via parigi

via parigi という名を何度ボローニャの本で目にしたことだろう。そうしてはその通りは何処にあるのかと地図を広げて探したものだ。紙面上で探しては旧市街へ行く度に探そうと試みた。それでいていつも手前まで来ていながら何故か反対方向へと足が向いてしまい、やっとこの通りに辿り着いたのは一年前のことであった。via indipendenza をvia manzoni で曲がり突き進んでいくとvia parigi だ。parigi、つまりparis という名の付いた通りとはどんな素敵な情緒のあるところなのかと想像だけが勝手に膨らんでいたこともあり、初めて見た時は酷く落胆したものだ。とても古い通り、しかも長いこと手入れをしていなかったので朽ちたいだけ朽ちてしまった建物。そしてやっと修復し始めたらしく、あっちもこっちもナイロンのシートで覆われて雑然としていたのだ。イタリアには古いものが沢山ある。旧市街ともなれば尚更だ。古いものが好きな私だから建物が古いことをとやかく言っているのではない。修復中にしてももう少し何とかならないのか、と言いたくなるような雑然さ、殺伐さをとやかく言っているのである。以来、この通りには何度か足を運んでいるが、何時来ても喉元に何かが引っかかって水を飲んでも下に降りていかないようなものを感じた。しかし今回は少し進展があった。それは長いこと修復作業が行われていたex oratorio della madonnna dell'orazione、つまり教会に隣接した旧集会所の入り口の前面とポルティコからそれはそれは薄い汚れたナイロンシートが取り外されてやっとその姿を現したからである。1500年代に建てられたこの建物にはキリストの生涯を描いたフレスコ画が残っている。宗教画が好きな訳ではない。私は古いものと、それを大切にする行為や考え方が好きなのだ。今までナイロンシートの向こうから目を細めて覗き込んでいたそれをやっと近くで見ることが出来るようになったのを私は嬉しく思った。ポルティコの下で絵を眺める。修復したにしても限界があったようだ。キリストの生涯が分かりそうでどうしても分からない。それとも眼鏡を忘れたせいなのか、ああ、分からない。雨上がりのvia parigi 、4人家族が向こうから歩いてくる。建物の前まで来た時、小さな男の子が母親に訊いた。何を見ているの? 何があるの? フレスコ画よ、と心の中で私が答える前に母親が、さあ、何かしらね、と答えた。彼女にはフレスコ画が見えないのだろうか、単なる建物の模様にしか見えないのだろうか。人それぞれ。関心を示す事柄もそれぞれで、誰もが古いものを好む訳ではないことを重々承知の上で、あなた達の文化なのに、あなた達の財産なのに、と心の中で呟いた。

なりたいもの

今朝目を覚ますと、雨。それもかなりしっかりした降り方で、雨の季節になったことを遂に認めざるを得なくなった。雨の雫が窓に当たっては下に落ちる。外の様子を見ようにも雨で滲んでよく見えない。遠くに私の好きな木があるのを、その色から確認するのがやっとだった。遠くと言っても私の窓から僅か10mの距離である。黄色く染まる木が多いこの辺りには珍しく、こんな朱色に染まった。この木は少し前まで瑞々しい緑で、私に元気を与えていた。寒いとか、雨が降っているからとか言って暫く見ないうちに美しい色に染まり、先日その美しい姿に感動して暫く木の下に佇んだ。木を見上げながらこんな話を思い出した。知人の息子がまだ学校に行き始める前、綺麗な色の羽を扇のように広げた孔雀を見たそうだ。それは彼に大きな感動を与えたらしく暫くすると彼は、僕は孔雀になりたい、と言うようになった。父親がその理由を聞くと、"孔雀は綺麗で可愛いねとみんなから褒めて貰えるから" と言ったそうだ。その話を聞いた私は子供らしい感受性に感心し、そんな考え方もあるものか、と思ったものだ。そうして思い出したように改めて木を見上げた。子供でなくたってなりたいものはあるものだ。私は孔雀ではなくて一年に一度こんな美しい色に染まる木になりたい。

目に美しい店

1週間前に通った時は改装中だった店のショーウィンドウ、こんな風になっていた。丘の町に暮らし始めてからキッチンに立つのが好きになった。それは以前の家のキッチンがあまりに狭くて使い難いからだと言い訳していたが、実際それが理由だったようだ。料理が楽しい、と数年ぶりに実感している。週末になるとお菓子を作りたくなる。家人が喜んでくれるので作り甲斐もあるというものだ。もともと調理器具や食器、グラスの類を見るのが好きなことも手伝って最近この手の店が気になってならない。ここはvia santo stefano、7つの教会群から直ぐそこにある比較的大きな店である。大きめだから自由に品定めも出来て店にも入りやすい、という訳だ。価格は概して高め。安売りなどしない上に質の良いものを選んでおいていることもあって、私は今のところ見るだけの人である。店頭に飾られたこの攪拌機。こんな大きなもの、置き場所に困るので欲しいとは思わない。しかし美しい。価格が表示されていないところがまた宜しい。現実味がなくて見るだけの私にもってこいだ。表のディスプレイに誘われて中に入ると若いカップルが店の女性と一緒にあれこれ品を選んでは紙になにやら書き込んでいた。成る程、どうやら彼らはこれから結婚するらしい。それはlista delle nozze と呼ばれている、結婚祝いをしてくれる家族や親戚、友人達に向けて事前に自分たちの欲しい物を選んでおいて、その中から贈り物を選んで貰うという合理的且つ実用的なシステムだ。彼らはそのリストアップをしているのであった。この店を選ぶとはなかなか良い選択である。そう思いながら店内を見て回る。実は私、ワイングラスが欲しい。クリスタルの良いものを6個。あるある、とても良いのが見つかったけど、やはりもう少し他の店を当たってみた方が良さそうだった。価格を抑えた良いものがきっと他のところにあるに違いない。一通り見て歩いて店を出ようとしたとき、また一組、結婚を控えているに違いないカップルが入れ違いに入ってきた。どうやらこの手の人たちご用達の店のようである。

街と人

日曜日の今日、ボローニャとその近郊はやっと太陽に恵まれた。太陽の光は偉大だ。生活上何も改善も向上もないのに、太陽の光が降り注いでいるだけで気分が明るく前向きな気持ちになれる。私は特に天気に左右されやすい性格であるから、太陽が有ると無いとでは大変な違いだ。しかし恐らくは多少なりとも誰もがそういう部分を持っているのではないかと想像する。昨日の散策にこの太陽が加わっていたら素晴らしかったのにと思うけど、それは次回に期待しよう。ところでその昨日の散策。目に飛び込んでくるものは既に冬色に変わった街と人々であった。夏の開放的な雰囲気はもう微塵もない。暑いと言って日陰を探して歩いていたことが勿体無かったようにすら思える。街は分厚い雲に覆われて必要以上の重圧感を嫌でも感じた。人々が集い、また行き交う街の中心のpiazza maggiore は賑やかですらあるけど夏の楽しい雰囲気はもう無い。行き交う人々の服装もダークトーンのものが中心で早くも着膨れしていた。足元もショートブーツである。私はもう少し秋の余韻を味わいたいので皆より一歩手前の一見軽装だったが、実を明かせばコートの下はウールのセーター、更にその下には防寒のシャツを重ねていたし夕方にはコートの襟を立てて冷たい風を避け無ければならなかった。格好付けている場合でないほど寒い季節がもう直ぐそこまで来ているのを感じるからこそ、残りの数日を秋として楽しみたい私の冬への小さな抵抗であった。それにしてもpiazza maggiore が好きだ。何が好きかと言えばひとつの色に染まることなく多種も人が集まるからで、そして誰のものでもないからだ。広場を取り囲む建物にも垂れ掛かって人間を観察すると面白い。年齢層も広いが人種も体の周りを取り囲むその人の人間性らしきものも様々だ。街があるから人が居て、人が居るから街が成り立つ。当たり前のことをたまに改めて考えると深く感心する。そんなことから新しい発見も生まれるものだ。踵を返してvia d'azeglio を歩く。例の手袋の店を覘きたくて。しかし残念ながら昼休みであった。イタリアの店の昼休みは長い。便利且つ合理的な国から来ると、その昼休みの長さに腹が立つこともある。私にしてもそうであったが暫くするとそれは店で働く人には大変都合の良い、人間らしい生活を尊重したシステムであることが判り腹も立たなくなった。勿論時間に制限のある人にとって長い昼休みは迷惑以外の何でもないだろう。しかし私はいつでも戻ってこれるのだから、少なくとも私が腹を立ててはいけない、と思う。また来よう。そう言いながら先へと進むとvia farini との交差点に花売りが居た。誰か買う人は居るのだろうか。様子を見ていたが誰も足を止めることが無く・・・私にしても今花を買えば散策に不自由だし・・・。と、後で戻ってきて帰る直前に買うことに決めた。そうして夕方4時過ぎに戻ってきたら花売りはもう居なかった。場所を変えたのだろうか、それとも寒くてもうやっていられなかったのだろうか。花を買いそびれて手ぶらで家に帰ることになった。そうして事実上、夏時間が終わり今朝早く時計の針を1時間ずらした。これからは夕方暗くなるのが益々早く、夕方5時半には空に墨を流し込んだように暗くなり始める。もう仕事の後の散策は来年までお預け。そう考えたらひとつ大きな溜息がでた。

ひとりを楽しむ

土曜日の朝は何時だって遅起き。そんなことが出来る環境にまずは感謝する。朝、目を覚ますと窓の外を覗くのが最近の習慣だ。幸い雨は降っていない。太陽こそ出ていない曇り空だが、それでも連日の雨に閉口していたので雨模様でないことだけでも良しとせねばならない。この際高望みは禁物である。さあ、今日は何をしよう。のんびり朝食をとりながら案を練る。家のことをしようと思えば売るほど有るが、今日はそれらを優先する気にはなれない。そうだ、バスに乗ってボローニャ旧市街を散策しよう、と思いつき急いで身支度した。最近は夕方暗くなるのが早いため、仕事の後の散策はほぼ夜の散策と化していた。明るい時間と暗い時間では全てに関して印象が異なり、ずっと昼間の散策をしたいと心の何処かで願っていたのだ。家を出てバス停へと向かう。辺りはすっかり晩秋で木の葉が美しい黄色に染まっていた。バス停へ向かう途中の遊歩道で足を止めてそれらの一つ一つを眺めていたら、それでなくても本数が少ない週末のバスが目の前を通り過ぎていった。ああ、何てこと。バス停に着くまでは感動したり感嘆したりするものではない。寒い教訓であった。深々と冷たい空気が漂う中、20分もバス停に佇む羽目になった。そんな風にして始まった土曜日の散策。ボローニャの旧市街は週末を楽しむ人達で賑わっていた。多分誰もが雨の降らない週末を願っていに違いない。今日の私の散策は時間制限が無い。時計を気にして行動する必要が無いのは何て素敵なことか。友達との散策は勿論楽しいがひとりの散策もまた別の楽しさがある。自分の体力が続く限りひたすら歩くことが可能だし、気まぐれに右へ曲がり左へ曲がり誰に気兼ねする必要もない。疲れたら休み、また歩き始める。随分長いこと歩き回り流石に疲れたなと感じた時、丁度この店の前を通りかかった。gamberini (ガンベリーニ)、それは100年前に創業した古い小さな店である。美味しい菓子と美味しいカフェを求めて、via ugo bassi の古いポルティコの下のこの店に通う人が沢山いる。私も吸い込まれるかのように店に入った。私はひとりの時、大抵の場合テーブル席に着かずに立ち飲みである。それは勿論テーブル席と立ち飲みの料金が違うからという理由もあるけれど、ひとりの時はカウンターで店の人と言葉を交わしながらカフェを頂くのが楽しいからでもある。この店は人気があるし毎日通う常連も沢山いるので話すチャンスなどないかもしれない、しかし彼らの話を聞いているだけでも良いのだ。熱めのカフェラッテとマロングラッセをひとつ頼んだ。この店は奥で菓子を作っていてその美味しさにも定評がある。しかしこうした立ち飲みの時は一粒のマロングラッセやチョコレートを好んで頼む。それは単に食べやすいからであるが、大粒のマロングラッセとつやつや光るチョコレートが好物だからでもある。銀の皿に乗って出てきたマロングラッセにおもむろにかぶりつく。美味しい。今まで色んな店でマロングラッセを食べてみたが、多分ここのが一番だ。ふっくらしていて甘過ぎない。ひとつ1,50ユーロ。それを高いと思うか安いと思うかは個人の価値観の違いだと思う。私に言わせてみれば安いものではないにしても、この美味しさでこの値段なら充分満足だ。フィレンツェでよく通った店のマロングラッセは大きくて美味しい。しかし3ユーロもしたではないか。ボローニャの他の店でも然り。我慢できずにカウンターの中に居る一番手前の店の男性に思わず声を掛けた。こんなに美味しいのは初めてよ! すると今まで忙しく客に対応していた店の人達が一斉に振り向いて嬉しそうに顔を輝かせた。お気に入りの店がひとつ増えた瞬間だった。