生活の匂い

狭い道ながらも人でいつも賑わっているvia m.d'azeglio からvia archiginnasio へ行く時、私はいつもここを通る。このふたつの道を繋ぐ抜け道なのである。道の名前は何と言ったか、もう何十回も歩いているのに未だに名前を覚えていない。どうでもよいことは鮮明に覚えているくせに、こういうことには脳が働かない。これは今に始まったことではない。昔から私は何時だってこうだった。さて、この抜け道の真ん中には小さな小さな広場があってそこはちょっとしたポケットのような空間だ。興味深い店が立ち並ぶ賑やかなvia m.d'azeglio とvia archiginnasio の間にあるとは思えないような静けさを持った場所である。この小さな広場を囲む店はどれも小さく、どれも見かけによらず高い。ひとつ気になっているブティックがあり時々ガラス越しに中を覗くが、どれもこれも洒落ていて、そして高くて手が出ない。それでいて外から中を覗いていると次ぎから次へと客が入り買い物していくのだ。一体どうしたことだろう。その近くにはアクセサリーの店があって、ここに人が入って買い物をしているところを見たことがない。しかし置いてある物は良く見ると味のあるものが多く、多分私が見ていない時に客が入って商売が成り立っているのだろうと思う。その斜め前には古い塔を利用したカフェ・レストランがある。ここにいつか入ってみたいと思うけど、何だか気後れして入れない、と言うのが本当のところだ。いつか誰かを誘って足を踏み込んでみたいものだ。私の小さな憧れの店のひとつである。静かだけど高級、そんな小さな広場であるが少し目線を上げると生活の匂いがする風景を見ることが出来る。旧市街の真ん中にこんな場所があるとは、この広場を歩いたことがある人にしかわからない。ボローニャの赤い壁をもつ建物の窓から誰か顔を出さないだろうかと暫く待っていたが、遂に誰も顔を出すことがなかった。ここはきっと高いだろうな。そんなことを思いながら、昔、旧市街に家を探していた頃のことを思い出した。何処も高くて手が出なかったが、その中でも特に騒音のない中庭に面した静かな家はとびきり手が出なかったものだ。うん、ここは良い。確かに風は吹き抜けないし、新緑に萌える木々を眺めることも出来ないけれど。

苦手を克服しよう

ボローニャ旧市街にある市場界隈。よく通る道なのにこの角の店でものを買ったことがない。いつも横目で見ながら前をすり抜ける。が、私は釘付けになったのだ。美味しそうな野菜が積まれているその真ん中に白蕪を見つけたからだ。ボローニャに暮らしているとサラダ用の小さな赤い蕪や薄緑色のごつごつした大きな蕪のようなものを見ることはよくあるが、日本と同じこの白蕪を見ることはあまりない。新鮮なのだろう、葉の部分も生き生きとしていて見れば見るほど美味しそうだった。そうだ、私は白蕪が食べたい。そう思った瞬間、全く別なことが頭に浮かんだ。フランスである。最近よい写真を見た。初夏のプロヴァンスの写真である。木漏れ日の中を夏服を身につけた人々が行きかう、そんな写真だった。そうしているうちに友人が2年続けて休暇を過ごした時に夢中になって撮ったというフランスの美しい写真集が昨日届いた。その偶然は何か意味がありそうな気がした。私は学生の頃フランス語を学んだ。必須科目で2年頑張ったわりには全くものにならず、それ以来フランス語と相性が悪いと思っていた。言葉を学ぶのは好きな方だ。しかし女性名詞と男性名詞のある言葉だけはもうごめん、と思ったのを今もよく覚えている。フランスに憧れているにも拘わらずこんなに近い隣接国に一度も足を踏み入れたことがないのは多分それが理由だろう。しかし、しかしである。私は今、天敵とも言える女性名詞と男性名詞のある言葉を話しているではないか。勿論必要だったから必死だったと言うのもあるけれど、つまりは天敵でも何でもないのだ、と今更のように気がついた。何をするにも時間の掛かる私ならではのことである。色んなことを考えていた私はどうやら目の前の白蕪をとても厳しい目で凝視していたようだ。野菜の向こう側に店の人が声を掛けられずに突っ立っていた。慌てて白蕪を一把買い求め、つり銭を貰いながら思った。そうだ、フランス語を学んでみよう。ちょっぴり重い白蕪の入った袋を手に提げて、私はフランス語の本を求めて本屋へ向かった。長年苦手だと思っていたフランス語を克服するために。私は久しぶりにどきどきしていた。それは学生時代に新しいものを学ぶ前に胸に抱いた、あのどきどきした気持ちによく似ていた。

春が近い土曜日

今朝、郵便物が届いた。自分宛ての大きめサイズの郵便物だった。小さな文字で書かれている差出人を声を出して読んでみると、遠くに住む友人からだった。それは予想していなかったもので、友人の写真集であった。出掛けようとしていた相棒が戻ってきて興味深々に覗き込んでいる。ページをめくるとTo my dear friends と書かれていた。色んなことがあるこの日常に時には戸惑い、時には途方に暮れ、そんな中で頑張れ頑張れと自分達を励ましながら生活しているここ数ヶ月の私達にはこの一言が胸の中に深く沁みこんだ。友人が作った写真集はいっとき私達を現実から引き離し、平和と安らぎを与えてくれた。嬉しいね。うん、嬉しいね。良い友達を持ったね。うん、本当だね。そんな言葉のやり取りをした後、相棒は大急ぎで出掛けていった。風の又三郎のようだ、とつぶやいた後、私はまだ風の又三郎を見たことがないことに気が付いて、どうしてそう思ったのだろう、とひとしきり考えた。そしてカフェラッテを飲みながらこんなことを考えた。さて、今日は何をしようか。外は明るい。鳥達が囀っているところをみると気温が上昇するに違いない。こんな嬉しい土曜日の朝は久しぶりのような気がした。そうだバスに乗って旧市街へ行こう。いつもは何をするにも時間が掛かるのに、こんな時の行動は早い。10分後にはもうバス停へと歩いていた。原っぱで老人が孫らしき小さな男の子2人とサッカーをしていた。もう少し先へ行くと冬の間庭の植木に被せていた透明ビニールシート取り外す作業に精を出す夫婦を見掛けた。ウォーキングを楽しむ老人、自転車に乗って風を切る人。それらのどれもが春が近いことを物語っているような気がして益々嬉しくなった。ボローニャ旧市街は暖かく、16度だった。広場では3人のイタリア人がジャズを演奏して通行人達を楽しませていた。それを遠目で見ていた外国人の女性がてんとう虫の柄がついた春のトレンチコートを着ているのを発見して思わず笑いがこぼれたら、彼女は私に気が付いて白い歯を見せて笑い返した。春は良い。人の心を柔らかくしてくれる。私の心も、誰の心も。

当り前のようなもの

ボローニャに暮らし始めて何年か経つと目に見えるものが当り前のように思えてしまうことがある。例えば中世の頃から市民を雨、風、日差しから守ってきたポルティコとか、街の中心に今も残っている古い建物だとか。勿論私はそれらが好きなので、特別視している分だけボローニャに生まれて育った人達に比べれば当り前なようで特別な感情をもって接している訳だけど、それでいて街を歩きながら目に見えてくるものを当り前的存在に受け止めていることは否めない。ここは2本の塔を背にほんの少し歩き始めた辺りのvia santo stefano。この左手には古い建物が並んでいてボローニャにやって来る少ない旅行者達が必ず足を止めて眺めている場所。時にはボローニャ公認ガイドが小さなグループを率いて説明をしている。けれども彼らがいなければ私は足を止めることもない、ボローニャの人々にしても。ふと見上げたこの古い建物のその更に向こうには青い空が広がっていた。こんな時私は思うのだ。良い季節がもう其処まで来ている、と。さあ、これから散策シーズンの始まりだ。本を片手にボローニャ探検をしてみようか。

石段に座る

寒い、しかし春は確実に近付いている。そう感じるのは広場に面した陽の当たる石段に人々が腰を下ろして憩っているのを見る時だ。学校を終えた若者達が、仕事の休憩時間の人達が、それとも単に時間に余裕のある人達が様々なスタイルでその時間を楽しんでいる。パニーノを齧りながらお喋りに興じるのは学生達。小奇麗な服装でタバコを吸いながら話をしているのは社会人、本を広げて一人の時間を楽しんでいるのは3番目に当たる人か。そんなことを考えながらその前を横切ることが多い。こんな所に腰を下ろす。昔の私は到底そんなところに腰を下ろすなんて考えられなかった。公園にあるベンチにでさえ何となく躊躇して座れない性格であった。奇麗なのかなあ。そんなことを考えては近くのカフェに行って腰を下ろすほうを好んだものだ。もう随分昔のことだ。いつの頃からか私はそんなことを気にしなくなっていた。公園のベンチにも平気で腰掛けるし、石段にだって座る。その楽しさとは、それをしてみないと分からないものだと分かったのだ。勿論冬の寒い時期には出来ない業で、そんなことをしようものなら直ぐに腰を痛めてしまう。きっと風邪も引くだろう。だからこれは季節限定の楽しみと言える。春先から初秋まで。それはカフェのテラス席に座って寛ぐのとは少々違った楽しみで、なんと言うのか、地続きに座った人達が皆仲間のような感覚だ。低い位置から道行く人たちを眺めるのも面白い。そうだ、私はこんなことを考えたことがあった。何しろ私は小さいので、時々踵の高い靴を履くと世界が違って見えると思った。ああ、背の高い人達にはどんな風に見えるのだろう。そんなことを考えたのだ。ある日、背の高い友人が私の横にやって来て私の背丈に合わせて膝を曲げてこう言った。こんな風に見えるんだね、君の目からは。そうよ、そうなのよ、目線の高さが違うと世界が違って見えるのよ。同じことを考えた友人に顔を輝かせながらそう言って、訳が分からないけど二人で大そう喜んだ。だからこんな風に広場の石段に腰掛けるとまた違って見えるものなのだ、気がつかなかった色んな小さなことが。大抵の場合はそれらはたとえ気が付かなくても私の人生に何の支障も無いものばかりだけれど。