店の中

夢を見た。私はひとりで店の中の小さなテーブルに着いていた。薄暗い店内に小さなテーブルと椅子が並んでいて、小柄な店員が忙しそうに右に左に忙しそうだった。いい匂いがする、美味しい匂いだ。隣のテーブルには男女のカップルが居て、忙しそうにフォークとナイフを駆使しては肉の塊を口に放り込んでいた。そうしては赤ワインを飲む。私のテーブルには皿もグラスもまだなくて、ペーパーナプキンに包まれたフォークとナイフが置いてあるだけだった。私は一体何を頼んだのだろうか。夢を見ながらそう考えた。そしてもうひとつ考えた。ここは一体何処なのだろう。それと言うのも以前に私が実際に入ったことがある店のような気がしたからだ。店内を見回すと黒板に文字が書き込まれていた。外国語なので読めないが、どうやらメニューが書かれているらしい。それと同じことを以前に考えたことがあった筈・・・と思い巡らしてみたら、分かった。ここはブダペストの中心、友人の家から歩いて5分の場所にある店であった。この夏のある晩、私達はクタクタの体と空っぽの胃袋をぶら下げてこの店に入った。友人が勧めるがまま頼んだ一皿がとても美味しくて、もう一度行きたいと思いながらも行けなかった店であった。ふふふ。不完全燃焼がこういう形で現れるとは。自分ですら気がつかない小さな欲望が、こんな風にして夢に出てくるのかもしれない、これからも。

小さな収穫

同じボローニャ県に暮らしていても南と北ではかなり距離がある。互いに仕事を持っているからという理由もあって、私と友人は滅多に会って話すことがない。電話も勿論楽しいけれど相手の表情が見えると話も弾むと言うものだ。昨晩はその彼女と久しぶりに肩を並べて歩いた。旧市街にここ1年くらいの間に出来たであろう洒落たインテリアの店をはしごしては、ああ、こんなのが好きとか、こんなのを部屋の隅に置いてみたいとか、こんな絵があったら素敵だとか、女同士のアイ・ショッピングは兎に角楽しい。最後に入ったハンドクラフトの店では多種の帽子を試し被りしては、あなたにはこんな型が似合うだとかこんな色が似合うだとか、若い女の子のように久しぶりにはしゃいだ。そんなこと、だけど何て楽しいのだろう。ああだ、こうだと言いながら結局何も買わなかった私達、それにも拘らず店の人が話に加わって一緒に時間を過ごしてくれたのも楽しかった理由のひとつだろう。たまにはそんな時間を持つと良いようだ、週末だけに限らずに。歩き疲れてカフェに入った。いつも満員の店だけど夜になると空いていて長居が出来る雰囲気だ。好みの飲み物を片手に話すことは、幸運。幸運とはこっちに向いたり背中を見せたりするものだ。だから自分のほうに向いている時、エイ!と掴み取らないといけない、そんな話をした。精神的に小さな収穫のあった晩であった。

彼女と中型犬

大きな通りと呼ばれる道が幾つかある。それらの通りには大抵の場合店が建ち並んで人の行き交いが多い。アイ・ショッピングには楽しいが、これと言う感動や出会いもあまり無い。私はそれらの通りからヒョイと入ったあまりひと気のない裏道的通りが好みである。人通りが殆ど無い、だから小さな見過ごしてしまいそうなことにも敏感になれる。たまにすれ違う知らない人とも挨拶したい気分になるというものだ。先日の天気の良い週末、私は例の如く当てもなく彷徨った。当てもないのでいつもの急ぎ足ではない。数歩行っては止まり、上方を眺めたり壁を見つめてみたり、今歩いてきた道を振り返ってみたり。そんなだから一向に先に進まず、後ろから来たか老人にさえも追い越されてしまう。ある時、私がカメラを構えていると若い女性と紐に繋がれた足の短い中型犬が手前で止まり、私がシャッターを切り終えるのを待ってくれた。ああ、有難う、と礼を言うと若い女性はニコニコと笑ってその中型犬と一緒に私を追い抜いていった。後姿を見る限り、中型犬は歩くのが困難らしい。それが足が短いせいだからなのか、年老いているからなのかは私には分からない。私はまた少し進んでは止まり、進んでは止まりを繰り返しているうちに彼らに追いついた。中型犬は"腰掛けている、足を崩して休んでいる" と言うのがまさにピッタリな感じに道の真ん中で寛いでいた。若い女性が紐をくいくい引っ張りながら合図を送る。もう少し道の端っこで休んだらどうなのー? と、苦笑しながらそう言った。中型犬は聞こえない振りをしている。彼女は小さな溜息をつきながら、いつもこうなのよ、と言い訳しながら道を塞ぐ犬に代わって私に謝った。可愛い女性だ。こんな感じの友達が居たら楽しいに違いない。私はそんなことを思いながら犬に向かってこう言った。あら、あんた疲れているのね。すると中型犬は返事をするかのように鼻で大きな溜息をした。私と彼女が思わずそのタイミングのよさに声を立てて笑った。名前も知らない若い女性と中型犬。でもこの道に来ればまた会えるだろう。互いに手をちょっと上げて挨拶を交わし、それぞれの散策の世界に戻っていった。

雑貨屋

昔から雑貨屋が好きだ。最近は雑貨屋といえどちょっと洒落ていて昔のそれとは雰囲気が異なるが、兎に角雑多な物が店に溢れかえっている店を見つけると入らずには居られない。この手も店には掘り出し物がある筈なのだ。この手の店なら使い古したものを売る店であろうと、新品を売る店であろうと拘ることなく好きである。随分昔のことになる。アメリカに暮らしていた頃のことだ。確かに貧乏だったからと言うこともあるけれど、その後経済成長してからも私は好んでセカンドハンドの店に通った。何故か。それはそんな店で、二束三文の値段で掘り出し物を獲得したときの感動が忘れられないからである。初めて友達に連れられてその店に入った時のことである。フランス製のクリスタルのグラスをふたつ見つけた。高さは15cmくらいのわりと大柄なグラスでずっしりと重く、真上から見ると花が開いたように見えるユニークなものだった。何しろ使い古したものだし、その他雑多の物見埋もれていたものだから、いやに埃っぽくてグラスを掴んだ指先が黒くなった。手を汚すのが嫌いだった私は直ぐに眉をしかめたが、それにしてもいい感じであった。値段はひとつ50セント。家に持ち帰り熱いお湯で洗ってみたら、見違えるようなクリスタルの輝きであった。多分、そう、きっとあの時から私はそんな雑貨屋が好きになったのだと思う。ひと頃のイタリア人はアンティークが好きなくせに人が使い古したものを忌み嫌う風潮があった。しかしいつの間にかボローニャにも古いものを売る店が増え、其処に通う人も多くなった。捨てるだけではつまらない、使い回すのも良いではないか。そんなことにやっと気がついたと言うところか。あの時買ったふたつのグラスの片方はうっかり大理石の床に落として割ってしまった。今は相棒を失くしたもう片方が残っているだけだ。

女友達

色んな友達が居る。けれどもやっぱり何か、と言う時はこの女友達だ。楽しいことを分かち合うことが出来る友達は沢山居る、しかしそうでない時に耳を傾けてくれる人は少ない。今日の私は悲しかった訳でも辛かった訳でもない。多分途方に暮れていたのだ。もうこの辺で勘弁して欲しいと思うようなことが目の前に立ち塞がっているのだ。まるでボローニャ旧市街に立ち並ぶごつい建物の壁のようである。人は普通、幸せ満々なときに他人の悩みを聞くのは好まないのではないかと思う。けれどもこの女友達は今とても幸せ、でも困った人の声に耳を傾けてくれるから、思い切って電話を掛けた。ちょっとその辺のカフェで会って、とは行かない距離に暮らす友達なのだ。1時間半も話したようだ。昔はこんなに話そうものなら後の請求書が怖かった。今は便利なシステムが出来たおかげで僅かな料金で長電話することが出来るようになった。ひと通り話し終えて決して解決法が見つかったわけではない、ごつい壁は依然目の前に立ち塞がったままだが、話したという事実、現実が私の心を穏やかにさせてくれた。有難う、話を聞いてくれて。そう感謝する私に彼女が言った言葉。"友達だから当たり前のこと。" 必要以上に人の心に踏み入らないが、こちらが必要としている時は何はともあれ耳を傾けて受け入れようとしてくれる。そういう友達がいることを感謝することと共に、そんな人間に私もなりたい、そう心底思った。