pranzo in settembre (9月の昼食会)

朝目を覚ますと外は曇。丘の町ピアノーロに暮らし始めて半年が経った。初めての秋は思いの他冷え込んでこれから迎える冬の厳しさを嫌でも感じる。ここの冬はこんな空が毎日続くのかもしれない、と今朝の鉛色の空を見ながらそう思った。少しでも良いから陽が射すことを祈りつつ日曜日の朝にしては早起きをした。バナナとカフェラッテ、それから数枚のビスコッティで朝食を済ませると、いきなり昼食の準備に取り掛かる。今日は先週の仲間を招いて昼食会なのである。私達の家は実に三角形を描いたようにどの家もが離れている。だからちょっと遊びに行くと言う訳にはいかず、事前に会う約束を固めなければならない不便がある。しかし考え方によっては互いの家に招いたり招かれたりすることで小旅行ができるから、家が離れているのも悪くない、と思う。女友達は料理好きであり得意でもあるので、ほんの少し気が重い。しかし何とかなるであろう、皆もあまり期待していないに違いない、と気を取り直して作業を始める。私は黄ピーマンが大好き。肉厚で火を通すととても甘くなるので一年中この野菜を好んで使う。今日の二皿目はオリーブオイルと大蒜で焼いた鳥の胸肉を黄ピーマンと赤ピーマン、玉葱、大蒜をやはりオリーブオイルでじっくり炒めたもので上をすっかり覆ってオーブンで更に小一時間ゆっくり焼いたもの。簡単で美味しい。やはりこれしかないであろう、と数日前に考え抜いた挙句の果てに決めたのだった。一皿目は数種類の茸で和えたタリアテッレ。タリアテッレとは卵を練りこんだ日本で言うきしめんを更に薄くしたパスタだと思って貰うと限りなく近い、と思う。パスタの前にはカナッペ。鴨のペーストにpomodorini (小トマト)。そんなものを摘まみながらの昼食の始まりとなった。いつの間にか空は晴れ渡り、すがすがしい秋のの日曜日になっていた。さて、今日のメインは食事ではない。この夏ハンガリーから買ってきたワインである。VILLANYI 地方のTELEKI ワインがとても美味しく、おかげで食がすすんだこと! 昼間からワインを飲むなんてと言ってはならない。食事にワインはつきもの、昼も夜も関係がない。それがイタリアだ。途中でサラダ菜をもりもり食べてデザートへ。今日は凄い。偶然にも皆が手作りの菓子を用意した。食後には食後のワインでなくては。と、1993年物のトカイワインを開ける。とても美味しい。各自が持ち寄った美味しい菓子によく合って、いつもはあまりアルコールを呑まない人が小さな食後酒のグラスに3倍も頂く。大丈夫だろうか、と誰もがその様子を横目で伺う。しかし当の本人は大変ご機嫌なので無粋なことは言うまい、日曜日の楽しい昼食会なのだから。それにしても今日は9月30日。ああ、間に合った、私はどうしても9月に昼食会を催したかったのだ。月に一度は仲間と週末の食事。これからはそんな習慣をつけたいと、各自の家に帰っていく仲間に手を振りながらそんなことを考えた。

cioccolato (チョッコラート)

近頃の朝晩の冷え込みと言ったら秋と呼ぶには寒すぎるような気がする。近所の薬屋さんの外気温度計の表示は8度。たったの8度なのである。うっかりすると風邪を引いてしまいそうだ。実際世間の人達は油断したのか風邪引きさんがとても多い。寒い時期は栄養をたっぷりとってよく休む、それが健康を維持する秘訣である。気温が下がり始めると無性に食べたくなるものがある。cioccolato、つまりチョコレートだ。量り売りの高級チョコレートも好きだけど、単なる板チョコレートだって大歓迎だ。fondente (フォンデンテ)と呼ばれるビターチョコレートがよい。私がまだ子供だった頃、母がおやつにパウンドケーキを焼いてくれたがそれにはビターチョコレートと胡桃を刻んだものが入っていて、私も姉も大好きだった。その記憶のせいなのか、それともミルクチョコレートが私には甘すぎるからなのか分からないが、チョコレートと言ったらfondente なのである。chocolat と言う映画がある。私の好きな映画のひとつだ。俳優や女優が良いとか何とかではなく、話が良い。そして映像が良くて、画面からチョコレートの良い匂いがしてきそうで思わず身を乗り出してしまう。この映画の本も読んだけど描写が上手くて、やはりページからチョコレートの匂いがしてきそうな気がした。先日、久しぶりにvia de'carbonesi を歩いた。何年も前までこの通りにはcoin があった。日本で言うデパートみたいなものであるが、もっと小ぶりにしたものだと考えてもらうと良いだろう。兎に角昼休みはなく便利なので多くの人が利用していたように覚えている。地下の階の床はガラス張りでそのガラスの下に存在するローマ遺跡を見ることが出来るようになっていた。透けたガラス張りの床の上を歩くのは 心もとなくて、足を竦ませながら歩いたものである。そしてそのcoin の横にはチョコレートの店があった。いつも客人で賑わっていたその店をてっきりcoin の一部だと思っていたが、もうあれから何年も経つ今頃になって実は全く独立した店であることを知った。coin は今、2本の塔の前から真っ直ぐ伸びるvia rizzoli に存在するがチョコレートの店は今までどおりの場所に健在だ。多分昔の方が繁盛していたに違いないその店だが、それでも贈答用をここで買い求める人は居るようである。旧市街の中心の婦人服やアクセサリーの店が数年単位で入れ替わっていくと言うのに、この店は昔と同じ。同じ場所で頑張っている。たったそれだけなのだけどちょっと愛しく思えて、頑張れ、頑張れ、と言いながら店の前を通り過ぎた。

居心地の良い店

ボローニャ旧市街には沢山のバールとカフェが存在する。しかしそれはパリやブダペストの比ではない。と言いながらも私自身、まだパリには、ましてやフランス国土にすら行った経験がないのであくまでもカフェが多いに違いないという私の想像なのであるけれど。ブダペストについては既に経験済みなので、あの街のカフェの多さと質の良さは自他共に認めるところである。さて、そんなボローニャの旧市街に幾つか気に入りのカフェがあるが、しかしだからといって毎日だって通いたいと思わせるような店があるわけではない。習慣的に通う店はあるが、居心地が良くて立ち寄っては30分なり1時間なりひとりで本でも読みながら過ごしたい店、毎日立ち寄って店の人と話をしたいような店は未だに見つからない。私はいつもカフェが好きだった。例えば若い頃暮らしたアメリカの街のカフェ・プッチーニやステップ・オブ・ローマ。でも一番好きだったのはローマの古いカフェと同じ名のカフェ・グレコだった。あの頃メールはあまり普及していなかったので誰もが手紙を書いたものだ。私は白い紙切れを鞄に突っ込んで学校や仕事の後にカフェへ行っては長い長い手紙を書くのが好きだった。カフェラッテに甘いものを少し。時々ペンを休めては思い出したように口を動かし、そしてまた物書きに没頭した。当時あの店はお洒落な人たちが集まるので有名だった。たまにコッポラが朝食をしにくるというのも有名な話であった。そうだ、私はあの店が好きだった。今となっては過去のことになってしまった。ところで先週末dozzaへ行ったところ、居心地の良い店を見つけた。ここだ、ここに入りたい! と思って入ったのではなかった。お腹が空いていてなんでもいいから食べたかった、その時通り掛った店なのであった。Cafe' del Borgo という名の一見古びた風の店であった。中に入ると意外と広く、突き当りには小さな明るいテラスがあった。偶然の出会い、運命の出会いとはこんなものか。ああ、こんな店が近所にあったら良いのにな、と僅か30分の間に何度も思ったのだからよほど気に入ったのだろうと他人事のようだがそう思う。店で働く若い女性はごく普通の人、自然でシンプルで気持ちが良い。そこに居合わせた店の主は店と同じ印象の居心地の良さそうな年配の男性だった。単なる通り掛かりの外国人の私に、まるで地元の常連さんに聞かせるような口調で楽しく語る人達がいるその店は、遠くてもまた来ようと思わせるのに充分であった。家から約40kmのところにある遠方のカフェ。行きつけのカフェになりそうな予感である。

降る雨

今朝目を覚ますと恐ろしい頭痛、まぶたが重くて最悪だった。折角早く起きたのに再びベッドに潜り込みもうひと寝入りすることにした。2時間後に目を覚ますと相変わらず頭痛はするが、ああ、仕事に行かなくては。何しろ私生活のみならず幸か不幸か仕事も息つく暇もないくらい多忙な毎日である。確かにこのところ気温が下がる一方で確実に秋が深まっているが、どうしてこんな酷い頭痛なのか。季節の変わり目だからとか、疲れていたからとか、理由はいくらでも有りそうだ。しかし今回のは、ふふふ、と思い出し笑いしてしまうような理由があるのだ。昨日は仕事を終えるともの凄い勢いでバスに飛び乗ってボローニャ旧市街へと向かった。いつもの散策ではない。約束があったのだ。ひとり散策するのも大好きだ。今までに何度もひとり旅行をしたし、ひとりで何かをするのが好きなのだ。けれども同じくらい人とお喋りするのが好きだ。意見や情報を交換するのもよし、共感しあうのもよし、違う考えを持つ相手からそんな考え方もあるものなのかと教えられて驚くのもよし。昔の私はとても内向的で人見知りをする性格だった。お喋りはあまりしなかったように覚えている。現在の私を知る人がそれを聞いたら怒るかもしれないが、私は無口だったのだ。私の性格が変わったのは16年前なのだと思う。恐らくは私の心が風船のように弾けて、もう何かに拘ったり自分を枠に詰め込む必要がなくなったからなのだと自己分析をするが、それは案外当たっていると思う。自分としては良い変化だと思っているが、今の私を父と母が見たらどう思うだろう。さて、新しい知人と楽しい夕方のお喋りを終え、それではまた、と大きく手を振って家へ向かうべく歩き出すと小雨が降りだした。それはまるで私達のお喋りがすっかり終わるのを待っていたかのように降りだした雨だった。私は雨が嫌いだ。けれどもこんな気持ちの良い夜の小雨は大好きで、そしていつもあることを思い出す。昔アメリカに暮らしていた頃、階下に10歳くらいの女の子が住んでいた。母親の名がクリスタル、娘の彼女はアンバー。名は体を現すというが原石同様に美しい親子だった。彼女は姿の美しい三日月のような女の子だった。どうして三日月かと言えば、その前の年のハロウィンの晩、彼女は美しい金色の三日月に扮装してそれがとても似合っていて、多くの人にそれを強く印象つけたからである。彼女は小雨が降るといつも外に飛び出して、道の真ん中で天を仰ぐようにして優雅に踊っていた。小雨の中で踊るのが好きなのだと言った。それは当時の私には何故かとても感動的で、こんな小雨が降る度に彼女のことを思い出したのだった。昨夜の雨はまさに彼女の好みそうな小雨だった。いつもなら濡れないようにとポルティコからポルティコへと渡り歩くが、こんな素敵な小雨だからと訳の分からぬことを言いながら降る雨の下を楽しみながら歩いた。実際素敵な雨であった。歩きながら知人と話したことや昔のこと、これからのことを思ってバス停4つ分を歩いたのでだった。おかげで気持ちは清々しいが頭痛である。降る雨の中を歩くのは当分控えた方が宜しいようだ。

大切なこと

生きていく上で大切なことは沢山ある。そして人によって大切なことも様々だ。例えば勉強することが大切だと思う人もいるし、女性だったら美しくあることが大切だと思っている人もいるに違いない。健康である限り仕事をして自分の足を地に付けて生活していくことが大切だと思う人もいるだろう。私にとって大切なことといえば、学ぶことでもあり、自立することでもあり、またやはり女性だから美しくあることも忘れたくない。しかし食べることを抜きにして人生は成り立たない。美味しいものを食べる、それが人生のウェイトの60%を占めていると常々感じている。けれどもそう発言したところ知人に酷く笑われたので、考え方が間違っていたのだろうかと現在再考中である。さて人生の中で大切かどうかは別にして、美味しいものはやはり美味しい。それほど胃袋が大きくないので美味しいものを大量に納めることは出来ない。だから美味しいものを適度に食べる、それに家族や親しい友達とのお喋りがあったら文句なしだ。欲を言えば美味しいワインなどあるともっと宜しい。先日ボローニャ旧市街via ugo bassi の大きな食料品市場を覘くいてみた。ここはいつ来ても活気がある。いったい幾つ店が入っているのか、誰か知っている人はいるのだろうか。私が立ち寄る店、気に入りの店はここにはない。言い換えれば滅多にここに来ないから未だに何処が良いのか分からないだけなのだ。市場の入り口脇にはこんな手作りパスタ。トルテッローネ。卵黄を練りこんだパスタの中にはリコッタチーズが入っている。これを茹でてバターとハーブに絡ませるだけでもとても美味しい、満足な一皿になる。忙しい日の夕食にはとても便利。尤もお値段のほうは高いので便利とばかり言っていられないけれど。夕方の忙しいこの時間帯、店の中は手作りパスタを買い求める人々で一杯だった。どうやらここには食を大切にする私の同類が沢山いるようである。