独り言

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5月最後の日。何か忘れものはしていないだろうか。何か忘れていることがあるような気がするのは気のせいか。やり残していることは無いだろうか。私の短すぎた5月。




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懐かしい人

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やはり降り始めた雨。丁度昼になったくらいのことである。そのうち降りだすだろうとは思っていたのは、雨降りが近い匂いが立ち込めていたからだ。ばらばらと音を立てて降る雨を、窓辺に立って眺めるのが好きだ。週末の、家から一歩も出なくて良い日ならばの話だけれど。まるで日本の梅雨時の雨のようだと思った。ひんやりと冷たい空気は驚くほど湿っていて重く、窓をぴしゃりと締め切っても隙間から忍び込んでくる、ような気がする。

嬉しいことがあった。昨日の午後、懐かしい人から電話を貰った。20年も前にローマで働いていた頃の上司だ。私は僅か一年ほどで職場を去ったが、私のローマの思い出はあまりにも多く、そして職場の人たちを抜いては思い出のひとつも語れない。
そもそもの始まりは、ボローニャの生活の波に乗れなかったことだった。20年ほどアメリカに暮らした相棒もそうだったかもしれないけれど、私は此処であまりにも異国人だった。そして半年もすると私は波に乗る努力に疲れてしまった。ローマで仕事を得るなり相棒を残してボローニャを出て行ったのは、今思えば随分と乱暴だったかもしれない。そんな私はローマでも変わり者だったかもしれないけれど、ローマには様々な外国人が住んでいて、何か肩の荷が軽くなったような気がした。アパートメントと職場の往復から始まった。友人も知人もいないローマ。でも、ボローニャに居たって相棒の友人、相棒の知人ばかりで自分と直接関係のある人は居なかったから、何が変わるでもなかった。幸運だったのは、職場の人達だ。今考えても、良い人間関係の職場だったと思う。イタリア語を自信ありげに話すが全然基礎の無い私は、職場で耳をそばだててイタリア語を学んだ。同僚が話す言葉を心の中で幾度も繰り返して。同僚が電話に出た時にどんな言葉で対応するのか、全身を耳にして聞いて。仕事中は自分のことを考える暇が無かった。忙しかっただけじゃない。楽しかったからでもある。私の知らないローマの生活を、此処に生まれて育った人達や、此処の長く暮らしている人達の話から知るのは面白い以上のものがった。本を読んでいるような感じ。映画を見ているるような感じでもあった。上司が私に良くしてくれたのは、私が相棒と離れてローマで独りぼっちだったからだ。同じように外国人の上司は、独りぼっちがどんなことかをよく知っていたのかもしれない。職場の中に古い藤の木が生えていて毎日水をくべたり、昼休みは上階の広いテラスで手紙を書いたり、ちょっと休憩しに近所のバールでカッフェをしたり。私のみならず皆が楽しそうに仕事をしていたのは、思うに、上司の人柄が生み出した賜物だったのだろう。
ローマを去っても時々職場の人達が電話をくれた。大丈夫? 元気にやっている? と、そんな具合に。だから長いブランクの後、私がフィレンツェで仕事に就いた時、喜んでくれたのも彼らだった。他人のことなのに、もう過去の同僚なのに、彼らはこんな風に喜んでくれた。私はそのことを忘れない。私がローマで働いたことがどんなに幸運だったのか、あの時本当に知ったのだ。
長い歳月の後、どうして上司が電話をくれたのか、ずっと考えているが分からない。単に思い出したからなのかもしれないし、暇だったからなのかもしれない。それとも何かあったのか。電話で話さなかった何か、何か他のことが言いたかったのだろうか。この電話に何か意味があるのだろうか、と私は昨日からずっと考えている。

雨は夕方になって止み、入道雲が青空に浮かんだ。その様子はまるで夏の空のようで、私の心をわくわくさせた。楽しい夏になりそうな予感がする。




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Strada Maggiore

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朝から快晴。数日前から急に気温が上昇して、昼間は半袖で過ごせるようになった。気持ちの良い初夏のような気候を一跨ぎして、夏になってしまったかのようだ。日差しの強いこと、湿度の高いこと。少し動くと汗ばんで、不快といえば不快、しかし快活な季節と言えば全くその通りだと思う。テラスに続く大窓を開放してレースのカーテンを引くと、風に膨らんだり萎んだりして楽しそう。そんな様子を眺めていると必ず子供の頃を思い出す。子供心にも気怠いと感じた夏の昼下がり。昼寝をしなさいと母に言われて寝転がってみるも、うとうとすることすら無い。ぼんやりと、レースのカーテンが膨らんだり萎んだりする様子を1時間も眺めていた。時には蝉が狂ったように鳴いていて、うんざりすることもあったけれど。子供の頃を思い出すとき一番初めに思い浮かぶのが、そんなことだ。

こんな暑い日の散策は、早い時間に家を出るに限る。そうと分かっていながら、あれもこれもと欲張って家のことをしていたら、昼前になってしまった。どうしよう。外に出るのをやめようか。一瞬迷ったけれども、思い切って家を出た。そのうち本当の夏がやって来て、暑くて外を歩き回るのが大変になるかもしれないから。この夏は恐ろしく暑くなる、というのが巷の噂だ。私がボローニャに引っ越して来た夏に43度を体験したが、そんな暑さになるのかもしれない。

旧市街は驚くほどの人だった。何か特別なことがある様子はないけれど、皆、にこにこして嬉しそう。手を繋いで歩く男女。これは若い人ばかりでなく年上の夫婦者も同じ。そうした様子を眺めていると、此処はイタリアなのだともう一度思う。そうした様子を眺めていると、心がぽっと温かくなる。旧市街の真ん中の2本の塔の横に走る、環状道路へと続く道、Strada Maggiore。この通りに私は案外沢山の思い入れがあって、時間を見つけては歩いている。環状道路へ向かって歩いていると古い古い教会に出る。古い教会ならば幾らでも存在するけれど、私はこの教会が好きだ。中も良いけれど教会の横に備わる幅の広いポルティコが飛び切り良い。ところどころにフレスコ画が残っていて、新しく塗り替えるのではなく丁寧に修復して、元々あった古いものを大切にする心が伝わってくる。ここを行き交う人々だって、そんな風に思っているに違いない。冬になると、ポルティコの下にクリスマスの市がたち、駄菓子やクリスマスに必要なものや、贈り物類を売る店が並ぶ。何を買うでもない、そうだ、今まで一度だって何かを買い求めたことは無いけれど、人の波に揺られながらその雰囲気を楽しむために一度は足を運ぶ。私の大好きな友人も、もう随分と会っていないけれど、冬になるとこの市場を冷かしながら歩くのが好きだった。彼女はこの教会を、私の教会、と呼んで、私にちょっとした感動を与えたことがあった。そんな風に呼ぶ人に今まで出会ったことが無かったからかもしれない。アメリカの生活を閉じてボローニャに暮らし始めた頃、この道を数え切れぬほど歩いた。相棒の両親が暮らす家はこの道をずっとずっと行ったところに在ったからで、勿論バスを使わねばならぬほどの距離だったけれど、この通りはバスで通過してしまうにはあまりにも惜しかったから、そして教会の少し先には小さな自転車屋と骨董品屋があって、それらは相棒の若い時代の友人たちの店だったから、たまに立ち寄るためにも、相棒とふたりで肩を並べて歩いた。暑い夏も、このポルティコの下はひんやりしていて、何時も此処で足を止めたものだ。此処の様子はあの当時と一寸とも違わない。道の向こうにある建物も、ポルティコも、教会も。変わったのは私達で、通り過ぎる車の色や型で、スカートの裾をひらひらさせながら自転車で疾走していくスタイルの良い若い女性で、ポルティコの柱に寄りかかって携帯電話を操作する学生だ。

帰りのバスに小さな男の子を連れた若い母親がいた。今週の木曜日で学校は終わりよ。母親が男の子に語り掛けたのを聞いて、はっとした。そうか、もうそんな時期なのか。学校が終わって長い夏休みに入る時期。あと数日で5月も終わってしまう、そんな時期に辿り着いた。




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心を揺さぶる

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帰り道が明るい。今までは18時を夕方と言っていたけれど、日没が20時半ともなると18時はもう夕方ではない。兎に角明るくて気分がいい。四季のメリハリも素敵だけれど、そして四季折々の情緒が好きだけれど、一年中こんな明るい空を眺めることが出来るのなら、ずっと春から初夏で季節が止まってしまってもいいと思う。そのくらい、明るい空が好きだ。そして、もうひとつ加えると、明るい空が徐々に暗くなっていく時間帯も好きだ。ああ、今日も良い一日だった、と感慨深い時間帯なのだ。そんな時間帯に猫がテラスに出たきり家の中に入ってこないので、何をしているのだろうとテラスに様子を見に行くと、猫は宙をじっと見つめながら、まるで感心したかのような、まるで感動したかのような、吐息に近い声を出した。夕暮れの空にコウモリが舞い飛んでいた。小さな二匹のコウモリがまるで踊るようにしてひらひらと。一体何処から来たのだろうか。この辺りには樹が沢山あるから、それとも少し行くと静かな丘が存在するから、その辺りに住んでいるのかもしれない。

まだ私が小さな子供だった頃、少し先に小さな森があった。通り抜けることすら少し怖い、小さな森のくせに奥が深いと思わせるような森だった。ある夏の晩、近所の大人が子供たちを数人引き連れて、森へ行った。肝試しのようなものだった。怖いけれど見たい。晩に森を歩いたことは無かったから、どの子供も興奮で胸が高鳴っていた。星と月明りだけが頼りの森探検。と、ひらひらしたものが頭の上を通り過ぎて子供たちを驚かせた。隊長が教えてくれた。あれはコウモリなんだよ。コウモリとの遭遇に子供たちは更に興奮して、その夏中コウモリの話に夢中だった。
コウモリなんてそんなに居るものじゃない。私はずっとそう思っていたけれど、ボローニャ辺りでは案外安易に見ることが出来る。初夏から夏にかけての夕暮れ、そして晩に。それを教えてくれたのは相棒で、そして近所の老人たちだった。コウモリが飛んでいたよ。もうそんな季節なんだねえ、と目を細めて喜ぶ彼らは、もしかして少年だった頃のことを思い出しているのかもしれない。私が子供の頃の森でのことを思い出すように。

朝の涼しさ、夕方の暑さ。半袖を着たいような、まだ早いような。季節が私達の心を揺さぶる、そんな意地悪な5月。それもあと数日で終わってしまう。




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月の光

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窓の外をそっと覗く。満月より一瞬欠けた月が見えた。欠けているとはいえ、昨夜の満月と変わることなく美しく、青白い光を放って地上を照らしていた。月の光。私にとってこれほど神秘なものはない。

部屋の隅に置かれた古い家具。昔はチーズを仕舞う棚だったらしいが、今はうちで私の物を仕舞う棚になっている。エミリアーノと呼ばれる類のこの棚は、それほど大きくないのに重量があって、引っ越しをするたびに皆に文句を言われてきた。なんて重いんだ、と。だから、今の家が最後の引っ越しだと言った時、幾度も引越しに手を貸してくれた相棒の友人達は、手を叩いて喜んだものだ。棚の中にずっと置き去りにされていた本を取り出した。十何年も前に購入して、繰り返し読んだ本だった。そして棚にしまったまま手をつけなくなった本だ。手をつけなくなったと言っても、何しろ4,5回立て続けに読んだから、本は喜んでいるに違いない。そんな読者が存在することを著者が知ったらば、一体何と言うだろうか。私にはそんな癖がある。気に入ると、もう充分と思うまで読み続ける。そうしてしばらく放置して、再び手に取るとまた幾度も繰り返し読む癖。今までの人生にそうした本が幾冊かあった。そんな本に出会えたことは、幸運以外の何者でもない。
繰り返し読んだから、本の角が少しすれていた。丁寧に扱っていたけれど。清潔な布で本の表面を拭うと、少し綺麗になったように見えた。話の始まりから終わりまで、すっかり覚えているけれど、本を開くと読まずにいられない、次のページをめくりたくなる、そんな本。もう一度布で拭って、棚の中に収めた。

猫は何を考えているのだろう。さっきから窓の外ばかりを眺めている。青白い月の光に照らされた、他人の庭に咲く見事な大輪の赤い薔薇を見ているのか。それとも草むらに潜んでいる小動物だろうか。違う。猫が見ているのは、向こうの方に歩き去る、この界隈の放浪猫だ。私が勝手にロメオを命名した猫。今夜は、ロメオの後姿が妙に切ない。




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