丈夫、きっとうまく行くから。
24年が経ったことを相棒に告げると、どうりで年を取った訳だと言って笑い、そして苦労したねと言って静かに私の肩を抱いた。苦労。そう、苦労は確かにしたけれど、これからの人生楽しくやっていければいいと思う。此処にずっと居てもよし。此処での生活を畳んで風に吹かれるまま流れてみるのもいいだろう。私達には失うものは、あまりないのだから。

夕方になって携帯電話が鳴った。出てみると相棒だった。やあ、きみ、また雨が降りだしたよ、と。こんなことくらいで電話を掛けてくる相棒に苦笑。このまま降り続けるようならばテラスの植物に水をくべなくてもよいとの、遠回しの伝言なのかもしれない。




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