魅力
- 2016/02/28 20:00
- Category: 好きなこと・好きなもの

隣のドアの奥から犬の声が聞こえる。懸命に吠えるのは、白いチワワのシャネル。飼い主がシャネルを好むことから、そんな名前が付けられたらしい。誰に訊いたでもないけれど、それは安易に想像がついた。シャネルがどうして吠えているのか。多分、猫の気配を感じるからだろう。しかし吠えられているに違いないうちの猫は、そんなことは何処吹く風。何しろ姿が見えないから、吠え声が聞こえても落ち着いたものだ。寧ろ興味が湧いたのか、尻尾をくねくねさせながら、入り口前に座って耳を傾けている。互いに顔を合わせたことは無い。いつか対面することがあったら、どちらが先に逃げ出すだろう。
隣の家の奥さんはフランスが好きらしい。それは多分、フランスという国や街が好きというよりは、フランスのものが好きなのではないかと察する。白いチワワにシャネルと名前を付けたことでもよく分かる。この辺りで有名な話がひとつある。彼女がボローニャ旧市街の店に新作の鞄を求めて行ったら、まだパリの本店にしかないと言われたらしい。それで彼女は空港へ直行して、パリ行きの航空券を購入するなりパリへと飛び立ち、欲しかった鞄を抱えて家に帰って来たと言う話だ。この話を聞いたのはもう何年も前のことで、私と彼女が知り合う前だった。話を聞いた私は、会ったこともない彼女を一体どんな人なのだろうと想像した。景気の良い、常連客を沢山持つバールを経営する夫が彼女を甘やかしているのだろうか。それとも彼女が我儘なのだろうか、と。2年前の今頃、今住む家に不動産屋と一緒に見に来て初めて彼女と知り合ってみたら、我儘な感じは微塵もなくて、若く美しい、大らかで笑顔の似合う女性だった。話せば話すほど、彼女の魅力が分かり始め、此れでは夫も甘やかしてしまうだろうと思った。いや、つまり、私が彼女の夫なら、この眩しいばかりの笑顔を見たら、大抵のことは、まあいいか、と思ってしまうに違いないのだ。そうして今の家に引っ越してくると、もう少し彼女のことが分かり始めた。とても優しいこと。礼儀正しいこと。それからあの笑顔がどんなに周囲の人達に愛されているか。どんなに周囲の人の心を和ませているか。まあ、例のパリへひとっ飛びの話は、なかなか奇抜な行動だったが、別に悪い人じゃない。多分、周囲の人達が、ほんの少し羨ましかっただけだ。
ところで私が昨秋パリへ行った時、物欲を掻きたてられてどうしようもなくなるのではないかと思っていたが、面白いことに物欲は騒がなかった。店に入れば、ボローニャとは違う趣味の、実にフランスらしい趣味のものが並んでいたのかもしれないけれど、私は其れよりも歩くことに夢中だった。地下鉄を乗り継いで、地上に出たらひたすら歩いた。時にはショウウィンドウの前で足を止めて覘いてみたりもしたけれど、今の瞬間は今しか得られないとばかりに、私はパリという街を見て感じること、行き交う人達を眺めること、歩くことに夢中だったから、店の中に吸い込まれることは無かった。敢えて言うならば、食料品店によく足を運んだ。ワインやチーズ、パンや果物と言った類の。そして時には美術館や写真展を見て歩き、カフェでひと息をついた。帰ってきて鞄を開けても何ひとつ、例えばシルクのスカーフだとか、何とかが出てこないことに相棒は随分と驚いたようだった。鞄の奥から出てきたのは、チーズの塊。それから焼き菓子。みんなで食べようと思って。身に着けるものを何も購入しなかったのか、と言葉にはしなかったが、こちらを向けた相棒の顔にそう書いてあった。そして相棒は何か感じ取ったらしい。其れほどパリが楽しかったのか、と。
相棒の直感は正しい。私はパリの魅力に落ちた。広くて手におえない。分かったような気にすらなれない、というのが私のパリの印象だった。一度訪れたくらいでは、全然足らないから、これから幾度も足を運ばなければならないだろう。例えば夏季休暇を利用して、例えばクリスマスの頃に。それとも週末に数日間。それを聞いて、やれやれと溜息をつく相棒。でも鞄を求めてパリへひとっ飛びを考えれば、まだいいか、というのが相棒の感想だ。鞄を求めてパリへひとっ飛び。彼女がそんな行動をとってから既に5年ほどが経っているが、人々の脳裏から消える気配はない。少なくともあと数年は、何かにつけて口からついて出るに違いない。
それにしてもパリ。何故もこう私を惹きつけるのか。実のところ私にもよく分からない。
