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相棒が色々なものを持ち帰った。以前住んでいたアパートメントの住人のミケーラから貰ったものだと言う。ミケーラはお洒落な公務員。お洒落なのは彼女ばかりでなく、彼女の夫も素晴らしい。体型から言えば男性モデルのような感じ。すらりと背が高くて均整の取れた彼は、身に着けている物もシンプルながらより抜かれていて、お洒落なミケーラと一緒に出掛ける彼の姿は惚れ惚れすると言う感がある。しかし彼の仕事はそうしたお洒落の世界とは全然関係が無くて、彼の父親が営む大理石の職人だ。大理石はイタリアでは需要がある。例えば建物の内側の壁や床に使ったり、キッチンの調理台やシンク、バスルーム、店のカウンターにも使うし、それから墓石にも。大理石と言ってもいろいろある。色にしろ模様にしろ、それらひとつひとつを眺めるのは全く楽しい以外の何者でもない。イタリアの大理石は素晴らしいことで有名で、昔アメリカで素晴らしいお屋敷に招いて貰った時にも、エントランスから家の奥まで床に美しい色の大理石が使われていて、これはイタリアの大理石なのだ、との家主の得意げな説明が添えられたものだ。それにしたって本当に美しかった。へえ、イタリアの大理石なのか。私が感嘆したのは言うまでもない。兎に角、ミケーラの夫は、そして彼の父親も大理石の職人だが、彼の父親の夢は画家になることだったらしい。ただ、彼の家は代々大理石の職人だったこともあり、画家になることは許されなかったとのことだった。さて、相棒が持ち帰ったのは、彼が描いた2枚の油絵だった。絵を貰うなんてことは、そうそうあることではない。どうしてなの? と訊く私に、さあ、分からない、でもくれたんだよ、とのことだった。謎は一向に解けないが、しかし嬉しいではないか。人が心を込めて描いた絵を頂くなんて。それから持ち帰ったものは他にもある。ワインラック。使い込んだ感じがあってとても良い。高さ1メートルほどある、錬鉄製のワインを置く棚。縦一列に8本のワインが置けるようになっている。キッチンの隅っこに置いてみたら、とてもいい感じだった。そして赤ワインを2本。ミケーラと彼女の夫はワインが大好き。彼らはトスカーナに休暇用の家を持っているらしいのだが、その周辺の丘をぐるぐる回って美味しいワインを発掘するのが愉しみのひとつらしい。大抵が混じり物無しのBIOのワイン。今までに幾度もお裾分けで頂いたが、どれも飛び切り美味しかった。さて、今回のはどうだろう。それにしたって何故もこう、ミケーラは色んなものを贈ってよこすのだろう。全く不思議でならない。別に私達が貧乏だと思っている訳ではないらしい。何となく贈り物をしてあげたくなる人達なのだそうだ、私達は。それにしたって今回の贈り物はすごい。何と言ったって絵なのだから。1枚は私達の家に。もう1枚は姑の家に飾ることにしよう。
と、そんなことを考えていたら思い出した。モンマルトルの丘を歩いてみたくて、地下鉄駅の長い螺旋状階段を上りつめて地上に出ると、もう方向がさっぱり分からなくなった。手掛かりは標識で、それを手がかりに歩き始めた。少しすると小さな店のガラスの向こう側に沢山の絵筆を見つけた。単なるディスプレイではないらしい。使い込まれた絵筆は、大切に洗われて、次なる出番を待っていると言う感じだった。目を細めて奥の方に焦点を合わせてみたら、既に白髪で白いひげを蓄えた男性が存在することに気がついた。彼がこのアトリエの主だろうか。彼がこの絵筆を一本一本単年に洗った本人だろうか。窓辺を眺めていたら、彼が窓まで来て話をするチャンスを得ることが出来るのではないかと思ったが、彼が窓辺に来ることはついになかった。そんなことを思い出して、今思う。彼はどんな絵を描くのだろう、と。

蒸し暑い晩。10月のパリの涼しさが懐かしい。




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砂粒

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好ましくないことが起きている。勿論、私にとって、のことだけど。英国のEU離脱。これを他国のこと、などと思ってはいられない。いくら経済に疎い私でも、無関係ではいられない。そうだ、無関係ではない。それでいて、どうすることもできないのだから、じれったい話である。暫くこの話題には、私を含めて多くの人が聞き耳を立てるだろう。

ところで大変な暑さである。昨夕は全くの空振りだった。ボローニャ市街地の幾つかの界隈で夕立だったそうだけど、うち辺りでは雨の一粒すら落ちてこなかった。遠い雷音と黒い雲に心を躍らせていたと言うのに。少しは涼しくなるかと思って期待していたと言うのに。一部の界隈で雹が降ったそうだ。それも大粒の雹。雹なんて日本でもアメリカでも見たことが無かったけれど、ボローニャに暮らすようになってからは、珍しいものではなくなってしまった。ボローニャだけではない。イタリア何処でも雹が降る。テレビの報道を見ていると、どこどこで大粒の雹が降って、苗が駄目になってしまったとか、収穫前の野菜や果実に瑕がついて売り物にならなくなってしまったとか、毎年そういう話がある。そう言えば、大粒の雹が降って、手に入れたばかりの新車が傷だらけになったなんて話も聞いたことがある。雹は、案外困った存在なのだ。

6月最後の一週間。週の終わりには7月を迎える。この頃から誰もが心を躍らせる。早い人達は今週末からひと月ほど家を借りて、海や山で休暇を過ごすのだろう。そういう習慣があることを、私はボローニャに引っ越してきて初めて知った。相棒と私がアメリカから引っ越してきたのは、もう21年前のことになる。何の準備もなく、言葉も習慣の心得もなくボローニャに来てしまった私には、全く大変な夏だった。相棒の家族は、7月には必ず海にアパートメントを借りて過ごすのが習慣だった。少なくとも7月は、ということで、年によっては6月からのふた月になることもあったらしい。8月でない理由はふたつある。海が酷く混み合うから。そしてアパートメントの代金が飛び切り高いから、とのことだった。海のアパートメントはいつも同じ。新しい年を迎えると直ぐに電話で予約した。若しくはアパートメントの持ち主が新年の挨拶がてら電話を掛けてきて、そのついでに予約を受け付けると言った具合だった。何故いつも同じところへ行くのか。其れほど、そのアパートメントが素晴らしいかといえば、そう言う訳でもないらしい。ただ、彼らと同じように他の人達も毎年同じところを借りるから、其処へ行けば見慣れた顔に会える、と言うのが理由だったようだ。トリノの人、マントヴァの人、と内陸に暮らす人達ばかりで、夏だけの仲間と言うことらしかった。それでボローニャに来て初めての夏、つまり住み始めてやっとひと月が経ったと言う頃、相棒の両親の誘いで彼らの海のアパートメントへ行くことになった。多分2週間ほど居たのではないだろうか。ボローニャの街でもそうだったが、海の町で私は大そう珍しい存在で、何処を歩いていても何時も周囲に観られていた。あ、スイカを食べている。あ、海辺を歩いている。と言ったように。特に子供たちには、私は異星人のような存在だったに違いない。何処へ行っても子供たちが珍しがって後ろについて歩いているので、グリム童話のハーメルンの笛吹き男のような気分になったものだ。今考えてみれば、子供たちが私を怖がらなかっただけでも幸運だった。それから動物たち。兎に角私は子供と動物に人気があって、いつも私の後ろにはずらずらと子供と動物が連なっていた。私はイタリア語が分からなかったから、いつも独りぼっちの気分だったけれど、そう言う訳で案外楽しい海の滞在になったのである。それから私は老人たちにも人気があった。イタリア語は分からないと言っているのに、しきりに話しかけられて、相棒に助けてもらいたいと思う時に限って彼は何処かに雲隠れしていて、さて、困ったなあと思う毎日だった。翌年も翌々年も海へ行った。そして行かなくなったのは、飽きてしまったからではなくて、相棒の母親、つまり姑が病に倒れたからだ。あの年が海の町へ行かなくなった始まり。病に倒れた姑は、それからは決して海へ行きたいと言わなくなった。舅がいくら海に誘っても。あのアパートメントへ行こうと誘っても。あれをきっかけに、姑の心は山へと向いたらしく、山に家を借りることが数年続いたが、それもピアノーロに住まいを移すことで山へも行かなくなった。丘の町に住んでいるから其れで充分。そう思ったのかもしれない。

ボローニャに来てからの21年間に、私は沢山のことを学んで、沢山のことを手に入れたと思う。そして、それと同じくらい、沢山のことを失った。それはまるで片手で握った砂が指の隙間からさらさらと零れ落ちるみたいに。全部を保つことは難しいと言うことなのか。零れ落ちた砂粒を拾い集めることは出来るのだろうか。そんなことを暫く考えてみたいと思う。




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薄曇り

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テラスのジャスミンが咲き始めた。近所のジャスミンは既に花が散ってしまったから、随分と遅い開花であった。何事ものんびりな相棒と私と同様に、花までものんびりなのかと笑ってしまう。水をくべる以外は手入れもしないのに、毎年美しい花を咲かせるテラスの植物たちには、全く感謝である。それにしても、今日が土曜日で良かった、と朝から何度思ったことだろう。暑い。吹く風が驚くほど重く、汗がしきりに流れる。35度もあるらしい。外で蝉がしきりに鳴く。まるで子供の頃の夏休みのようだと思いながら、しかしまだ6月だと思い出しては溜息をつく。同時に6月下旬なのだらか当然なのかもしれないと思い、この暑さとうまく付き合っていく方法を見つけなくてはと、もう一度深い溜息をつくのだ。

日差しはそれほど強くない。少し曇り加減の空を見ながら、私は遠い昔のことを思い出していた。アメリカに居た頃のことだ。海に肌を焼きにいかないかと友人に誘われて、私達は38番のバスに乗って海辺に行った。38番の終点は海なのである。あの町の良いところは、街中からバスやトラムに乗って海に行くことが出来ることだった。私が彼女の誘いに乗ったのは、別に肌を焼きたいからではなかった。何故なら私は充分焼けていて、と言って好んで焼いたわけではなく、元々色黒の私は夏でも冬でも外を歩いていると日に焼ける体質だから、改めて肌を焼く必要などなかったからだ。其れなら何故誘いに乗ったかと言えば、友人と海辺に転がってお喋りを楽しみたいと思ったからだ。その日は朝から薄曇りで、そのうち太陽が出るかと思っていたが、遂に快晴にはならなかった。雲の合間から時折陽が射す程度。しかしそんな空を眺めながら、確かにこの雲の向こう側には太陽が存在するのだと思った。太平洋と言う大きな海が前に横たわっていたが、人はごくわずかだった。波を待つ、数人の地元サーファー達。そして私達。私達は2時間ほど海辺に転がっていたが、そのうち空腹に負けて、来る時に乗った38番に乗り込んだ。38番に乗ったのには理由があった。途中で下車してレストランに行くためだった。それは巷で評判のインドネシア料理の店で、彼女はずっと行ってみたいと思っていたらしい。彼女について行ってみたら、私が知っている店だった。小さな店だ。昼食の時間がもうじき終わろうとしていたが、快く迎えてくれた。
私がこの店は知っていたのは、一度だけ、インドネシアの女の子に連れてきてもらったことがあったからだ。彼女は私より10歳も若かった。こんな若い女の子がインドネシアからアメリカにひとりで留学に来るのかと驚いたものだ。それは交換留学やホームステイと言った類のものではなく、本当に単身でアメリカに来たとのことだった。前に彼女の家族の写真を見せて貰ったことがあるが、インドネシアの豊かな家系の出身らしく、素晴らしい室内に正装をした両親と彼女が映っていた。首元が開き過ぎている、衣類が体にぴったりしすぎている。彼女の両親はいつもそんなことを言っていたらしい。あれこれと家族の決まりごとの多いインドネシアの生活からどうしても抜け出したくて、アメリカの大学へ行くことを理由にここへ来たのだと言っていた。10歳年上の私は、何時からなのか、彼女にとって頼りになるお姉さんのような存在になっていたらしく、そういえば何かにつけて相談を受けたりしたものだけど、いつものお礼に美味しい店を紹介すると言ってこのレストランに連れてこられたと言う訳だった。この店は小さいけれど、此処の暮らすインドネシア人達にとって一番おいしいと思う店だから、と。若い彼女は家で料理をすることはあまりなく、頻繁にこの店で夕食をしているらしい。それだからなのか、実に顔がきいて、あれもこれも店からのサービスと言って料理が出てくるのだった。それともあの写真で見た通り、彼女は案外お国では名の知れた家族の一員なのかもしれない。兎に角、大した上客扱いで、最後に勘定を済まそうとしたら、この子に何時も良くしてくださるので、今日のお勘定は結構です、とのことだった。
そんなことを友人に話すと、そうか、やはりインドネシア人たちが通う店だから美味しいのか、と友人は頷き、辛い辛いと言いながら、汗をかきながら、注文した大量の料理を平らげて店を出ると、再び38番のバスに乗って家に帰ってきた。生憎の薄曇りで日焼けできなかったけれど、美味しい昼食を頂けたから良かった、と私達は大そう満足で、機嫌よく別れたものだ。
その晩のシャワーの湯が拷問のようだった。肌がひりひりして、触ってみたら熱を持っていた。どうしたのだろう、日に焼けてもいないのに。そう思いながら眠りに就き、翌朝目を覚ましてみたら驚くほど日焼けして真っ黒の自分が鏡に写っていた。きゃー、と悲鳴を上げるほど。同じことが友人にも起きたらしく、顔を合わせた私達はお腹がねじれるほど大笑いしたものだ。
だから、薄曇り空は危険なのである。今日みたいな日が一番危ない。

辺りが暗くなってきた。まだ17時にもならぬと言うのに。外を眺めてみたら北の空に黒い雲。遠くで雷が鳴っている。北の方ではどうやら雨が降っているらしく、涼しい風が吹き始めた。この季節によくある夕立だろうか。そうして夕立が去った後には、少しは空気が冷たくなって、過ごし易い晩になるのだろうか。うん、そう願ってみよう。




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金曜日の晩は訳もなく嬉しい

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突然夏がやって来た。つい最近まで冷たい風が吹いては上着の前を合わせるようにして歩いていたと言うのに。スカーフを首に巻き付けなければ夜風が冷た過ぎたと言うのに。喜怒哀楽の激しいここでの生活は、気候ですら極端である。そんなことにも慣れている筈だけど、しかし今年のこれは一体何なのだ。周囲のイタリア人たちもうんざりしているところを見ると、今年も気候は私に限らず、誰にとっても妙なものらしい。

夕方になっても涼しくならない。しかも風が無いときている。昼間の日差しを嫌と言う程吸収した、アスファルトの路面から熱気が湧き出るかのようだ。この調子だと、テラスの植物もさぞかし喉を乾かしているに違いない。でも、金曜日と言うのに寄り道もせずに家に帰って来たのは、別にそれが理由ではない。このところ体調が悪いからだ。私の意志とは関係ないところで、誰かが私の体調を操作しているかのようである。全く元気だと思っていたのに、急に具合が悪くなる。こうしたことが頻繁に起こると、見えないところで誰かが意地悪をしているのではないかと、疑いたくもなる。勿論そんなことがある筈もなく、単に疲れを貯めすぎただけだろう。それにしたって、こんなに健康には気を付けていると言うのに。

家に帰ると猫が項垂れていた。暑いのが苦手らしい。そう言えば昨年もそうだった。ひんやりとしているのだろう、床に体を横かえて動こうともしない。いつもならば帰ってきた家人を見ると、跳ねて喜ぶと言うのに。まるで一年振りの親友に会ったかのような喜びようで、相棒も私もそんな猫を見ては大袈裟だね、今朝も一緒だったの、と笑うのだけど。動くのが大儀なのか、何なのか、目だけこちらを向けて短く鳴く。にゃ。何と言っているのだろう。お帰りなさいと言っているのか、それとも暑いと訴えているのか。

20時を過ぎても鳴く蝉。ボローニャではよくあることだ。食事の準備をするにも暑いので、ちょっと腰を下ろして本を読んだ。もう何十回と読み返した本。でも好きな本は何度読んでも初めて読んだ時と同じくらい心に響くものだ。名作と呼ばれるものばかりが素晴らしい本ではない。自分の心を動かされたり、共感したりできるのなら、それは私にとって素晴らしい本なのだ。本ばかりではない。音楽にしろ絵画にしろ、同じことが言えるのだと思う。そのうちレースのカーテンが風にそよぎだし、気が付いたら空が暗くなり始めていた。こんな遅い夕食と、日本の家族が聞いたら驚くだろう。20年も前にローマに暮らしていた頃、そうだ、4人のイタリア人たちと一緒に共同生活していた頃、19時にひとりで夕食をとっていたら、後から帰って来た住人たちが、私を揶揄ったことがある。ローマでは夕食の時間が遅いらしく、まず20時前ってことは無い、とのことだった。特に良い季節ともなれば、19時なんていうのは食前酒を楽しむ時間帯らしい。それからこんなことも言った。こんなに早く夕食をとったら、ベッドに入るまでにもう一度夕食をとらなければならなくなる、とも。何となく説得力のある言葉だったと思ったことを覚えている。そんな訳で、私の夕食は20時以降になったが、あれから20年も経って、私の夏場の夕食は遅くなる一方だ。相棒にしたって、夏は暗くなるまで夕食は食べないよ、と言うではないか。それだからうちでは、暑い季節の夕食は空が暗くなってから、が決まりなのだ。

ごく普通の、ちょうどいい具合に冷えた爽やかな白ワインも、上等なグラスに注いで乾杯などすると、ちょっと素敵な感じがする。素適な感じがするのは其ればかりではない。暑かった昼間の余韻を残す晩に、他愛のない話をしながら食事をすることにしたって。金曜日の晩とはそういうものだ。




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今頃思い出した

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朝方、雨の音で目が覚めた。雨が叩きつけるように空から落ちてくる音で。何時だったのかは覚えていない。飛び起きて窓の外を眺めると、ああ、今日も雨なのか、と思ったことだけ覚えている。シーツの下に潜り込むと再び眠りに落ちた。さて、そろそろ起きようかと本格的に目を覚ますと快晴が待っていた。朝食をとりながら、空の様子に惑わされている自分が嫌になった。もう、どうでもいいや。そう思いながらぬるくなったカフェラッテを飲み干した。
今日は姑のいるピアノーロへは行かない。日曜日恒例の昼食会に参加しないのは先週に続いて二度目。二週続きだから姑は気を悪くしているだろうか。しかし体調が悪いのだから仕方がない。無理をするのはもうやめたのだ。無理をしたところで良いことなどひとつもない。

のんびりと片付けごとをしていたら、思い出したことがある。友人のこと。友人と言ったって、本当に友人なのかは分からない。もとを正せば相棒の友人だ。アメリカに暮らしていた頃、偶然知り合った、まだアメリカに来たばかりで困っていた同じ故郷の女の子に親切にしてあげた、そんなことから始まった関係らしい。彼女は若さで家を飛び出してアメリカへ行ったはいいが、宛があるでもない。初めて何の準備もなかったことに気が付いて困っていた所で、相棒と知り合った。相棒がよく知っているイタリアンレストランの店主に頼んで、住み込みのベイビーシッターとして彼女を送り込んだらしい。これで住む場所と食べること、そして多少の収入も得られるからと。相棒の友人と言う触込みだったから、雇い主は大そうよくしてくれたらしい。祝日になると行き場のない彼女を相棒は数人の友人を招いた食事会に招いたらしく、おかげで寂しい思いはしなかった。それから1年ほどで彼女はボローニャに帰ったそうだけど、そんなことを彼女が家族に報告したことから、彼女の家族からも大変信頼を得てボローニャに帰省するたびに歓迎されたらしい。らしい、と言うのは、私が相棒と知り合う随分前の話だからだ。これらのことは相棒と彼女から、少しづつ聞いた話なのである。彼女がボローニャで結婚して、夫とふたりでアメリカ旅行をしていたある日、私達は待ち合わせをしてそんな話を中心に、色んな話をしたものだ。それが私と彼女の出会いだった。
ところで相棒と私がアメリカを引き払ってボローニャに来たことを、彼女にはすぐに知らせなかった。どうしてだったかは思い出せない。多分、引っ越して来たはいいが、全く軌道に乗れなくて、それどころではなかったのではないだろうか。連絡はしなかったけれど、しかし、大きなスーパーマーケットの中でばったり出くわした。私達がボローニャに暮らすようになってから、3か月が経っていた。互いに大きなカートを押して、色んなものがその中に入っていたが、違っていたのは彼女と夫が押すカートの中には、かわいい子供たちが座っていたことだ。どうして知らせてくれなかったと、私達は酷くなじられたが、同時に、こんな具合に偶然会うことが出来たことを心から喜んだ。私がまだ何もすることが無いと知ると、彼女は小さな娘と息子を時々見に来てくれないかと言った。ベイビーシッターという奴だ。私は今までしたことが無かったから少々躊躇っていた。しかもイタリア語は話せなかった。どうしよう。心の中でそう呟いていたら、それを見抜くかのように、大丈夫、遊びに来てくれる程度でいいの、それにあなたのような人は外に出て仕事をしていた方がいい、と彼女が言った。その一言で私は時々彼女の家に行って数時間子供たちの相手をするようになった。例えば、彼女と夫が夜出掛けたい時。例えば彼女が髪の手入れや買い物に出掛けたい時。幸運だったのは子供たちが直ぐになついて、明日も遊びに来てほしいと言うようになったことだった。数か月後にはローマへ行ってしまった私。しかし1年後に戻ってくると、直ぐに声が掛かって再び子供たちの相手をするようになった。子供が眠らない晩は、小さな声で歌って聞かせた。日本語で小鳥の歌を歌った。意味が分からないと言う子供たちに、一語一語説明して、そんなことをしているうちに子供たちは歌を記憶して、大人たちを大そう驚かしてくれた。子供たちの柔らかな脳みそ。そうして私がフィレンツェの仕事を始めるか始めないかのタイミングで夫の仕事の都合で一家はローマへと移り、遠い存在になってしまった。あなたも一緒に来ないのかと、子供たちが問うた言葉が印象的だった。ローマで何年も生活した後、夫の都合で一家はロンドンに引っ越した。5年で帰ると言う約束だったらしいが、思うに既に10年近くが過ぎている。ロンドンの地が合って、其処の永住することに決めたのかもしれない。最後に会った時、もう随分と前のことだけれど、彼女が言ったこと。彼女の娘は美しく成長して、日本人のボーイフレンドが居るそうだ。ほんの数年だったけれど、私の存在は彼女に多少なりとも影響したのかもしれないと。彼女の話を聞きながら、私はあの日に歌った、小鳥の歌を思い出していた。
今日になって、どうしてそんなことを思い出したのかは分からない。今の気分が、ボローニャに引っ越してきて、多くの戸惑いに困っていた、あの頃に似ているからかもしれない。どの道に進んだらいいのか分からなくなって、困っているからなのかもしれない。でも、思い出してよかった。私は其れでも運がよかったのだ。手を差し伸べてくれる人が居たのだから。今更ながらだけれど、それに気が付いた。感謝だ。

猫は敏感だ。こんな気分の時は、必ず傍にくっついている。大丈夫、私が居るから元気を出してとでも言うように。とても優しい。勿論、大のお気に入りの相棒が家に帰ってくれば、私はあっという間に見放されてしまうのだけど。




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