出合い

誰でもそうなのかもしれないけれど、私が何時かイタリアの地を踏んでそこにずっと暮らす日が来るなどと、誰が想像しただろう。人生というのは計画や希望どうりには行かないものらしい。少なくとも私の人生は自分の計画や希望とは全く違う方向に道が開けていった。それが良かったかどうかはさておいて、イタリアに暮らすようになったことで出合った本がある。元々私は本が好きなのだ。でも、イタリアに暮らさなかったらば、そしてある人に出会わなければ、この本を手に取ることは無かったのではないか、と思う。随分前にその人と知り合った。私がまだボローニャでの暮らしの軌道に乗り切れず、定職も無くぶらぶらしていた頃に知り合った。日本語の本、読みたいでしょう? そう言って貸してくれた数冊の中にその本はあった。須賀敦子という作家が翻訳したイタリアの本で、ある家族の会話という名前の本だった。私はこれを翻訳した日本人作家を知らなかったし、この原作を書いたナタリア・ギンズブルグという作家の名も耳にしたことがなかったから、初めは半信半疑で読み始めた。ところが私は直ぐに話しに引きずり込まれて一晩掛けて読み終え、そして翌日また読み直し、結局その本を5回も読んだ。幾ら私が本を好きだといっても、立続けに繰り返し読んだのは初めてだった。何がどう良かったのかを言葉に現すのは難しい。素晴らしかったとか、読み応えがあったとか、そんなありきたりの言葉ではなくて、私自身が時代を遡ってこの目で見た、そんな感じだ。1930年代から50年代の自分の家族を描写したこの本を、戦争の話が大嫌いな私が珍しく関心を持って繰り返し読んだのには何か理由があったのかというと、正直なところ理由のひとつも見つからない。もしかしたら現代に無い何か強い家族のつながりとか、今は見ることが出来ない戦前の北イタリアの暮らしとか、そんなことなのかもしれない。あれから何年も経った3年前のある日、急に原作を読みたくなった。丁度通り掛った本屋に駆け込んで探したが見つからない。店員に訊いてみるが知らないという。それで町の中心の二本の塔の下の本屋へ行き、私より少し若いであろう店員が山のような本の中からやっと見つけだしてくれた。Lessico Famigliare と表紙に書かれていた。店員が不思議そうに訊いた。どうしてこの本を選んだのですか。それで随分前に日本語に訳されたのを読んで酷く気に入ったので、原作を読んでみたいと思ったのだと説明すると、店員は納得したように、うん、うん、と頷いてこれは良い本ですと言った。嬉々として本を抱えて家に帰り早速読み始めてみたら、あまりに小難しい言い回しのイタリア語でなかなか先に進まなかった。何日も掛けて読み終えてみると、翻訳には無い味わいがあって嬉しくなった。と同時にこの本を訳した須賀敦子という作家の素晴らしさを改めて知ったのだった。それから私は彼女の本を幾つか読むことになるのだが、既に他界してしまった彼女と会って話すことが出来ないことをいつも残念に思うのだった。私が相棒に出会ってイタリアに来なかったらば、多分イタリアに関心を持つこともなかっただろう。私にとってイタリアは無縁の世界だったのだから。出合いとはこういうものだ。知らないところでちゃんと繋がる。私の大切なギンズブルグのLessico Famigliare は、今は以前となりの会社で働いて私にとても良くしてくれた優しい女性の本棚にある。

遅い夕食

金曜日の晩は気分がいい。昨晩見た真珠色の美しい月は何処を探しても無いけれど、ボローニャの向こう側では見えるのだろうか。そんなことを考えながら夕食の支度を始めた。明日の朝寝坊が出来ると思うと夕食がちょっとくらい遅くなっても気にならないというのは面白い心理だ。昔の私ならば夕食といえば19時くらいに頂くものだった。そうだ、ローマで若いイタリア人達と5人で一緒に暮らしていた頃、こんな事があった。仕事が早く終わる日は帰りに家の近くにあるプラティという名の食料品市場に立ち寄って新鮮な青果や生ハムを買って帰った。初めはこの辺の顔でない見慣れぬ私につっけんな市場の人たちだったが1ヶ月も経つと親しくなった。今夜食べる熟れた甘くてすっぱい苺が欲しいのだけど。黄色いけどしっかりした若いバナナが欲しいのだけど。そんな風に注文する私に初めのうちは当惑していたようだけど、それにも直ぐに慣れたらしい。お嬢さん、今日はあんたの好きそうな苺があるよ。ほら、今日はこんな大粒で甘いさくらんぼがあるんだよ。そんな言葉に誘われて買い物する私が、檸檬をひとつ、バジリコを一握買いたいと言えば、これはおまけね、と買い物袋の中に忍ばせてくれた。チーズや生ハムを売る店にもよく足を運んだ。そして市場を出てもう少し家に近い角の店でプーリア地方の大きな円形のパンを4分の1だけ買って家に帰った。私達は5人で暮らしていたが、かといって皆が揃って食事をすることは殆ど無かった。私の他にもうひとり仕事を持っている人が居たが、時間に不規則な仕事をしていたからすれ違いが多かった。ふたりローマの大学の学生が居て、ふたりとも建築学を学んでいた。ふたりの部屋の中には大きな机があって、それぞれがいつもその机にかじりついて図面を引いたり試験勉強に励んでいたが、そうかと思うと友人達と夜のローマの町に繰り出したりと、自由奔放な生活を満喫していた。残りのひとりは不思議な存在で、午後に数時間仕事をするが収入は無く、しかしお金に困ることも無いまさに不思議な人だった。時々ローマの有名なレストランで夕食を楽しんだり、300万リラもするヴァレンティーノのレースのドレスをクローゼットの中にしまっていたり、有名人達が通う美容院を贔屓にしていたり。その店がヘアカットが20万リラも要すると知ったときには、彼女は何故共同生活をしているのだろうと不思議に思ったが、それはどうやら他の住人達も思っていたことらしかった。そんな彼女はちょっと不可解で異星人のような存在というと丁度良かったが、ひょっとしたら彼らにしてみれば私こそ異星人のような存在だったのかもしれない。それで家に帰ると市場で買った材料で夕食をひとり分準備した。独りぼっちの夕食だけど別に寂しくは無かった。いつも例の異星人が飼っている美しい鼠色の猫が足元に擦り寄ってきて、夕食時を一緒に過ごすからだった。と、住人達が帰ってきた。例の異星人と学生たちだった。夕食をとる私の姿を見るなり大きな声で言った。まあ、あなた。朝食をとっているんじゃないでしょうね。朝食ですって? ううん、夕食よ。そう返事をする私に彼らは口々に言うのだった。19時に夕食をとる人などローマの何処を探したって居ないとか、こんな空の明るい時間の夕食をとるのは変だとか、こんなに早く食べたら寝る頃にはお腹が空いてしまうではないかとか。彼らはカラカラと笑った後、ローマは夕食時間が遅いのだと教えてくれた。勿論老人と子供はこのくらいの時間に食事するかもしれないけれど、と付け加えて。それから私はローマの風習に従って20時を大きく回ってから夕食をとるようになった。そういうものは習慣で、慣れればそれが普通になった。後にローマから再びボローニャの生活に戻ったがその癖が抜けなくて夕食時間が遅いと相棒に文句を言われた。それであの時の話をすると、成る程ねえ、空の明るい時間の夕食ねえ、確かにローマではそうかもしれないね、と同意したものの、でも僕はもう少し早くに食事したいと言った。今夜みたいに遅くに夕食を準備する晩は、必ずあの晩のことを思い出す。あの異星人と猫はどうしただろうか。学生達は、それからもう一人の不規則な生活をしていた彼女はどうしているだろう。ワインの栓を抜いた。気分の良い金曜日の遅い夕食に乾杯。懐かしいローマの思い出に乾杯。

何度目かの雪

この冬何度目かの雪が降っている。ボローニャに暮らすようになってこんなに雪が降る冬は初めてだ。初めは粉のようなか弱い降り方だった雪も夕方には辺りを白く包み込んで案の定町は渋滞に見舞われた。ボローニャは雪に弱い町だ。ちょっと積もっただけで町中が麻痺してしまう。降り続ける雪のなか、相棒が次から次へと文句を言いながら車を走らせる。そうだ、いい案がある。冬のオーストリアを旅していると思ってみたら良いのではないだろうか。そう提案してみたら、ついさっきまでしかめっ面で百も文句を並べていた相棒が、ああ、それはいいね、と言って急に機嫌よくなった。8年前の10月下旬のある日、私達は車でブダペストへ向った。オーストリアの南チロル地方を通過する所で雪に降られた。真正面から吹き付ける大きな雪片がフロントガラスにくっついてあっという間に視界が遮られた。これ以上先に行くのは無理だろう、そう言って途中の村で宿を取ることになった。それがGriffen という名の村であった。小さな、正直言って見所は何にもない村だ。だけど気持ちの良い宿と、気持ちの良い人々、それから美味しい黒パンを売るパン屋があって、私たちがブダペストへと車を走らせるときは少なくとも一泊はしたくなるのである。あの晩の雪は本当に凄かった。軽装だった私達はジャケットの襟をたてて車を降りると宿の中に駆け込んだけど、一瞬のうちに頭にも肩にも雪が積もっていた。宿と言っても地上階は居酒屋兼お食事処で、その上階が宿になっていた。大体小さな村で、友人達の誰に話してもそんな村は知らないというくらいマイナーな村なのだ。だから大抵部屋が空いているらしいが、その番に限っては隣の町で大切なサッカー戦があった為に部屋が一つしか残っていなかった。私達にとっては大変な幸運だった。そうでもなければあの雪の中を走り続けなければならなかったのだから。荷を降ろした後に勝利を祝う人々で賑わう店の隅っこにテーブルを確保して、温かい食事と店主が自信を持って薦めてくれた赤ワインにありつきながら予定外の雪が私たちをこの村に招いてくれたことを喜んだ。ボローニャに降る雪の中を走りながら、あのワインは美味しかったねえ、と独り言を言うと、うん、本当に美味しかったねえ、と返事が返ってきた。どうやら相棒もあの晩のことを思い出していたらしかった。雪の降る日はオーストリアを旅していると思えばよい。あと何度降るか知らないけれど、雪は嫌いだけど、寒くて堪らないけれど、そう思えば何とか乗り越えられそうな気がしてきた。

無用の記憶

沢山の事を考えた。知人が発した言葉からこんなに沢山のことを考えようとは思っていなかった。随分前に箱に詰め込んで忘れてしまった振りをしていたあれこれが、その言葉で箱が開いて中味がびっくり箱のように飛び出したはいいが、あまりに沢山のものが詰め込んであったから元に戻すことが出来なくなってしまった。そんな感じだった。アメリカの、海に面した霧の濃い、しかし晴れの日には驚くほど空の青い暢気な町からボローニャに引っ越してきたのはもう随分前のことだ。私なりに納得してボローニャにやって来たものの、暮らしてみると色んなことがあった。言葉の違い、文化の違い、考え方の違い。それらは当然あるだろうと覚悟をしてきたがそれらに一度に直面すると案外脆く挫けた。初めの頃は良かった。何もかもが珍しくて発見の毎日だったから。言葉が分からないと言うのも考えようでは良いもので、分からなければその一言が気にもならないし傷つくこともない。だから初めの頃は分からなかったから楽しいことばかりだった、とも言える。4ヶ月目くらいだ、私と相棒が英語で話すのを一切やめたのは。私は少ない語彙ながらもイタリア語で話す努力をしていたが、何か込み入った話、大切な話になるとやはり英語になった。そうでもしなければ自分が言わんとしている事を相棒に伝えることが出来なかったからで、そうでもなければ私の意に反した方向に物事が進んでしまうからだった。ところがある日、私たちがイタリア語で話さないのは何か聞かせたくないことがあるからに違いない、などと意地悪を言う者が現れた。何てことを言うのだ、私の身にもなってみろ、片言のイタリア語で意思の全てを伝えることが出来ない私の身にもなってみろ、と私は相棒ですら驚くほど憤慨して、その日を境に英語で話すのを一切やめた。そういう類の言葉というものは言った本人は直ぐに忘れてしまうものだけど、言われた人は傷ついてなかなか忘れることが出来ないものなのだ。単なる言葉。でも、一言で人を深く傷つけたり心を踏み潰したりするものだ。これは沢山の出来事のひとつで、箱から中味が飛び出したが為にきりなく思い出すことになってしまった。兎に角あの頃から私は言葉に酷く敏感になったのではないかと思う。日本に居た頃から淡々とした性格は変わりないが、イタリアに暮らすようになってから言葉のせいで私はとても強くなったと思う。母はそういう私を時々窘めるが、多分そうでもなかったら私はとっくの昔にここから逃げ出していたに違いない。母が想像する華やかでのんびりした空気が流れる美しい国イタリアからは、私が通過した色々を想像することは出来ないだろうと思う。しかしそれで良いのだ。だから私は母に一度たりとも辛かった出来事を話したことは無い。遠くに居る母が心配しないように。母にとって私は幾つになっても小さな気の弱い、夢見る女の子であるのだから。年とった母を海の向うで心配させるのは嫌だから。強すぎると窘められるくらいでよいのだ。今日の午後、相棒と山へと向った。ここ数日そんなことで塞ぎこんで口数の少ない私を元気付ける為に、山へカップチーノを頂きに行こうとか、奇麗な空気を吸いに行こうとか、色んな理由をつけて誘ってくれたのだ。途中、車を停めて林の中を歩いた。落ち葉は山特有の湿度で湿っていて、その上を歩いても音がたつことは無かった。音のない世界。鳥すら囀らない寒い冬の午後。箱から飛び出した諸々を上手くもう一度箱の中にしまうことばかり考えていたが、そうだ、この林の湿った落ち葉の中に捨ててしまおう、私にはどうしようもない無用の記憶も落ち葉と一緒に霜や露に濡れれば春には良い肥やしになるだろう、そう思いついて、えい、こんなもの、と言いながら林の中に投げ捨てて、えい、えい、と足で踏み潰した。向こうの方でその様子を見ていた相棒が、おい、大丈夫か、何をしているのだ、と大きな声で私に声を掛ける。大丈夫かな。うん、もう大丈夫。明日にはいつもの元気な自分に戻れるに違いない。

正直言って鳩が苦手だ。いつも群がっていることからして私の好みの枠からすっかり外れている。鳥が苦手なわけではない。例えば十姉妹やカナリアは昔から好きだったしテラスにやって来る小さな雀も好きだ。冬から春に掛けて土を休めている農耕地に飛んできては土の中に居る虫を上手に啄ばむ雉も好きだし、初夏に美しい曲線を描きながらすいすいと宙を飛ぶツバメだって好きだ。それではどうして鳩は苦手なのかと言えば、集団行動を好む性格や人の居る所に集団でやってきたかと思うと、わーっと一斉に飛び立って人々を驚かせるところなど。鳩には悪いけれどどうも私の性格にあわないみたいなのだ。そういえばカモメも苦手だ。港や海岸へ行くとカモメが空を飛んでいて、その様子は海らしくてなかなか宜しいのだけど、それが集団のカモメとなると思わず頭を抱えて逃げたくなる。それは多分こういうことだ。昔見たヒッチコックの映画のせいだ。私は彼の映画が好きで時々思い出しては繰り返し見るのだけど、美しい映像でありながらも鳥の映画だけはどうしても駄目なのだ。それでは何故雀やツバメ、カナリアは良くて鳩やカモメは駄目なのかと聞かれると、上手く説明は出来ないが多分雀たちは小さくて可愛いからだろう。それから雉は特別だ。特に緑や赤の色を携えた尾の長い恰幅の良い雉。舅が逝ってしまった数日前、朝早く彼を車に乗せて病院へ向った。検査をするためだった。彼は弱っていたけれど、まさか彼が数日後に急に逝ってしまうなど私たち誰ひとりとして考えても居なかった。交通渋滞を避けるために田舎道を選んで車を走らせた。右手に広がる農地に大きな雉が10羽ほどいて、黒い土の中の虫を啄ばんでいた。その様子が美しくも面白かったので、あ、御義父さん、雉が沢山居るよ、と話しかけた。彼は辛そうに農地のほうを眺め、しかし雉の存在を認めると、声を発することは無かったが嬉しそうな表情で農地を通り過ぎるまでその様子をずっと見ていた。昔はボローニャ市内のあちこちに農地が広がっていて何処でも雉を見ることが出来たそうだから、彼は雉を見ながら昔のことを思い出していたのかもしれなかった。私は彼の嬉しそうな様子をみて、私まで嬉しさが伝染したみたいに感じた。その数日後彼は急に目の前から消えてしまったけど、農地で雉の姿を見かけると彼のことを思い出し、そのうち私は彼が雉になって私たちの目の前に現れているような錯覚を起こすようになった。全くの錯覚だ。でも、もしかしたら本当にそうなのかもしれない、と思うときもある。私が悲しい気分で居るとき、車の窓の向うに丸々太ったピカピカに光る雉が姿を現したりする時などは特に。と、まあ、そういうわけで雉は雀のように小さくは無いけれど、特別扱いなのである。ところで旧市街を歩いていると時々自転車の二台に四角い箱を括り付けたおじさんを見かける。この箱の中身は何と鳩の餌で、おじさんは自転車を停めるなり箱の中に手を突っ込んだかと思うと地面に鳩の餌を撒き散らすのだ。すると当然ながら周囲にいた鳩が一斉に飛んできて、それはもう大変な騒ぎなのである。初めは何も知らなかった為に鳩の集団に囲まれてしまい恐ろしい思いをしたが、最近はそんなことも無くなった。あ、おじさんが居る! と彼の存在を認めた瞬間に彼から離れることにしているのだ。私のように鳩が苦手な人も居れば、おじさんのように鳩が可愛くて仕方ない人も居る。人間は色々なのである。私は鳩が苦手だけど、でもこんな風におじさんと鳩の様子を遠くから眺めるのは案外好きだ。