小さなカルロ

ボローニャの2本の塔の前から真っ直ぐ伸びる大通りvia rizzoli には沢山のバスが停まる。バス停があっちにもこっちにも分かれて存在しているこの通りに来れば何かしらのバスを捕まえて行きたい所に行ける、と言ったら嘘になるが、少なくとも移動に便利であることには間違いない。もう随分昔、私はこの通りからしばしば19番のバスに乗った。このバスを利用する人が多いから本数が沢山あって便利だが、兎に角利用する人が多くていつ乗っても混んでいて、混雑を嫌う私はいつも、嫌だなあ、と思いながら利用していた。本数は多く設定してあるくせに、時々ぱたりとバスが来なくなることがある。待てど暮らせどバスは来ないので、あっちをうろついてみたり、そっちをうろついてみたり、そんなことをして時間潰しをした。バス停の直ぐ傍にはvia degli artieri という名の道があって、私はその道沿いに並ぶ小さな店をみて歩いたものだ。先週久しぶりにこのバスを待っていた時、何か違うことに気がついた。いつからこんな風になったのか、道の真ん中には駐輪場が設けられ、その少し奥にはゴミ箱が置かれていた。以前は車が通っていたはずのこの通りはいつの間にか車の進入禁止、つまり通行止めになっていた。そういえば随分と長いことこの通りを歩いていない。もう何年も、である。私は歩くのが好きなくせに気にならない道は一向に足が向かず、何年もご無沙汰、なんてことが良くある。並んだバイクや自転車を見ながら、ボローニャに暮らし始めた頃にこの道の角にある銀行の前でちょっと知り合ってそれきりのアメリカ人女性を思い出した。カルロと言う名の小さな男の子を連れていた。まだ5歳にもならない小さなカルロは水色のフレームの小さな眼鏡を掛けていた。かなり度の強いレンズだった。昔で言う牛乳瓶の底のように厚いレンズだった。彼が賢そうに見えたのは眼鏡のせいだったのか、それとも内から発するものだったのか、今となっては分からない。彼の母親は、カルロは生まれて2年もしないうちに眼鏡が必要になったこと、小さな子供に眼鏡を掛けさせるのは母親としてとても辛いことをカルロに聞こえないように知り合って間もない私にそっと打ち明けて悲しい顔をした。ただそれだけのことだ。だけどこの道にはそんな思い出がある。それっきり一度も会わない彼らのことをこの通りを久しぶりに眺めながら想った。彼らは今もボローニャに居るのだろうか。カルロは元気にしてるだろうか。私が覚えている小さなカルロではないにしても。

ひとの心

お酒好きな人は甘いものが苦手だ。そんな言葉を聞いたことがあるが、いったい誰が言ったのだろう。私はワインが大好きだ。しかしそれと同じくらい甘いものが大好きだ。いくら美味しいワインを伴う食事会でもお菓子が最後に出てこなければ興醒めなのだ。ワインがなければ尚更お菓子無しではいられない。沢山頂く必要はない、美味しいのを一口頂くだけでも満足で、その一口を頂く為にその前に出てくる数々の食事の量を調節する、それくらい私にとっては大切なもの、欠かせないものなのだ。どの街に暮らしても気に入りの店を必ず見つけて、何かの時に足を運んだ。例えばどこかに招かれた時、例えば家族のお祝いがある時、例えばちょっと疲れて自分に褒美を与えたい時、私は気に入りの店に足を運んではその時の気分に一番合った美味しいひとつを選び出すのである。ボローニャでも色んなところを渡り歩き、現在幾つか贔屓の店がある。via caprarie にひとつ、via santa isaia にひとつ、via mazzini にひとつ、via murri にひとつ。けれども一番は今のところvia ugo bassi に面したgamberini であろう。見掛けもよければ味もよく、ほかに比べて高額だけど目を瞑って財布を開くのはやはりそれだけの価値があるからだ。そうして私は足繁く通って、色んなものを食したが、今のところひとつだって外れたことがない。ただ、私はこの頃思うのだ。何だか少し変わったなあ、と。お菓子は今までどおり美味しいが、どうも店の感じが変わりつつある。純粋に美味しいものを提供するという感じがなくなって、率直に言えば初心を忘れて商業化してしまったようなそんな感じ。商売なので儲からねばならぬ。それは私にだって理解できるところだが、何かが違う、何かが違うと感じるこの頃。どうやら、別の店を探す時期が来たようだ。お菓子とは不思議なもので、美味しいだけでは駄目なのだ。お菓子というのは、人を幸せにするもの、だから美味しいことに加えて、多分作る人やそれをサーブする人の心が伴わないとただ単なる甘いものになってしまう、と私は思う。生意気ではないか。しかし人の心とはそういうもので、だから人を魅了するのは難しいのである。私は拘り性だけどひとつに執着したり縛り付けられたりするのが嫌いな性質だ。通いつめたここ、gamberini ともこれでお別れ。これから同じくらい美味しくて、けれども私好みの人間味溢れた店を見つけよう。春の楽しみがひとつ増えた。

pasquetta (パスクエッタ)

今日はPaequetta、今日も祝日である。昨日の雨がきれいに上がって晴天に恵まれた。多分沢山の人がそうなることを願っていたに違いない。こんな日は何処かへ出掛けたいというものだ。気に入りの町カステッロことCastel San Pietro Termeへと車を走らせた。ボローニャ旧市街から約30kmのその町を初めて訪れたのは2年前のことだ。一目見てすっかり気に入り、それ以来足を運ぶようになった。この小さな町は文化が凝縮している上に豊かな自然に恵まれているので、ちょっとのんびり過ごしたい午後などに丁度良い。昼過ぎに着くなり空き過ぎた腹を引きずって食堂を探す。町の中心の広場から1分と掛からない静かな通りに面した食堂へ入るが何しろ混んでいるのでなかなか食べ物にありつけない。大きな穴の開いた腹にパンを千切っては詰め込む。限界間近でうなだれていたところ、美味そうなタリアテッレが登場した。メニューに表示されていた価格が安かったのであまり期待していなかったが、いやいや、美味い。見た目通り美味いその一皿に感激し、心の手帖を開いて安くて美味いと書き込み、その文頭に二重丸を印した。腹ごしらえをした後の散策はいつだって楽しい。ひと気のない昼下がりの広場に立って空を仰ぐ。空が明るいというのは何と気分の良いものか。。教会の屋根の上に立ち並ぶsanti(聖人たち)もきっと同じことを考えているだろう。今日で連休は終わり。明日からまたいつもの生活が始まる。

pasqua bagnata (雨に濡れた復活祭)

Pasqua(復活祭)はイタリア人にとってクリスマスと並ぶ大切な祝日である、と私は思う。クリスマスを迎える時のような前々からの楽しさや華やかさはないけれど、春という季節が手伝ってPasquaとは私にとってはその名を聞くだけで心がうきうきするもの、春のシンボル的存在だ。そのPasquaは移動型祝日で毎年違う日にあるのが面白い。昨年は4月であったが今年は3月だ。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日がPasquaと設定されているそうだ。この考え方が私にはとても面白く感じられ、毎年新しいカレンダーを手に入れると本当にそのとうりかどうかを確認する、それが私の楽しみであり習慣でもある。実に安上がりな楽しみだ、と我ながら感心している。さてその本日は朝起きると外は曇り空。明るい春の陽射しに溢れた一日を望んでいたが仕方がない。せめて雨粒が落ちてこないように空に向かって懇願したが昼を過ぎた頃遂に雨が降りだした。それにしても何という寒さ、氷のような冷たい雨だった。がっちり身を固めて外出したのは正解だったと心の中で呟く。実際誰もが冬の装い、春めいた人などひとりもいない。雨に濡れた空と地面を交互に見つめる私を窘めるのか慰めるのか、私よりずっと年上の人がこう言った。Pasqua bagnata, Pasqua fortunata.(雨に濡れたパスクアは運のいいパスクア。) 本当かなあ、私はやはり快晴のPasquaのほうが運がいいと思うけど。そう意見を述べるとまた別の人が繰り返し私に同じフレーズを言い聞かせる。多分これは雨に見舞われて残念だと思っている自分への気休めのようなものではないかと思うのだが、どうもこの人達に勝てそうな雰囲気はない。それでうんうんと頷いてみせるとやっと口元を緩めて、明日は天気になるといいなあ、と言うではないか。やはり天気の良いPasquaの方が運が良いようである。

Long weekend

待ちに待った週末の幕開けは雨。もしかしたらボローニャ市内は雨など降っていないのかもしれないが、大抵ボローニャよりも少し天候の悪い丘の町ピアノーロはしとしとと雨が降っている。もうじき止むといいけれど。地面が濡れているのを見るだけで肩をがくりと落とす私をいつも人々は窘めるが、私は本当に雨が嫌いなのである。私は青い空と目に眩しい太陽が好きだ。そんな週末を望んでいたが、どうやら天気予報が当たる様子である。イタリアの学校は木曜日から来週火曜日まで復活祭の休暇中。大人も何かしらの有給休暇をくっつけて南へ北へ国外へと楽しい休暇中だ。私はそれに該当しない正にカレンダー通りの生活だが、それでも月曜日の祝日までの3連休。たった一日長いだけでも心は正直に嬉々としている。アメリカに居た頃、私はラジオをよく聞いた。テレビ派だったルームメイト、ラジオ派だった私。どちらが語学に役立つかと互いに考えたものの、やはり彼女にはテレビが、私にはラジオがピタリと合った。ラジオを聴きながら勉強もした。そんなことをしようものなら遠く海の向こうに暮らす母からお叱りのひとつも飛んできそうだったが、兎に角耳からしきりに英語が流れてくる生活がよいと信じていたのだ。ラジオから時々聞こえてきた言葉、Long weekend。祝日が月曜日に設定されているアメリカだから3連休が必然的に多々あって、そんな時必ずラジオからその言葉が聞こえてきた。私の好きな言葉のひとつだ。あれから何年も経つ今だって、祝日を週末がくっついていると心の中でその言葉がつい出てくる。今日からLong weekend。そう思えば少しくらいの雨は掻き消すことが出来るだろう。さあ、支度をしなくては。夜の友人宅での夕食会に加えて、昼のお呼ばれも加わった。たまにはそんな日があっても良い。何しろLong weekendなのだから。

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