微妙な季節の匂い

今朝、空がすっきり晴れた。こんな空は何日振りだろう、と出掛ける仕度をしながら窓越しに何度も空を眺めた。外に出ると辺り一帯に霜が降りていて、まるで小雪が降ったかのように見えた。見ると気温は氷点下で、明るい暖かそうな空に反して空気は思いのほか冷たい。けれども良いのだ。こんな日は快晴になること間違いなしなのだ。直感したとおりの快晴。昼には10度を超えた。1月ももう数日で終わりなのだ。案外2月に入った途端、急激に暖かくなるのかもしれない。案外春はもう其処まで来ているのかもしれない。近頃のボローニャ辺りの日没時間は17時20分前後。この時間を過ぎても少し余韻が残る空は薄明るく、仕事帰りに旧市街に立ち寄ることにした。木曜日の午後とあって店の大半が閉まっていた。ボローニャの商店は大抵木曜日の午後が休みなのである。そのせいか町を歩く人も少なく、人混みが苦手な私にはうってつけの夕方だった。あの道もこの道も、春になったら散歩しよう。piazza maggiore 横の食料品店を冷やかし歩きながら、そんなことを考えた。何処も見慣れた風景だけど、小さな発見はあるものだ。ほんの少し目線を上げたり下げたりするだけで良い。それとも歩いて来た道をふと振り向いて見るのも良い。見えなかったものが視界にふと入り込む瞬間だ。重いコートと襟巻き、手袋の重装備だが、今までと違う微妙な季節の匂いを感じる良い夕方だった。
ボローニャはひと頃のようにマイナーな町ではなくなった。私がこの町に暮らし始めた頃とは違う。外国人も沢山居れば日本人も沢山いる町になった。勿論大きな町ローマやミラノとは比較にならなくとも。長年心の中で葛藤しながら暮らしたボローニャを自分の町と思えるようになったのは、ここ数年のことである。呆れるほど時間が掛かったにしてもそう思える日が来たことは、私にとって紛れもない幸運であった。
良い夕方だったので清清しい気持ちで閉じようと思う。遠くに暮らす家族や友人達に私の好きなボローニャのこと、この町での生活を知って貰おうと書き始めたこの雑記帖がこんなに長く続きくとは思いもよらなかった。何しろ怠け者で飽きっぽい私のことだ。半年、長くて1年続けば大したものだと思っていたら、途中で躓き転びながらも2年と2ヶ月書くことが出来た。この雑記帖に立ち寄ってくれた人達の声が、書く栄養になったのだと思う。雑記帖はこれでお終い。でも何が終ってしまう訳でもなく、私はこれからもボローニャに暮らして暇さえあれば散策を楽しみ写真を撮り、時と共に一歩ずつ前進していく。泣いたり笑ったり悩んだりを繰り返して、もっと大人になっていきたいと思う。時々ボローニャと聞いたらば、あんな町並みがあった、こんな裏道があったと思い出して頂けたら嬉しい。ついでにいつかご自分の目と足で確かめにに来て頂けたらば、もっと嬉しい。そして、有難う。最後のページの一番最後に皆さんに心からの感謝を捧げたい。また何時か、何処か違った形で。ごきげんよう。

via cesare battisti

もう何日も雨降りだ。朝から晩まで降り続けている訳ではないけれど、一日に何度も静かな雨が降る。イタリア中がこんならしい。北のほうでは雪が降り、南はシチリア島まで雨が降っているらしいから、仕方がないといえば仕方がない。昨冬が過ごしやすかった分だけこの天気が重くのしかかる。でも雪が降らないだけでも良いとしようか。私の気に入りの通りのひとつのvia cesare battisti はこんな天気が似合う。似合うと言うか、私がここを歩くときは何故かこんな湿気た天気のことが多いと言うべきか。春雨が降っていたり秋の曇り空だったり、冬の重い雲が空一面に敷き詰められていたり。どうやら私とこの通りはそういう関係らしい。それでいてそれで良いような気もする。旅行者がここまで来ることはあまりない。珍しいものは何もないからだ。生活道路と言って良いかもしれない。でも情緒があってこの通りを好んで歩く人が意外と多いことを私は知っている。土曜日の昼を回った頃にここを歩くと高校生達を沢山見かける。この近くの高校に通う学生達で、皆お洒落で賑やかにお喋りをしながら道幅一杯に広がって歩いている。それでいて私がカメラを構えて何かに夢中になっていると、ぴたりと歩みを止めて写真を撮り終えるまで待ってくれる。あまりの礼儀正しさ、あまりの行儀の良さに驚いた私が、元気にGrazie! と礼を言うと Prego! と同じように元気に言葉を返す学生達。私を追い越して少し歩いてから振り返りciao と言いながら手を振った。日本人が珍しいのだろうか。うーん、最近は随分町中でも見かけるけど。けれども可愛いではないか。気をよくして私も彼らにciao と手を振った。知らない人たちと町でこんな風に挨拶を交わすのは気分が良い。何かすごく得したような気になる。二度と会わないかもしれないけれど、人とのふれあいは良いものだ。賑やかな学生達がすっかり通り過ぎてしまうと、いつもの静かな道に戻った。

文字好き

この冬のことだ。フランクフルト空港で乗継した。丁度良い乗り継ぎ便がなく、4時間も空港で過ごす羽目になった。尤も乗り継ぎ時間が短すぎて飛行機に乗り遅れたり最終地で荷物が出てこないよりは良い、と納得済みのことだった。それにしても4時間とは何と長い時間なのだろうと空港の中を彷徨いながら思った。冬の休暇シーズンとはいえ、こんな日に飛行機に乗る人はあまりいないらしく空港は空いていた。店を冷やかしたり、カフェに入ったり、本屋で立ち読みしてみたり。様々なことを試みたが時間は一向に経たず、観念して滑走路を一望できるガラス張りの窓の近くに深々と座った。ふと横を見ると新聞があった。これは良い、とそのうちのひとつを手にとってばさりと音を立てて広げた。新聞との付き合いは長い。子供の頃、うちでは小学生新聞をとっていた。姉と私の為だった。誰が読みたいと言ったのだろうか、姉だろうか、それとも私だったのか。それにしても私達はある1ページにしか関心を持つことがなく、母をいつも嘆かせていた。そのうち小学生新聞を読む年齢が過ぎると、中学生が読むに丁度よいレベルの英語新聞が配られるようになった。これは多分私が読みたいと言った筈だった。私にはその頃アメリカ東部に同年の文通友達が居て、英語に夢中だったのだ。いや英語に夢中だったから文通していたのか、今となってはよく分からない。かといって英語が堪能だったわけでもなく、恐らく下手の横好き、そんなものだったに違いない。その証拠に英語の成績は散々で、母や姉からアメリカの友達と本当に意思の疎通が取れているのかと不思議がられてはからかわれた。次第にその新聞は溜まる一方で誰も読まなくなり、勿体無いということで契約を打ち切った。あの読まなかった新聞は油絵を描くときに下に敷いて、その後丸めて捨ててしまった。読まずに新聞を捨てる、それが心に痛いことを味わった時代だった。大人になって私は新聞の面白さを知った。新聞なしの朝なんて。そう思ったのは何歳のときだっただろう。街角に新聞が置いてあると手に取らずに居られない。何か面白いことはないだろうか、そんなことを思いながら。多分、私は新聞に限らず文字が好きなのだ。新聞の代わりに、本でも良い。雑誌でも良い。そう、文字が好きなのだ。そんなことを考えながらひとつ新聞を読み終え、また次のを手に取り、気が付いたら搭乗時間になっていた。いくら好きとはいえ、こんなに長い時間新聞を読んだのは生まれて初めてだった。

時代の流れ

ボローニャ旧市街の、その中でも中心部と呼ばれるvia de' musei。広場を背にして歩き始めると直ぐ右手に美味しそうな手打ちパスタやプロシュート、サラミ、惣菜満載の店がある。その隣の店にしても。これらは一体何時出来たのだろう、と初めてこの店を見た時思ったものだ。何故なら私がボローニャに暮らし始めた頃は気軽に入れて何時間だって居座ることの出来る大きなバール軽食屋、みたいな店だったに違いないからだ。ボローニャで立ち飲みでも座っても同じ価格でカフェすることが出来る店は少なく、この店はその少ない中のひとつだった。だから友達と長話をする時はこの店に入ると都合が良かった。店に入ると直ぐ左手に大きなガラスケースがあって、中には美味しそうなものが沢山並んでいた。ブリオッシュや小さな菓子もあれば、フォカッチャやアランチーノといったちょっと腹持ちの良いものもあった。茹でた野菜の盛り合わせもあれば、生ハムとモッツァレッラ、そして彩どりの美しいサラダも作ってくれた。学生が沢山いる町に相応しい値段だったから、朝から夕方の閉まる時間まで人が絶えることはなかった。ボローニャに暮らし始めたある日、私は相棒の幼馴染のモニカと一緒に旧市街を歩いていた。特に仲が良かったわけではなかったが、私にとても良くしてくれたので何年経った今も彼女には好感を持っているし、また感謝もしているのだ。兎に角、彼女はボローニャに来て間もない、何も分からない私を町に連れ出して案内してくれたと言う訳なのである。ほら、ここのジェラートは美味しいのよ、ほら、この本屋に行けば殆どのものが見つかるのよ、とそんな具合に。そしてこの店の前に来た時、ここはねえ、と話し始めた。戦前、ここは有料自転車置き場だったそうだ。自転車に乗る人、自転車で通勤する人が沢山いる時代だったから、大そう繁盛していたらしい。そしてその自転車置き場は彼女のお爺さんだったかそのお父さんだったか、今ではよく覚えていないけど、いわゆる先祖のものだったのだそうだ。戦後手放したその自転車置き場がこんなに流行る店になるとは、一体誰が想像しただろう。でもそうよね、こんなに町の中心だもの、一等地と呼んでもいいのよね。と言いながら、彼女は続々と人が吸い込まれていく店を眺めては手放してしまったことを残念がっている様子だった。そんな話を聞いたので、この前を通る度にモニカのことを思い出す。その店がいつの間にかなくなり、今はまた違う店となった。隣の服の店は粋なディスプレイが施され、スタイルの良い若者達が入っていく。そして食料品店の中にはきびきびと働く男女がいて、皆、白いつばのある帽子を被り白いシャツを粋に着こなしていた。ネクタイまでしているではないか。店内には恐らくはムラーノグラスの照明まで備え付けられていた。自転車置き場を営んでいた昔の人達が空の隅っこからこの様子を見ていたら、何と思うだろうか。多分私と同じ様に、時代は変わったなあ、とほんの少し驚きながら笑っているに違いない。

健康な証拠

今朝、夜明け前に雨が降っている気配で目が覚めた。そういえば昨晩も冷たい雨が降っていた。冷たすぎて少し凍った、霙のような雨だった。そんな中を相棒がピッツァをかばうように抱えて帰ってきた。このところ疲れが酷いのだ。夕方6時頃には眠気も加わって、くたくたになって帰宅する。金曜日だった昨日は、家に帰るなりもう限界だといわんばかりに椅子に座り込み、それでピッツァを注文することにしたのだった。家から目と鼻の先にある人気のピッツェリア。いつも人が外まで溢れていて、いくと必ず待つ羽目になる。もう歩く気力もなくて、持ち帰りするように相棒に頼んだのだ。どうしてこうも疲れているのか。ひょっとしたらどこか悪いのではないだろうか。ううん、そんなことはない。単なる疲れ、一週間の疲れに違いない。そんなことを考えながらピッツァをあっという間に平らげた。食欲はあるようだった。これならよい。食欲があるのは元気な証拠だ。私が食欲を失ったその時は多分本当に病気なのだろう、と思うほど私は昔から熱があっても体調が悪くても食欲だけは低下したことがない。あまり自慢するものがない私が自慢できることのひとつである。それにしてもピッツァとは、何と手軽に堪能できる美味しいものなのだろうと思う。昔、私はピッツァは切り分けてみんなで食すものだとばかり思っていた。切り分けたのをふた切れも食べれば充分だと思っていた。ところがどうだろう、イタリアに来てみると皆ひとりであの直径30cmをゆうに超えた円形のピッツァを平らげているではないか。それを見て私は大そう驚いたのだが、可愛い顔した華奢な女の子も、踵の細いくつを履いたお洒落な女性も、みんな残すことなくぺろり、なのだ。驚く私に皆が言う。普通よ、と。成る程、食べてみればそんなに大したことではない。そう思えるようになったのは随分後になってからのことだけど。やはりあれを一枚ぺろりと食べると言うことは健康な胃袋と食欲、食べる情熱があれば、ならではのことなのだ。それから面白いのは、切り売りピッツァを軽い昼食やおやつにすることはあるにしても、イタリアでは一般的にあの焼きたての円形ピッツァとは夜に頂くものなのである。そんなことは何も知らず、昼時にピッツェリアへ行こうと誘うたびに、昼間にピッツァ? と、何度嫌な顔をされたことだろう。実際、本格的な店は夜にしかピッツァを焼かないほどだ。そんなことをぐるぐる考えながら昨晩は早めに眠りについた。今朝雨の気配で目を覚ますと、お腹がぐーと鳴った。どうやらあのピッツァだけで充分でなかったらしい。それにしても健康な証拠である。空腹に負けてベッドを抜け出すと、お腹の中の大きな穴を埋める何か美味しいものを探しにキッチンへと向かった。