ミラノを歩く

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ミラノは広い。ボローニャとは訳が違う。私は総領事館で手続きを済ませると嬉々として外に出た。午後に出来上がった書類を引き取るまでに5時間あった。ミラノまで来た上にそんなに時間があるならば散策を楽しまない手は無い。地下鉄に乗り、途中で降りるとまた別の線に乗り換えてポルタ・ジェノヴァ駅で下車した。此処に来たのは初めてではなかった。15年ほど前にミラノに暮らし始めた友人とふたりで歩いたことがある。運河のある界隈で、町の中心のミラノとは違う顔を持つ場所。そんな風に友人は言っていた。一度来た事があるとはいえ、15年も前のことである。きっと何もかもが変わっていて戸惑うに違いないと思っていたが、不思議なことに建物の中に入っている店こそ違うが街並みはあの頃のままだった。だから私は地下鉄駅の階段を上がって地上に出た瞬間にどの道へ進めばよいか直ぐに分かった。大きな通りを行き、教会の塔の屋根が向こう側に見えたところで右手に曲がって歩いていくと、運河のある通りに出た。あの頃のままだった。橋を渡った向こう側を歩き始めると向こうにも運河がある気配を感じ、路地に足を踏み込んだ。普通の人々が普通に暮らす界隈のそこはなかなか情緒があったが、気配を感じた運河は既に水が流れない濠と化していて少しばかりがっかりした。昔はこの辺りにも、そしてそのもっと先のほうにも豊かに水が流れていたに違いない。と、思い出した須賀敦子さんの本にミラノの運河のことがしばしば記されていたことを。あれはどの辺りだったのだろう、と何度も読み返してうっすらと覚えている幾行を思い浮かべてみたけれど結局その場所を見つけることは出来なかった。しかしもしかすれば彼女もこの道を、私が歩くこの道を幾度も彷徨ったのではないかと考えると、何か嬉しいような不思議な感覚に陥るのだった。最近この辺りには洒落た飲食店や小物の店が随分増えた。多分夕方になると学校や仕事帰りの人達で華やぐに違いない。私がミラノに暮らすようなことがあったらばこの界隈に居を構えたいものである。夕方が楽しく過ごせること間違い無しだ。運河に沿って真っ直ぐ歩いていくと大きな交差点にぶつかった。私はそこでゆっくりを歩を進める老女に声を掛けた。ドォーモへ行くにはどの道を選べばよいのかと。老女はひょいと顔を上げて驚いた表情で言うのだ。あなた、歩いていくんじゃないでしょうね。だから私は勿論そうだと答えると、首を左右に振りながら、この道を行けばよいと教えてくれた。多分彼女は、ああ、他の町から来る人というのは分かっちゃいない、ミラノの町の大きさを、と思ったに違いなかった。トラムも通ると道だったが、歩きたかった。トラムであっという間に通り過ぎてしまうのは残念だと思ったからだ。実際なかなか面白い道で私は歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりして、お陰で随分の時間を費やした。途中で面白い壁を見つけた。壁の向こう側には庭があるのだろうか。窓ひとつ分の大きな四角い穴から青空と気のてっぺんが窺えた。何だかよくわからないが、この壁が壊されること無いミラノの町を私は好きだと思った。勿論、石畳の整備の悪さには閉口だったし、歩いても歩いても目的地にたどり着かない広さにもお手上げだったけど。5時間後、出来上がった書類を受け取り、私はボローニャに帰ってきた。ミラノはなかなか楽しかったし、必要な書類も手に入れた。満足な一日だったが、足だけが悲鳴を上げていた。やはりトラムを使うべきだったのかもしれない。私は交差点で声を掛けたあの老女の顔を思い浮かべながら思うのだった。


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ミラノへ

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先日ミラノへ行った。ミラノは近くて遠い町。ボローニャから列車に乗れば数時間で行けるのに、そして近年は特急列車に乗りさえすれば1時間とちょっとで行けるのに、行くのは何時だって日本総領事館に用事があるときばかりである。もう直ぐ此処に暮らすようになって17年が経つけれど、ミラノを訪れたのは片手の指ほどしかない。それは私がミラノを嫌っているという訳ではないらしく、思うに、単に縁が無いからなのだと想像する。例えば私の知人のイタリア人。ボローニャに生まれて育った知人は私より10ほども上だけど、そんなに長い人生を歩んでいながらまだ一度もミラノを訪れたことが無い。知人もまたミラノに縁の無いひとりなのだ。ミラノには早い時間に到着した。かつてこんな早い時間にミラノの街を歩いたことは無かった。出勤する人達に混じって街を歩く。街中のバールやカフェはカップチーノとブリオッシュを頂く人達で賑わっていた。向こうに美しい色の建物があった。朝日に照らされて輝いていた。綻びひとつ無い完璧な壁。普段は朽ちた建物が好きだけど、こんな建物も悪くない。胸を張って自慢げに輝く美しい色の建物を眺めながら、素敵な1日になりそうな予感がした。いつもとは違う、ミラノでの1日。


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地震のこと

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早朝に大きな地震があった。ボローニャの北に位置する辺りが震源地で、その辺りの町では随分な被害が出た。大きな倉庫が崩壊したり、街の中心の古い教会や建物が崩壊したり。テレビの報道を見れば見るほど恐ろしさが伝わってくる。震源地から数えると50KMほど南に暮らす私の町も大きく揺れたにしても幸い被害は無く済んだ。しかし、他人事とは思えない。

この地震で亡くなった方々、負傷された方の為にお悔やみ申し上げます。現地の人々が、1日も早くいつもの生活に戻れますように。沢山の方々からコメントやメール、お電話を頂きました。ご心配頂きましたこと、感謝申し上げます。

土曜日

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駆け足で日々が過ぎていく。気がつけばもう土曜日である。近頃天候が不安定で5月中旬らしくない。もう必要ないだろうと仕舞いこんだ衣服を引っ張り出す毎日。私だけではない。ボローニャの街はそんな5月らしくない装いの人々で一杯だ。私たちの初夏は何処へ行ってしまったのだろう、と嘆く私に周囲の人々は窘める。大丈夫、必ず初夏はやってきて、そのうちうんざりするほど暑くなるから、と。雨が降るかと思えば強い日差しが照りつける。旧市街の横断歩道で信号待ちをしていたら、背後に立っている女性たちの話が聞こえてきた。どうやら彼女のお母さんは扁桃腺を腫らせて高熱で寝込んでいるらしい。こんな天候では体調を崩しても仕方がないということで話に区切りがついた。道を渡ってポルティコの下を歩く。通路は大抵大理石で雨で濡れると滑りやすくも基本的に平らでとても歩きやすい。基本的に、と付け加えたのは何しろ大変古いものなので時々修復を要する箇所があるからだ。そういう箇所は大変少なく、なかなか手入れが行き届いていると感心する。この数ヶ月の間にボローニャの外の街を何度か訪れたが、その度に私はボローニャのポルティコを懐かしく思った。急に雨が降られて散々濡れた時。それからがたがたの石畳を長い時間歩いて足が恐ろしく痛くなった時。ボローニャならばこんなことにはならないのに。私はそんなことを思いながら、いつの間にかボローニャが、ポルティコが、私の生活に深く浸透しているのを実感するのだ。今日は存分に街を散策した。少々疲れたのでガンベリーニで休憩することにした。ピスタッキオのビスコッティ、それからカッフェを注文した。ここのピスタッキオのビスコッティは絶品だ。ほろほろと崩れるように口の中でふんわり溶ける。最近初めて頂いて感激して、それ以来此処にきたら注文せずにはいられない。休憩と言えどテーブル席に着くでもない。ひとりの時は大抵カウンターで立ったままでの休憩だ。それでも美味しい菓子とカッフェを頂けば、疲れは水のように流れていく。と、店の外に警察官がいるのが見えた。ひとりが老女と話していて、もうひとりがガンベリーニのテラス席に座っている男性と話していた。何か質問しているようだ。それでカウンターの中の店員に何かあったのかと訊いてみたら、どうやらあの老女は歩いているうちに何が何だか分からなくなってしまったらしい。今、自分が何処にいるのか、自分の家が何処にあるのか、自分の名前にしても。それでテラス席に座っていた客が警察に助けて貰おうと電話をしたらしかった。ベージュ色の春のコートと踵が高くも歩きやすそうな靴を履いた身奇麗な淑女風白髪の老女は、見たところ80を越えているようであった。歩いているうちに何が何だか分からなくなってしまったなんて。いつもは言葉すら交わさぬ若い店員と私は心配そうに彼女の様子を伺いながら、あの年齢だからそんなことがあっても仕方が無いのかもしれないけれど、自分の親のことが急に心配になってきたなどと話しをした。何だか悲しいね。歳をとると言うのはこういうことなのかもしれないね。私はガンベリーニを後にしたが、ずっと老女のことが忘れられなかった。午後になって雨が降った。ほんのにわか雨だったけど。老女は家路につけただろうか。それとも家人が迎えに来ただろうか。老女の姿が自分の母の姿と重なって、胸を締め付けられるような、そんな土曜日。


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私たち家族

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5月の第2日曜日。今日は朝から雨が降っている。予想どうりと言えば予想どうり、しかしこんなに冷たい雨だなんて。家の中が妙に暖かかったから、温かい雨が降っているのだろうと思って窓を開けた。すると冷たい空気と雨が吹き込んできて首をすくめた。多分15度もなかった。昨日の暑さは夢だったのだろうか、と思うような冷たさだった。私はいつも思うのだけど、気候までもがイタリア風だ。中間が無い。程々というものが無いのだ。喜怒哀楽が激しいイタリア人と同じだ。イタリアに暮らし始めた頃、相棒にそう言ってみたらそんなことは無いと憤慨していたが、年月が経つにつれてそうであると私は確信するのだ。そして最近別の人に言ってみたら、勿論よ、私たちは感情と共に生きているのだから、と言って、逆にあなたがいつも平然と、淡々としていられるほうが不思議でならない、と返された。私は別に平然とはしていない。たぶん日本人にしてはかなり感情的な人間であると思う。だから常に淡々としているように心がけていると言ってもよかった。どちらにしても彼らが感情と共に生きていることがはっきりして長年の疑問に終止符を打つことが出来た。さて母の日。母が遠くに居ることを毎年この日を迎えるたびに実感する。子供の頃、姉と私にとって母の日は大切な一日であった。もともと私たちは両親の手伝いをするのが好きだった。食事の後片付けの手伝いをしたり、庭の植木に水をくべたり、夏草を引っこ抜いたり、夕方になると近所の豆腐屋に豆腐や油揚げを買いに行ったり。だから母は随分助かっていたのではないかと思うけど、まあ、それは母に訊いてみなければ分からぬことだ。今も覚えている。私たちが東京の小さな庭のついた家に暮らしていた頃のこと。子供の足で家から15分も歩いたところに花屋があった。小さな花屋で間口も狭ければ奥行きも無かった。しかしよい花を置いていて、母は花は此処でなくちゃといつも言っていた。母の日の朝、父と姉との3人で家を出た。母は何の疑問も持っていなかったに違いない。私たち3人は兎に角仲良しで、いつもこんな風に散歩に出掛けていたのだから。私たちが行きたかったのはあの花屋だった。花屋はいつもより客が多くて、そのうち花が売切れてしまうのではないかと心配になったほどだ。ようやく順番が回ってきたところで欲しかったカーネーションは売切れだった。あの当時、母の日といったらカーネーションでなければならない風潮があったのだ。私はとても残念で、それに大変な泣き虫でもあったから、涙がひとつふたつと零れてしまい父や姉を困らせた。すると花屋の奥さんが、それでは特別な花束を作りましょう、とか何とか言って様々な花を引き抜いて大きな美しい花束作ってくれた。それを受け取った私の顔が花束で隠れてしまうような。さっきまで泣いていたことなど忘れて大喜びすると、父と姉と花屋の奥さんが嬉しそうに笑った。花を買った足で直ぐ近くの和菓子屋で何か美味しいものを買って家に帰った。母に花束を渡すととても喜んでくれた。でもカーネーションはもう無かったのだと残念そうに付け加えると、母はこっちの方がずっと嬉しいと言って有難うといったのを覚えている。あの年の母の日を毎年この日を迎えるたびに思い出す。両親はまだ若く、姉と私も無邪気な子供だった。あの後私たちは田舎に引っ越して、住んでいた家はそのうち無くなってしまった。数年前には父が逝ってしまった。長い年月、母から離れて暮らしている私は母の日を迎えるたびに自分の親不孝を実感する。私が元気に頑張っていることが一番の親孝行だと母は言ってくれるけど。今日は遠いボローニャから母に沢山の感謝を贈ろう。


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