ボローニャ生活

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小旅行から帰ってきて、翌朝行く職場があるのは有難いことである。しかしこうも忙しいと、ふーっ、と大きな溜息が出てしまう。例えば昨日の午後がそうだった。外は酷い雨。雨粒が窓ガラスを叩く音に耳を澄ませながら思い出すのだ。アムステルダムの雨音。濡れた路面。叩きつける雨で運河の水面がゆらゆら揺れていた。雨の日のアムステルダムも美しい、などと思いながら驚くほどの冷え込みに首をすくめて早足で歩いた。あの日が夢の一部だったのではないかと自問しながら、いいや、あれは本当のことだったのだと自分に言い聞かせる。そうして骨休みの小旅行は自分次第で出来るのだ、と頷く。時間があるからするのではなく、小旅行にしろ何にしろ、自分がしたいことのために時間を作り出せば良いのだと。そうすれば不満も文句も言わずに済む。そうしてまた一生懸命働くなり勉強すればよい。と言いながら、ふと気が付く。単に自分はついているのだ。こんな風にひとりで飛び出すのを理解してくれる相棒が居ること。楽しんでおいでと送り出してくれる人がいること。感謝を忘れてはいけないと自分に言い聞かせる。その気持ちを忘れてしまってはいけないと思う。

私たちが今の家を手放す日はまだ決まっていないが、仮の住まいはもう決まっている。相棒がよく知っている夫婦のアパートメントだ。と言っても彼らのところに転がり込むのではない。彼らが持っている幾つかのアパートメントのひとつを好条件で数ヶ月貸してくれることになったのだ。私たちが次なる家をゆっくり見つけることが出来るようにとの配慮だった。彼らのことは相棒からしばしば聞いていたが、私が彼らに初めて会ったのはつい最近のことだ。先々週の夕食会で初めて会ってから急に互いに親しみが湧いた。私よりふた周りほど年上の彼らは昔は旧市街で商売を営んでいたが、随分前に店を売って今は気楽な年金生活だという。仲の良いこの夫婦は気が向くと車に乗って国外旅行に出掛ける。予定はなく、何時帰ってくるかも分からない。何しろ帰ってこないと困るようなことはひとつも無く、気ままな生活なのだと言って笑う。妻のほうは料理上手で相棒をしばしば平日の昼食に招いてくれる。そうしてはあなたの奥さんに、と言ってお菓子や料理を持たせてくれる。負けずに夫のほうも手土産を持たせる。先日フランスで買ってきたワインなんだ、今晩の夕食にふたりで楽しむといい、と言いながら。彼らのことをまだ知らなかった頃の私はいつも不思議でならなかった、何だってこんなに良くしてくれるのだろう、と。でも分かったのだ。彼らはシンプルに、何か美味しいものがあれば皆で分かち合いたいのだ。そうして美味しい美味しいと喜ぶ顔を見るのが彼らにとっても嬉しいのだ。一昨日の晩、相棒がまた土産を持ってきた。広口小瓶に詰められた美味しそうなもの。鹿肉のラグー(ミートソース)だった。妻がじっくり煮込んで作ったというラグー。嬉しかったが鹿であることが残念だった。何故なら私は丘を駆け回る鹿が好きだからだった。ああ、鹿なのか! と苦悩する私。しかし美味しいからと促す相棒。それではちょっとだけ、とタリアテッレに絡めて食してみたら、美味い。美味しいと言うよりは、美味かった。そういえばボローニャに住み始めた頃、何も知らずに食べた兎の煮込みがこんな風だった。あまりの美味さにおかわりしながら柔らかい肉だと褒めたら、友人の母親が良い兎の肉が手に入ったのだと嬉しそうに言うのを聞いて酷くショックを受けたものだ。兎だったのか。あの可愛い兎を私は美味い美味いと喜びながら食べてしまったのかと、自己嫌悪に似た気持ちで暫く口が利けなかった。それにしても私の好きなあの可愛い動物たちの肉は、どうしてこうも美味しいのだろう。私はタリアテッレを頬張りながら悩むのである。しかし彼女の料理の腕は素晴らしい。何という幸運。幸運ついでに近い将来ご近所さんになったらば、料理を教えてもらおう。などと密かにそんなことを考えている。


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風の音

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鼻風邪を引いて早めに眠りに就いたが何度も目が覚めた。いや、目が覚めたというよりは意識だけが眠りから覚めたと言ったほうがよい。眠りに就く前に降っていた雨がまだ降っているのか止んだのかは分からなかったが、部屋の前にある大きな木が風に吹かれて揺れている気配だけは感じられた。それにしても酷い風で、運河に停泊しているボートハウスが大揺れしているのではないだろうかな度と心配しながら、私は日本の冬も思い出していた。私が10歳ごろから暮らした町は冬になると大風が吹いた。それは大抵2月頃から3月に吹いて、驚くほどのからっ風だった。家の周囲は空き地が沢山あったから、大きな砂埃がそこいらじゅうで渦巻いていて大変だった。窓枠に隙間など無い筈なのにひゅーひゅーと悲しい音が聞こえるのが嫌いだった。早いところ此の季節を通り過ぎてしまえばいいのに、早く春が来ればいいのに。そんなことを思いながら風が治まるのを願った。風が吹く晩は早く寝るものだ、と言ったのは確か母だった。だからうちでは大風が吹く晩は皆がさっさと床に就いた。けれど眠れなかった。あの悲しい音が聞こえるのが気になって。それから雨戸を風が叩く音が怖くて。そんな昔のことを私はアムステルダムで思い出していた。驚くほど短い滞在だった。でも色んなことを感じて、沢山のことを考えた。それは私にとって大切なことで、私の気持ちを自由にするのに必要だった。朝7時半というのにまだ外は夜のように暗かった。一晩中吹いていた大風はまだ止まず、小雨が横殴りに降っていた。ホテルから直ぐそこの高級店が並ぶ通りでは、早くも飾られているクリスマスの美しい照明が大風に煽られてどこかへ飛んでいってしまいそうだった。空港行きの車の中で運転手が私に訊く。よい滞在だったかと。私はうんうんと頷きながらとてもよかったと答え、しかし私には少々寒すぎたと付け加えた。すると運転は頷きながら、アムステルダムの冬は寒いのだと言った。冬。やはりもう冬なの?と訊ねる私に運転手はまるで当然という顔をして、だって11月ですから、と言った。寒くて当然。まだ暗いアムステルダムを走り抜けながら、そうか、冬だったのかと何度も呟いた。ボローニャに戻るといつも自分の居所に戻ってきたと実感してほっとため息をつく。別に自分が生まれた町でも育った町でもないのに。それにしても小旅行を経て、私の中で小さな何かが変化しつつあるのを感じる。自分でも分からない、とても小さい何か。よい変化であることを願う。


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北の海

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私が泊まっているホテルはいわゆる環状道路の外にある、住宅街に位置する。といっても不便ではなく、それどころか便利で快適で文句のひとつもつけようが無い。何処の国でもそうだけど笑顔に勝るものは無い。此のホテルの一番の魅力はまさにその笑顔である。ああ、此処に決めてよかった、と昨日から何度思ったことか。

朝、目を覚ますと薄日が差していた。これはいい。簡単に朝食を済ませて散策に出掛けた。雨降りだったら行こうと考えていた近所の美術館を横目に東へ東へと歩いた。昨日ホテルの青年が教えてくれた地元の人々が行く市場へ行ってみようと思ったのだ。此の辺りは面白いから是非行ってみて欲しいと青年が言ったとおりだった。街の中心とは違う、もう少し市民の生活空気が漂う界隈。何度も足を止めてわき道に反れ、そうしては方向感覚を失わぬ為にまたメインの通りに戻って歩いた。それにしても寒かった。気温は5度ほどだっただろう。何ブロックも続く市場をすっかり見終えたところでトラムに乗った。今回の訪問で見たい所がひとつあった。それは中央駅の向こう側にある北の海。何が在るでもないが、どうしてもその様子を一目見たかった。それ以外の理由は無かった。しかし地図でみると海とは一言も書かれていない。もしかしたら運河なのかもしれない。中央駅でトラムを降りると通行人に道を尋ねた。駅の向こう側へ行く道はどれですか。するとこんな答えが返ってきた。駅の向こう側? ああ、海だね? 私は歓喜して、そう、海がみたいんです、と答えると通行人が親切に道を教えてくれた。此処をずっと真っ直ぐ行ったら海だから。海。やはりあれは海なのだ。私は走り出したい気持ちを抑えて言われた道を真っ直ぐ歩いていった。駅を出ると霧が掛かっていた。フェリーボートの発着所の近くにカフェがあった。不思議な形をした店で夏に並べるテラス席用の木の椅子が幾重にも重ねられていた。中にはちょっとよい感じの大人の男女が座っていて、話しながら時々海を眺めていた。発着所には沢山の人が集まっていた。歩きの人は少なく、大抵が自転車に乗る人達だった。此の国の人達と自転車が密接しているのを実感しながら、その様子を暫く眺めていた。そんな私の様子を人々は不思議そうに思ったに違いないけれど。みんなと一緒にボートに乗ってみようかと思ったが、ほかに見たい所がいくつもあったので次のお楽しみにとっておくことにした。11月下旬はアムステルダムの人々にとってまだ秋なのだろうか。それとも初冬なのだろうか。寒がりの私には初冬どころか真冬であるが。それにしても、小一時間あの寒いなかに立っていたせいで鼻風邪を引いたらしい。家に帰ったら相棒がきっと言うだろう。寒いのに何故そんな所へ行ったのだとか、どうして一時間もそんな所に突っ立っていたのかとか。それは、私にしか分からないこと。いいや、本当は私にだって分からないのだ。


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ボローニャ脱出

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アムステルダムは雨が上がったばかりらしかった。飛行機が着陸する30分前になって隣の女性がふと思い出したように急に親しげに話し始めた。私がアムステルダムに毎日の生活から脱出するためにたったの2泊することや、この9月にアムステルダムに訪れてすっかり気に入ってしまったこと、それから彼女はアムステルダムは乗換えだけで本当の目的地はハンブルグであること、彼女はハンブルグに行くのは初めてであること、その街に住んでいる友人を訪ねることなどを話し終えた頃、ようやく窓の外に見え始めたアムステルダムの地面という地面がしっかり雨に濡れていて、機内の人々が溜息をついた。ああ、やっぱり。噂には聞いていたのだ。冷たい風が吹いているとか、雨が降っているとか、冬みたいに寒いとか。聞かされてはいたけれど自分の目で確かめるとやはりがっかり感は隠せない。薄日でもよいから太陽の光が欲しい。そんな風に願っていたから。よい旅を。よい休暇を。着陸すると私と2時間だけの隣人は互いにそんな言葉を贈って別れた。ボローニャとは比べものにならぬ大きなアムステルダムの街。前回はタクシーを使ったが、今回は公共の交通手段だけが頼りである。街の人達に何度も訊きながらトラムに乗る。運転手に何度も確認しながら、近くに座っている女性に何度も尋ねながら、目的の場所で下車した時には此の街に着いてからすでに1時間が経っていた。夕方とはいえまだ4時になるかならぬかの時間なのに、空はゆっくりと暗くなっていく。金曜日の夕方を楽しむ学生達とすれ違う。ムートンの温かいコートに身を包んだ年配の男性が白い犬を連れてゆっくりと歩く後姿を眺めながら思う。確かに此処はボローニャではない。私は脱出に成功したのだ。私はボローニャよりもずっと北の、違う言葉が飛び交う街にやってきたのだ。そう思ったら小さな笑いが止まらなくなった。多分私は、ずっとこの瞬間を待っていたに違いない。


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木曜日

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木曜日。降る予定のなかった雨が午後に降った。雨は強かに降ったらしく、直ぐに乾きそうにないほど路面が濡れていた。黄色い落ち葉が張り付いたアスファルトの道。それを踏みしめながら歩いた。いつもならもう1日あるが、今週は訳が違う。明日の金曜日に休みを貰ったのだ。9月から予定していた3連休。待ちに待った3連休だ。仕事帰りに旧市街へ行った。既に空は暗く、町を照らす橙色の街灯が良い雰囲気だった。いつの間にか修復を終えてすっきりした表情の2本の塔が美しく見えた。いつもはひとりだが、今日は連れがいた。私よりずっと若い女性。行き先は例のフランスワインの店。上階にあるテーブル席に着いてワインを頂きながらお喋りが目的だった。上階に客は居なかった。イタリアらしくない空間に幾つも並べられた小さなテーブル席のひとつに着いて、ボルドーの赤と軽食を注文した。ボルドーの赤は大変美味しく、そのせいもあって話が大いに弾んだ。下のカウンターでワインの立ち飲みも好きだけど、時にはこんな時間を持つのも良い。特にうまの合う相手が居るときは。ひとしきりお喋りして店を出た。バスに乗ってそれぞれの方向へ。連れの女性は東の方向へ、私は南の方向へ。連休は明日からだけど気分はもう小旅行。嬉しい。明日の今頃、私はアムステルダムの空の下。


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