足跡
- 2012/07/24 06:48
- Category: 小旅行・大旅行
ところで私にはひとつの計画があった。もし時間通りに列車がローマに着いたなら、約束の正午までの短い時間をとぼとぼ歩いてみようと。風を切るように颯爽とではなく、探し物でもするように。それはまるで足跡探しみたいなものだ。私がローマの街につけた足跡はもう16年も前のことだから、雨風にさらされてとうの昔に消えてしまっている訳だけど、私には解る、確かにこの辺りに今も私の足跡が残っているのを。私が働いていたのはローマの街中の小さな教会の軒下みたいなところにあった。初めて此処に連れて行かれた時はそれはもう大変な驚きで、職場が教会の軒下にある、と友人という友人への手紙にそれを綴った。事実こんなところに会社があるなど誰も想像しないので、大抵の人は見過ごしてしまうのだった。私はこの職場が好きだった、それはそんな軒下にあったからと、それから気取らぬ仲間たちが作り上げる空気が居心地良かったからだ。始まったばかりのこの職場での仕事は楽しかった。忙しかったからかもしれないが、相棒を残してローマに来たことの寂しさは晩になって独りぼっちになるまで思い出さなかった。しかし周囲はどうだっただろう。多分皆がそれなりに私への気配りをしていたに違いないと。結婚していながら相棒をボローニャに残してローマにやって来てしまった妻には何かの事情があるに違いないと。実を言えば事情などなかった。ボローニャに住み始めて半年も経たぬうちに小さな町での閉塞的な生活にうんざりしてしまっただけだった。もともと家に居られる性分でなかったし、仕事が好きでもあったから、仕事のオファーのあったローマに来てしまっただけだった。私が寂しいなど言う権利はなかった。相棒にこそあっても。兎に角周囲は形を変えながら私を見守ってくれていたようだ。ある日、電話に出てみると上司だった。会社の外に出て来いという。出てみるとすぐ其処に上司が立っていた。そして指差すのだ、この中に入ってごらん、と。其処は職場の隣にあるテッラコッタや石膏の工房だった。出勤する時間帯は柵が閉まっていて、いつも外から中を覗きながら通り過ぎていた場所。その中に入ろうというのだ。中に入ると男性が作業していた。と、私たちの存在を認めて手を止めた。この人の旦那さんはボローニャに居るんだけどアンティーク家具の修復師なんだ。上司はやぶから棒にそんな風に彼に話しかけた。一体何が目的なのだろうと思っていると、工房の奥にある古い蓋つきの箱を指差して、ほら、ローマにだってアンティーク家具は沢山あるよ、というのだ。と、解った、上司は多分こう言いたかったのだ。君の旦那さんはローマでも仕事は沢山ある筈だと。確かに仕事は沢山ありそうだったが、相棒がボローニャから離れない理由は仕事ではなかったから仕方がなかった。理由は老いた両親であり、そしてボローニャ人がボローニャ以外の地に暮らすなど、と今考えれば馬鹿馬鹿しい、ちっぽけなプライドだった。私はそれをきっかけに時々この工房に立ち寄るようになった。昼休みに、仕事帰りに。こんにちは、今日はどんな作用をしているんですか。と声を掛けたつもりだったが何しろイタリア語を学び始めたばかりだったから、相手に伝わらないことが多かった。そのうち私は仕事を辞めてボローニャに戻ってしまったけれど、私は時々思い出すのだ。あの工房。売れている様子はあまりなく、しかし経済難な様子もない。趣味でやっているでもないだろうけど、兎に角上手くやっていたあの工房。今もあるのだろうか。私は共和国広場で地下鉄を降りると真っ直ぐその足で工房を訪れた。柵が開いていたので中に入ってみたが誰も居なかった。声を掛けてみたが返事がなく、少し待っても主が現れないので外に出た。何と言う無用心。しかし工房が今も存在することがわかって安堵した。私が16年前につけた足跡が沢山残っている場所。何時までも此処に居座っていて欲しい。