忘れてしまいたくないこと

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4月にボローニャの街中で雪が降ったこともある。だから4月は油断がならないことを何度聞いたことだろう。1991年の4月のことだったらしい。4月でもアペニン山脈辺りでは稀に雪が降ることがあっても、ボローニャ市内で降るなんてことはあってはいけない。既に25年も経っていると言うのに、4月なのに寒いじゃないかと言うたびに、その話が誰かの口から零れる。人々の記憶から4月の雪のことが消えるまで、もう少し時間が掛かるらしい。

最近わかったことがある。いつか忘れてしまわないように、書き留めておこう。
私が彼女に出会ったのはアメリカに暮らし始めて一年くらいの頃、1992年のことだ。それは私の貯金が底をつきそうになって日本に帰ろうと思った数か月後のことだった。手持ちのお金は少ないし、仕事探しも難航していて、日本に帰るお金があるうちに腰を上げようとしていた頃、仕事に就いた。知人が仕事を紹介してくれたのだ。それでアメリカ生活を続けることが出来た。つつましい生活をしながら仕事と勉強を続けていたが、私は決して辛いとは思わなかった。それでも私は此処にいる。私が好きで好きで棲みついたこの街に居るのだ。その気持ちは私に沢山の勇気とエネルギーを与えてくれた。傍から見たら大変そうに見えたかもしれないけれど、私は何時だって喜びにあふれていた。私は友人ふたりと一緒に暮らしていたが、そのうちのひとりが部屋を出ていくと言うので新しい入居者を募ったところ、電話をしてきたのが彼女だった。若くて太陽のような笑顔を持つ日本人。自分の美しさを知らないのは彼女だけと思うくらい、彼女は自分に自信が無かった。私も友人も、それから部屋を出ていくハンガリー男性も、一目で彼女が大好きになった。其れほど彼女は魅力的だった。男性ばかりでなく、女性までも魅了する気持ちの良い魅力を持っていた。
彼女が私達のところに入居して2か月と少し経つ頃、私の誕生日がやって来た。仕事を終えてくたくたになってアパートメントに帰って来たら、彼女が少しお洒落をして待っていた。誕生日おめでとう。もし予定が無いならば、カフェ・ジャクリーヌで夕食をしないか。そんな感じのことを彼女が言うので、別に何も予定はないし、誕生日の日くらい外で夕食を楽しむのも悪くない、と普段は切り詰めて外に夕食を楽しみにいくなんてことは無いけれど、彼女の誘いに乗って再び外に出た。11月の少し肌寒い空気に肩をつぼめながら、ずっと歩いた。カフェ・ジャクリーヌはイタリア人街の細い道に面して存在する、この街ではなかなか名の知れたスフレの店だ。彼女がこの店を選んだのは、以前一緒に店の前を歩いた時、何時かこの店で食事をしたい事、何年も前から憧れていること私がガラス越しに中を覘きながら話したからだ。店は混んでいた。店の人は予約で一杯だと言って一旦私達を断ったが、ふと思いついたように小さな席を見つけたのか設けてくれたのか、兎に角私達は運よくテーブルに着くことが出来たのだ。葱のスフレの美味しかったこと。シャンパンの美味しかったこと。私の人生の中でこれほど楽しかった誕生日は無い。それは憧れの店に行ったからではなくて、貧乏生活をしていた時代のひとつ輝く星のようなもので、そして一番の理由は彼女と一緒だったからだ。翌年には私達はアパートメントの契約を解消してばらばらになった。でも私達は同じ街に暮らしていたから、時々カフェで待ち合わせなどをして、やはり良い友達であるには違いなかった。彼女が日本に帰って、私と相棒がボローニャに引っ越してきて、彼女が結婚して夫と共にトロントに暮らすようにるまで、一体何年経過したのだろう。そして驚くほど年月が経ったころ、私が彼女を訪ねると、彼女の夫がどれほど彼女が私の訪問を喜んでいるかを教えてくれた。それは私にとっても同じことだった。何年経っても私達が、あの頃と同じように話せることを。私達を繋ぐものは手紙だったが、次第にメールを使うようになり、しかし誕生日になると必ず彼女が電話をくれた。そしていつも言うのだ。ねえ、また一緒にカフェ・ジャクリーヌへ行けるかな。その一言は、彼女もまた、あの日のことをまだ忘れないことを示していた。
数年前、地上では輝く太陽のような存在だった彼女が、もう手の届かない、夜空に輝く月になった。彼女の不在を思い出すたびに、大きな葛藤を味わった。どうしてこんなに苦しいのだろう。どうしてこんなに苦しいのだろう。あの日から私はずっと考えていたけれど、最近やっとわかったのだ。彼女にとってはどうだったか、今になっては知る由もないけれど、私には、多分、今までの人生の中で一番大切な友だった。こんな簡単なことが今頃になって分かった。このところ、元気がなくて思い悩んでいる私は、夜空を見上げながら彼女が言いそうな言葉を探し求めている。
もしあの時、私がアメリカを去っていたら、彼女と会うことは無かっただろう。アメリカを去らずに済んだのは知人が仕事を紹介してくれたからだ。そしてもっと後になって相棒と出会ったのも、あの時、アメリカを去らなかったからと言うしかない。どれも偶然なんかじゃない。ひとつひとつが不思議な形でつながっているような気がする。運命なんて簡単なひと言では片付けられないような。

少しづつ、少しづつ、私は自分を修正しているのだと思う。急がず、ゆっくり前に進んで行けばいい。




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風が強い

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風が強い日。この風のせいで冷え込むボローニャ。どうやらヨーロッパのあちらこちらがこんな風らしい。4月も下旬だから、流石に必要ないだろうとクリーニング屋さんに持ち込んだ冬物が恋しい。カタカタと日除け戸が風にあおられて音を立てる。母はいつも言っていた。風の強い晩は早く寝るものだ、と。確かにそうかもしれない。風の音で眠れなくなる前に。
明日、目を覚ましたら、もう水曜日だ。




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祝日

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期待を裏切らなかった空。からりと晴れ上がって、祝日に相応しい空。窓を開ければ風は冷たくて、4月下旬らしからぬ冷え込みだけど、しかし空が明るいと言うのは何と気持ちが良いことだろう。鳥が囀り、若葉が風に揺れてきらきら光る。その様子をカーテン越しに眺めながら、良い季節になったものだと思う。たとえ風が冷たくても、この光の強さ、空の青さはこの季節ならではのものなのだ。

10年前の今頃なら、直ぐに山と車を走らせただろう。ボローニャ市街より5度ほど気温が低くてしっかり着込まねばならなかったけれど、ようやくやって来た春を見つけに。友人は標高800メートルほどのところに住んでいた。彼がちょっとした土地に古い家が建っていたのを驚くほどの安価で手に入れたのは、15年くらい前のことだ。100年程前に建てられたその家は壁こそ分厚くて頑丈だったけれど、上の階はひとりでも上がろうものなら揺らいでいて、大変危険なものだった。存在する古い家を壊して建てかえるには村の許可書が必要だった。それを手に入れるまでに2年かかった。元々職人で芸術肌の彼は、肝心な部分は専門の職人に頼みながら、自分の感覚をどうしても組み込みたいと時間を見つけては家づくりに時間を注いだ。恋人と別れて間もなかったからから、こうした作業は余計なことを考えずに済んで、彼にはよかったのかもしれない。兎に角長い年月がかかった。家を買った、山に家を買ったから見に来ないか、と電話を貰ったあの日から数えて5年くらい掛かっただろうか。その辺りがとても曖昧なのは、兎に角年月がかかり過ぎたからで、当の本人ですらわからないと言った感じだった。家が出来上がったあの日。相棒と私が車に乗って彼の家に駆けつけると、庭に置かれたテーブルに食器がセッティングされていた。もう少しかかるんだ、今始めたばかりだから。彼はそう言いながら今炎を入れたばかりのグリルの前で嬉しそうに笑っていた。自分の家。山の暮らし。良い季節には庭で肉を焼いて、家族や友人たちと食事を楽しむ。どれもこれも彼がずっと夢見ていたもので、そのどれもがいっぺんに手に入ったことを、彼は隠すことなく、手放しに喜んでいるようだった。これから種を蒔くとも言った。そうしたらサラダ菜を書く必要が無いからね、と。トマトの苗も植えると言った。そうしたら捥ぎたてを食べることが出来るからね、と。しばしば途中経過を見学していた私達だったから、今更中を案内してもらう必要はなかったけれど、彼の望みで完成した家を見せて貰うことになった。此処が居間。キッチン。バスルーム。そして工房。上の階は屋根裏部屋で仕切り無しの広いスペース。此処が彼の部屋で寝室だと言った。彼の拘りが形になった家。彼らしい家に私達は手を叩いて喜び、彼はとても嬉しそうに幾度もありがとうと言った。やっと肉が焼き上がって、私達はまだ肌寒い春の山の昼食会を堪能した。お代わりの肉はいくらでもあったし、お代わりの赤ワインも充分あった。お喋りは限りなく続いた。話すことならいくらでもあったからだ。
あの後、彼はいくつか恋をした。最後の恋は複雑で、その恋から私達は会わなくなってしまった。彼の恋人が私達の友人関係を複雑にしてしまったからだ。彼女は私達が兄弟姉妹のように仲が良かったのが、嫌だったのかもしれない。それからも私達は一年に数回電話で話をしていたけれど、そのうちどちらからも電話をしなくなった。彼は今も恋人と続いているのだろうか。そんなことすらわからない。私達がボローニャに暮らし始めた頃からの古い友達。寂しいなあ。ねえ、寂しいよね。クリスマスの頃になると、復活祭の頃になると、彼に電話してみようと提案するけれど、相棒は首を縦に振らない。またいつか元に戻れるさ、と言って。

イタリア解放記念日の今日。戦争を通過した人達にとっては感慨深い一日だろう。戦争を通過した人達は、もう二度と戦争を経験したくないと願っているのに、世界の何処かではいつも戦いが繰り返されている。どうしてなのか。ああ、私には分からない。いつもの生活をいつも通りできるこの幸せを、私は手放したくないと願っている。




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見知らぬ人達

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今朝は雨が窓ガラスを叩く音で目が覚めた。眠りが浅かったわけではないのに。起きて窓辺に近づくと先客が居た。猫は随分先に目を覚まして、空から落ちてくる雨を眺めていたらしい。隣の家のプールの水面に雨が当たって出来る轍を眺めるのが猫と私の共通項。これを眺めれば雨脚の強さがひと目でわかるから。それにこの轍は、何かワルツのようにも見えた。雨がワルツを踊るなんて聞いたことも無いけれど。折角の休みの日に雨が降るのは残念だけど、それに私は雨が嫌いだけど、少し雨が降らないと、地面も樹木も草花も喉が渇いて仕方がない。必要な雨。そう思えば雨降りも悪くない。

時々思い出すことがある。見知らぬ人達のこと。私はパリの街を彷徨っていた。昨秋のことだ。何しろ街が広すぎて、地図を手にしていても方向を間違えて、違う方へ違う方へと向かってしまう。時には足を止めて地図を広げ、さて、と考えていると、大抵誰かが足を止めてどこへ行きたいのかと声を掛けてくれた。その半分は英語を話せる人達で、その半分はフランス語しか話せない人達だった。どちらも大変親切で、特に後者は言葉で説明できない分、目的地が分かると途中まで連れて行ってくれて、此処から真っ直ぐ歩いて行けばたどり着くから、みたいな手振りで教えてくれると、さようなら、と言葉を残して今来た道を引き返していった。親切な人達。私はパリの人達がこれほど親切だとは夢にも思っていなかったから、空いた口が塞がらなくて、ひょっとすると夢でも見ているのではないかと思ったものだ。時には彷徨い放題で、同じところをぐるぐる歩くこともあった。そう言う時は大抵昼時で、人が妙に少なくて、私は大変な空腹で、このままで居たら空腹で行き倒れになってしまうのではないかと思った。ならばその辺のカフェやレストランなどに飛び込めばよいのに、何か旅行者を狙ったような店ばかりが目について、こんな店は嫌だわ! と通り過ぎてしまうのだった。その日の私は全くそんな風で、そのうち大きな通りに出たかと思ったら、そこがプランタンの入り口だった。別にここに来たかったわけではなかったが、プランタンの名前は知っていた。こういう店の中には何か気の利いた軽食の店があるものだ、それから上には展望台のような場所があるに違いない、と入ってみることにした。そうして上階へと進んでいくと美しいステンドグラスを施したクーポラを持つレストランを見つけた。此処で色んなことがあった。もう昼の注文が終わる時間なのに、かまいません、と言って昼食をサービスしてくれたこと。出てきた料理が注文したものと違うと困惑していたら、隣のテーブルの夫婦者が給仕を呼びつけて取り換えるようにと言ってくれたこと、夫婦者が食事を終えて席を立つときに、パリを楽しんでくださいよ、みたいな言葉を残してくれたこと。私は頭上のステンドグラスを見上げながら考えていた。百聞は一見に如かず。昔の人はそう言ったけれど、本当のその通りだ。フランスに一種の憧れをずっと昔から持ちながら、同時に大変な先入観、偏見みたいなものを抱え込んた。私が勝手に作り上げたフランス感だった。昔アメリカで知り合った、パリ生まれパリ育ちのソフィのせいだ。彼女のスノッブな高慢さが、私の心にそんなイメージを植え付けたのだ。勿論、単に数日滞在するのと生活するのでは、印象も違うだろうけれど、私には充分だった。私が自分で勝手に作った、パリとの、フランスとの分厚い壁を取り除くには、こんな小さな数々で充分だった。夫婦者がついていたテーブル席に、はっとするほど鮮やかなピンク色のスカートをはいた女性がやって来た。年の頃は60近く。すらりとした姿は常に自分の姿に気を使っていると思われた。潔い短い髪に膝よりもずっと上のスカート丈。とてもお洒落で軽快で、同じ女性として嬉しくなった。私と目が合うと、口角をくいっと上げて、明るい笑顔を見せてくれた。何か楽しいことが待っているらしく、彼女はとてもそわそわしていて、横に居る私も何だかそわそわしてきた頃、向こうからやって来たのは、彼女と同じ年代のシックな装いの髪の長い女性だった。こんにちはー、と華やかな声で挨拶を交わし合う彼女たちは、どうやら仲の良い友達らしく、それぞれが好みの紅茶を注文し終わると、次から次から言葉が流れて出た。美しいフランス語。彼女たちの言葉に耳を傾けながらそう思った。幾つになっても友達同士のお喋りは楽しいものよ。ふたりを包む空気がそう言っているようだった。彼女たちは時々こんな風にして待ち合わせをして、お喋りを楽しんでいるのだろう。私がパリのことで思い出すことは実に沢山あるけれど、あの日のステンドグラスの下でのことは、あれから幾度も思い出した。気持ちの良い人々。そう呼ぶのがぴったりくるような。私もそんな人間でありたいと思った、あの午後。

雨が降って急に季節が逆戻りしたようなボローニャ。暖かくして出掛けないと、風邪を引いてしまうよ、と相棒が言っていた。確かに。道行く人達はコートを纏い、首にはスカーフを巻き付けている。必要な雨とはいえ、明日は是非、太陽の光の恵みを。そう願っているのは、私だけではないに違いない。




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長い週末

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今週末は3連休。25日の月曜日が祝日だからだ。イタリア解放記念日。昔の人には感慨深いこの日も、察するに、最近の若者にしてみれば単なる休みでしかないかもしれない。何の祝日なのか直ぐに名前が出てこないところをみると。私がこの日が近づくたびに思うのは、解放を祝うということだ。生まれて今まで拘束されたことなどない、何かに支配されて苦しんだことが無い私だ。解放という本当の意味は分からないかもしれないけれど、この日を喜ぶ、戦争を通過した人達を思うと、自然と胸が熱くなる。多分、舅、姑から聞いた話のせいだ。それから彼らの周囲に居た、同世代の人達から耳にした話のせいかもしれない。
用事があって旧市街へ行った。折角の長い週末なのに、雨の予報が出ていた。午前中は機嫌よかった空も、正午を回ることになると向こうの空に黒い雲が広がって、もうじき雨が降ることを示唆していた。知っているのか知らないのか、旧市街には、足取り軽く散策を楽しむ人達で一杯だった。小さなナイロンのリュックを背負って、風除けのジャケットを着こんで歩く夫婦者。小さな子供たちの手を握って歩く家族連れ。若い男女が腕を組んで歩き、仲良しの友達同士が笑いながら通り過ぎていく。空は雨が何時降りだしてもおかしくない程どんよりしているが、誰もそんなことは気にしていないかのように明るかった。なのに、そんな私達を裏切るかのように、やはり雨粒が落ちてきた。雨。こんな日の雨は特別に嫌いだ。

ボローニャに暮らし始めたら当たり前になったポルティコの存在。暮らし始めた頃は空を遮ってしまうポルティコの存在が鬱陶しくてならなかった。閉塞感だ。ボローニャの閉塞感はそんなところから感じていた。けれども、数年してフィレンツェの職場に通うようになると、突然雨が降り始めた雨に逃げ込む場所がないことに気が付いた。ボローニャの旧市街をめぐるようにして存在するポルティコ、その有難さに気が付いた瞬間だった。フィレンツェも、例えば共和国広場前の通りにはポルティコが存在する。が、私が知る限り其れだけだった。別の界隈には存在しない。わらわらと降り落ちてくる雨粒に追われるようにして逃げ込むのはバールやカフェ。だからどの店も雨が降ると一杯だった。フィレンツェの街は好きだった。ボローニャとは違う色を持つ街。くねくねと長く続く細い道。はっとするような美しい朽ちた壁。日除け戸の色も、八百屋の店先も、ボローニャとは違う色あいと雰囲気を持っていた。そんな道を歩くから、5年も続けられたフィレンツェの仕事だったけれど、もう潮時、と仕事を辞めたら、肩の荷が下りた。仕事は好きだったけれど、そしてフィレンツェは好きだったけれど、毎朝毎晩、遅れるのが当然の片道1時間の急行列車の通勤は思いのほか負担だったらしい。そう言いながら、時々朝夕歩いたあの道や、昼休みに散策した界隈を思いながら、もう少し続ければよかったのかもしれないなどと思ったりして。だけれど突然雨が降りだしてポルティコの下に逃げ込むと、やっぱりボローニャが良いなどと思うのだから、全く勝手なものである。イタリアに来てから色んなことがあったけれど、考えればどの時期も周囲の人達が支えてくれていた。自分の力だけで前に進んできたように思っていたけれど、それは大きな間違い。自分ひとりでは出来なかったことばかりなのだ。随分年月がかかったけれど、それに気が付けて良かったと思う。

冬物をクリーニング屋さんに持ち込んで、春物を出した。春物を飾るショーウィンドウを眺めるのも楽しい。でも眺めるだけ。眺めるだけ。今あるものを工夫して使うのだ、今年の春は。と、自分のそう言い聞かせているけれど、何時まで頑張れるだろう。例えば美しい色合いのスカーフなどを見つけてしまった日には。




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