心の解る人

7月最後の一日。カレンダーを眺めながら嬉しくて怖いくらいだと思う。あと一日。この金曜日を乗り越えれば夏期休暇なのだ。そう思うと嬉しくてぞくぞくする。そんな私を他所に私の友人は一足先に27日間の休暇に入り、早くも遠い休暇の地へと飛んでいった。正直に言おう、私はとても羨ましい。しかし人と比べだしたらきりがないので、私は自分にある休暇で満足するのが宜しいだろう。この休暇にかける想いはとても大きく、これをきっかけに心身ともに元気になれたらよい。勿論、私は決して病んでいる訳ではないけれど、それにしてもちょっぴり元気が無いのである。人間、誰にだってそんな時期があるもので私は今丁度そんな時期なのだ。そんな時期に私は友人を得た。私が元気だったらば友人になることもなかっただろう。何事にも自信があって口調の強い鼻持ちなら無い私より6つ年上のその女性を、私は単に嫌っていたに違いない。何故彼女がそんな風であるのかも知らずに。幸運なことに自分がこんなだから人を嫌う元気も無く受け入れているうちに、色んなことが分かってきたのだ。今彼女は私のよき理解者であり、相談役であり、互いに励ましあいながら色んな夢を見る友人となった。人生とは面白いものだ。こんな時期にもひとつくらいは良い事があるように出来ている。私の休暇先が決まって喜んでくれたのも、私が休暇で何をするとか何をしたいとか嬉しそうに話すのを同じように嬉しい顔でうん、うん、と頷きながら聞いてくれたのも彼女だ。多分、彼女もまた私と同じような経験をしてきたのだろう、と思う。そしてそれを乗り越えて心に余裕が出来たのだろう。私と彼女は一見して全く違うタイプの人間で、逆立ちしても同じになんてなれないけれど、いつか私も彼女のように人の心が解る人間になれたよい、と思う。

美しい本

私の好きなものは限りが無い。好きだけで留まることが出来ずに欲しいという感情に辿りつくことも多々あるが、それは大抵身近にあるものばかりであって高価でないことが多い。我ながらお金のかからぬ人間だ、と感心するほどである。ダイヤモンドは美しいので好きだけど、それでは欲しいかと言えばそうでもない。エルメスの店先に置かれていた色鮮やかなスカーフやコーヒーカップを美しいとは思うけど、見ているだけで良いような気がする。そんな私が心底欲しいと願うもの、それは美しい本である。ここはvia farini。ブランド街と呼ばれる辺りを背にして歩いていくと右側のポルティコの下にある。私がよく利用していたバスの停留所とは目と鼻の先である。構えがあまりに豪華なので中に入っていく人はあまりいない。冷やかしで入るにはあまりにも勇気の要る店である。私にしても店先を見て楽しむだけで。しかし充実しているのだ。あまり頻繁に模様替えは無いけれど、同じ本を眺めていても飽きることが無い。例えばこの本もそうである。もう何度見たことだろう。美しいのだ。ああ、私にもこんな絵を書き込むことが出来ればよいのに。他のページには一体どんな絵が描かれているのだろう。そんなことを思いながら、また次に来る時もこの本が飾られていますように、と願うのだ。いつかこの本を手に入れたい。恐らくは私の小遣い程度で手に入る本ではないに違いないけれど。

穏やかな時間

週末の暑い昼過ぎ、私はボローニャ旧市街からほんの少し外に出たところへ行った。女友達と約束をしたのだ、旨いものを食べに行こうと。其処は南イタリア人が経営する魚介の旨い店なのだ。もう何日も前にその店の話を聞かされて以来、私は新鮮な魚介を食したくて夢にまで見た。その店は何てことの無い外見の店だった。女友達に連れられて行かなかったらば、多分通り過ぎてしまったに違いなかった。久しぶりに生ものを食した。上からレモンをぎゅっと絞って口に入れると生海老はとろりと甘く、牡蠣はあの独特な旨味が口に広がった。イタリアに暮らす女性たちは美味しい物好きな人が多い。美味しいものを頂くことが大きな喜びであるという女性が多いのはイタリアに限ったことではないとは思うけど、私の周りにはそんな女性ばかりなのだ。日頃の報告やこれから迎える夏の休暇の話をしながらも、手と口を動かすことは忘れない。それにしても白のスパークリングワインがとても合う。よく食べよくお喋りして2時間も経った頃、私たちは店を出た。私が思っていたよりも一人当たりの代金が15ユーロも安かった。また行かなくては。こんな店は出来れば秘密にしておきたい、と言いながら人に会う度についつい話してしまうのはどうしたことだろう。それから私は旧市街を散策した。兎に角暑くて日陰を探しながらの散策だった。いつの間にか私はchiesa di san domenico まで来ていた。一体どの位歩いたのだろう、暑い暑いと言いながら。教会の前の広場にはさすがに誰も居なくて、強い陽射しを浴びながらここまで来たことを良かったと思い、同時にどうしてこんな所に来たのだろうと思った。教会を後にしてpiazza maggiore へ向かうと、まるで地から湧き出た蟻んこのような沢山の人に遭遇して、先程のひと気のない広場を恋しく思った。最近の私の心境は微妙すぎて自分でも時々手に負えなくなる。しかしどうしたことだろう、こんな沢山の人を旧市街で見るのは全く久しぶりであった。彼らは旅行者なのだろうか、それとも一足先に休暇を楽しんで待ちに帰ってきた人々なのだろうか。その晩私は何時までも寝付くことが出来なかった。テラスに椅子を出して涼しい夜風に吹かれながら久しぶりに得た穏やかな一日を思い返して眠くなるのを待った。

角の店

ボローニャ旧市街の真ん中の、2本の塔から直ぐの処にこんな店がある。piazza santo stefano に向かう途中の左手にあるが、いつもながら店に名前を知らない為に私は角の店と呼んでいる。この店は一体何時からあったのだろう。いつも前を歩いていながら私は長いこと気が付かなかったようだ。何ヶ月も前の冬の夕方、女友達と当ても無くぐるぐる歩いた。ウィンドウショッピングならば寒さも感じないのだろうか。寒いというのに女というのは、全く不思議な生き物である。私が男だったらば、きっとそう言ったことだろう。兎に角その日、この店の存在を女友達が教えてくれた。外見は小さいが中に入る遠くが深い。あっちにもこっちにも部屋があって、じっくり見だしたらきりがない、そんな店だ。この手の店では価格のことは考えないのが宜しい。その発想を見て楽しむ、品質を確かめて感嘆する、それが良いと思う。私はアンティークが好きなので真新しいものを購入したいとは思わないが、それにしても家具の配置や組み合わせ、色合い、小物の選択から学ぶもがあった。それ以来、私はこの前を通る度に外から覗きこむのが習慣になった。何度通り掛っても、私にとっては角の店である。未だに店の名前が分からない。
ところで今日は金曜日なのだ。長い休暇の前は何時だって忙しくて家と職場の往復、思い返せばつまらない毎日だったが、ようやく金曜日の夕方に辿り着いた。さあ、何をしよう。郊外へ車を走らせようか。それとも街へ向かおうか。どちらにしても空はまだまだ明るくて、何もが可能に思える。来週末はそれぞれが選んだ休暇先へと散らばっていく。だからこの週末を逃したら8月の終わりまで友達と会うこともない。いつもは腰が重い私も、今週末はアクティブになる。buon fine settimana a me.

距離感

ボローニャは街から車で外に向かって20分も行くとあっという間に自然の中に飛び込むことが出来る。何処まで行っても街、店、家ということはあまり無い。自然の中に家があり、集落がある。点在する小さな町の中心に小さな店が何件かあって、そこで人々は最低限の用事を済ませる、そんな感じだ。週末になるとボローニャの人々は綺麗な空気と濃い緑を求めて郊外へと向かう。ボローニャの街から南へ、トスカーナを目掛けて30km程行ったところにあるLoiano やMonghidoro はボローニャの人々にとって近過ぎず遠過ぎない手頃な週末の居場所である。丘の町ピアノーロに暮らす私にとっては、これ以上手頃な場所はない。何しろ隣町なのだから。だから例えば夕方7時頃に気が向くと車に飛び乗って出掛けたりするのだ。昨日の日曜日、やはりそんな風にして夕方遅くLoiano へと向かった。涼しい空気を求めて。そう言って出掛けたところ涼しいどころではない、寒いくらいの風が吹きぬけていた。空気が美味しい。深い緑が目に心地よい。街で生活しながらこんな風に自然と接触できるのは、なんて素敵なことだろう。この距離感がよい。思い立ったら手が届く距離感がよい。空に美しく配置された雲を眺めながら、この瞬間、自然を独り占めしていることを贅沢に思った。
そんな美しい空の翌日の今日、ボローニャとその郊外の町に大粒の雨が降った。あっという間に大きな水溜りが出来た。空は文句を言いたそうな色をして辺りをすっかり包んでいた。雨が嫌いだ。けれども暫く雨が降っていなかったのだ。だから今日の雨は恵みの雨と呼ぼう。時には雨も必要なのだ。