静かな午後

昨日から夏時間が始まって夕方遅くまで明るくて大変宜しい。僅か一時間のことだけど心に与える印象も喜びも大きい。そしてもうひとつ。僅か一時間のことだけど私はその一時間の違いが体に堪えて眠れない。自分が顔に似合わず繊細であることを毎年この時期に再確認している。顔に似合わず繊細などと人に言われたらむっとくるに違いないが、自分で言うのは良い。あははと腹の底から笑って、お終い。後腐れも何もない。先日via santo stefano で96番のバスを待っていたところ、一瞬ぱたりと車の流れが途切れた。この通りには珍しいことである。旧市街内は交通規制があるというのに不思議なことに何時だって車の流れが途切れない、それがvia santo stefano なのである。この瞬間この通りに存在するのは私と向こうからゆっくりとペダルを漕いでくる青年と、そのまたずっと向こう側から歩いてくる老人だけ。物音のしない静かな午後の一瞬を互いに知らない同士の3人で分かち合った。

帽子屋

piazza maggiore から直ぐそこにある私の大好きな帽子屋、ボルサリーノ。もうそろそろ春夏物になっているだろうと思い立ち寄ってみた。つい最近まで飾ってあった冬のフェルトのベレー帽や暖かそうな帽子の姿はもうなく、ショーウィンドウにはオードリー・ヘップバーンが被ったら似合いそうなつばの広い黒い夏の帽子が飾ってあった。縁取りの白いその帽子のコントラストが美しくて、いったいどんな人が被るのだろうと色んなことを想像しながら帽子に見入った。この古い帽子屋は店こそ小さいが、品数豊富な上に店員が親切で大のお気に入りである。見るだけでも楽しい。そこではたと思った。私は夏の帽子を見るのは好きだけど、被るのは嫌いだ。理由は小さい頃にさかのぼる。昔の話であるが、自転車に乗る時に帽子が風で飛ばないようにとゴム付きの帽子を被らされた思い出、あれが原因とみているがどうだろう。あのゴムが嫌いだったのだ。夏は日差しが強いから帽子を被るようにと母から強いられて、しかもゴム付きだった、それが夏の帽子のイメージを悪くしたのである。ガラス越しに美しい帽子を眺めながら、ふうー、と大きく溜息をついた。帽子屋のショーウィンドウに市庁舎の壁が浮かび上がり、そのうち帽子が遠くに霞んだ。まるで私の気持ちを知ったかのように。

celestiniの壁

期待していた通りの晴天になった。窓越しに外を見ると人々は軽装だった。目を疑いながら窓からそーって手を出してみると、昨日とは空気の質が異なっているのを感じた。人々が軽装なのも頷けるというものだ。昼過ぎにやっと重い腰を上げて旧市街へと出掛けた。今日のピアノーロは何時になく風が無くて穏やか。気温は既に20度を上回っていた。この分だと旧市街はもっと暖かいに違いない。そう思っていたところ、バスを降りるなりトレンチコートの襟を立てた。建物と建物の合間を風が吹き抜け、思いのほかひんやりしていた。しかし見回すと人々は軽装でここには確実に春が到来していることを知った。広場には既にテーブルと椅子が並び、屋外でカフェを楽しむ人、人、人。そんな光景を横目で見ながらvia d'azeglio へと向かう。今日は目的のない散策。単に街を徘徊して気分転換しながら春を感じたいだけなのだ。この通りには幾つか好きな店があり、通る度に必ずその前で足を止める。もっとも中に入って買い物することは殆どない。いつだって見るだけである。その少し先へ行くと右手に小さな広場が広がる。piazza de' celestini という名の広場である。とても狭くて地味な広場だが私は個人的にとても気に入っている。ただここには時々ずるりと服を引きずった感じの犬を連れた若者達が数人いて小銭をねだってきたり、時には得体の知れぬ署名を求める若者達が居たりするので、なかなか難しい場所でもある。via d'azeglio とpiazza de' celestini の角に私の好きな教会がある。san giovanni battista dei celestini という名の長い名前を持つこの古い教会の何が気に入っているかといえば、教会内にある絵画でも何でもない、外壁である。それは教会に対して失礼なことだろうか。と一瞬思いながらも、いいや、そんなことはない、と思う。じっと眺めていると壁の暖かい色が私にも伝わってくる。何年も前から私はそこをcelestiniの壁と呼んでいる。

余裕

月曜日が祝日だったから、今週はあっという間に金曜日を迎えた。毎週こんなだったらいいのにと知人と冗談交じりに話したが、冗談抜きで毎週こうだったら有り難い。私はもしかしたら週末の為に生きているのかもしれないと思うくらい週末好きだ。こういう人は多分、世の中にごまんといるに違いない。寒い一週間であった。3月下旬というのにこんなことで良いのだろうか、と何度も窓の外を眺めながら思った。寒の戻りというのはどの国にもあるらしい。イタリアの春先は寒の戻りばかりである。今更驚くことでもないが、春を待ち焦がれていた分だけ寒の戻りが身と心に沁みる。金曜日の夕方は旧市街をぶらぶら歩き、その途中カフェやバールに立ち寄って美味しいのを一杯頂くのが習慣であるが、今日はそんな気分になれなかった。寒いからである。そして考え事をしていたからである。そんな時こそ街を散策したり好きなことをするのが宜しい、といつもの私なら思う訳だが今日に限ってはそうではなかった。私は昨日からずっと考えていたのだ。今まで私はあえて言葉にして言うほど運が良かった訳ではないけれど、今までの人生、いつも自分が何をしたいのか良く分かっていてそれに向かって突っ走ってきた。そういうことに貪欲だったしエネルギーがあったから出来たことだと思うと同時に、そうする自由があったから出来たのだとも思う。それは言い換えれば大変な幸運だった、ということではないだろうか。それに思いが辿り着いた時、私の考え方が突然変わった。自分がしたいことも大切だけど、今の自分に出来ることをするのも大切かもしれない、と。そうすることで心の中の葛藤が少なくなったり周囲を見回す余裕が生まれるのではないかと。余裕。そうだ、ここ数ヶ月の私に無かったのは正にその余裕だ。時間的余裕ではなくて心の余裕。だから不満も生まれるし、感謝も出来ない。いつも心の中で戦ってばかりいて気がついたらささくれだらけになっていた。自分のしたいことに向かって夢中になって走るのは活力的で実に魅力的だ。でも今はちょっとひとやすみ。長い人生の間に一度くらいこんなスローな時期があってもいいかな、と思う。この年齢になってやっとそれに気がついた。遠くに暮らす母が聞いたら笑うだろう。それとも何をさせても時間が掛かり、人よりワンテンポもツーテンポも遅い私らしいことだと言うだろうか。

ひとりで入る店ではない

昨日と今日の寒さと言ったらなかった。予報通りといえばそうだけど、こんなに寒くならなくても良いのではないか、とガラス越しに外を眺めながら思わず文句を言いたくなるほどの寒さであった。勿論、寒がりの私のことである。ひょっとしたら普通の人にはそんなに寒くなかったのかもしれない。今日、職場によく顔を出すサンドロという男性と話した。彼は広告デザイナーで、その手の仕事がある時だけ職場に顔を出す、一種のお馴染みさんだ。私と彼の共通点はない。別に互いに好意を持っている訳でもないし関心があるわけでもないが、顔を合わせば言葉を交わして、話し始めると止まらない、そういう関係である。紅茶を片手に寒い寒いとうろつく私にサンドロが言う。一週間後には驚くほど暖かくなっているよ、と。あんた、何を根拠にそんなことを言うか、と言わんばかりに私が疑わしい顔をしてみせると、いいや、本当にそうなのだ、と言う。私はまた、いやに自信があるではないかと言わんばかりの表情をして見せるが、そうだ、自信があるのだという。それで私たちは社内にある全然美味くないカップチーノを賭けることにした。さて、来週の木曜日は暖かい春になっているだろうか。自称散策好きの私だが、実はこんなに寒いと散策どころではない。用のある時だけ旧市街へ出向き、そそくさとバスに乗り込んで家に帰ってきてしまう。そんな中、裏通りに面した小さな店の前に草色の椅子と丸テーブルを見つけた。via oberdan は私の大好きな通りであるから、何度となく歩いているし立ち並ぶ店の殆ども何かしらの形で馴染みがある。つまり通りから中を覗いてみたり、時には中に入ってみたり、買い物をしてみたことが有るという意味で。この店の前はもう何度も歩いた、いつも何となくいいなあと思いながら。けれどもまだ一度だって足を踏み入れたことがない。ある日この小さな椅子と丸テーブルを見て、やっぱりいい店かもしれない、と足を止めた。入ってみようか。私は知らない店にひとりで入ってカフェやワインをひとりで楽しむのが決して苦でない性格だ。何処にだってひとりで行くし、どんな時だってひとりの時間を楽しめる特技を持っている。けれども時々直感する時がある、この店はひとりで入る店ではないと。そういう店がボローニャに今のところ5軒ほどあって、そしてこの店もその内のひとつである。何を基準にそう感じるのか、それは自分にも分からない。もしかしたら単なる先入観なのかもしれないが、今のところひとりで入る気になれない。もう少し暖かくなったらこの店に入ってみようか、誰か友人を引き連れて。