che sfiga.

私のテラスには"金のなる木"という名の植物がある。何年も前に貰ったその植物をそうとも知らずに育てていたが、この春友人が遊びに来た時に教えてくれた。これは金のなる木。そう彼女が言った時、とても良い物を所有している気分になった。彼女の家にもあるらしい。結婚式のお祝いに誰かから貰ったものだそうだ。何たって金のなる木だし、大切にしなくてはね、と互いに目と目で約束をした。実に単なる名前なのだが気持ちというのは不思議なもので、とってもツイテイル気分になった。昨日のボローニャとその近郊は夕方らか夜にかけて強い風が吹き荒れた。異常に乾燥していた為に塵という塵、埃という埃が舞い上がり、道行く人達は顔を覆いながら歩かなければならなかった。家に戻ると28個ある鉢植えのひとつだけ、がっくりと倒れていた。それは何と私の大切な金のなる木ではないか。他に倒れそうな鉢植えが沢山あるにも拘らず、どうしてこれに限って倒れてしまったのか。実を言うとこれが初めてではない。数週間前に大風が吹いた夕方もこれだけが倒れているのを見つけて全くがっかりしたのであった。倒れた姿があまりにも惨めだったのでporta sfiga (不運を招く)だなあ、と呟いて慌ててporta sfortuna と言い直したのを覚えている。sfiga もsfortuna も意味は同じ"不運"であるが前者は俗語でいわゆる乱暴な言葉なのである。同じ意味でも俗語とそうでない言葉の類は他にも沢山あってその場に応じて使い分ける。私の周囲のイタリア人は外国人の私が俗語を使うと眉をしかめることが多いので、なるべく家の外では使わぬように努めているのである。テラスはうちの中同然だが、上の住人に聞こえるとやっぱり体裁が悪いのである。早速このことを例の友人に伝えると、彼女の金のなる木は何と腐ってしまったと言う。・・・それは大変なsfiga・・・慰める術もなかった。さて、昨晩はその倒れていた鉢植えを哀れに思いながら複雑な心境で起こして、もう倒れないでね、と語りかけたにも拘らず一分と経たぬうちに今回は私の目の前でゴトリと音をたてて倒れた。che sfiga(何という不運)! 今回ばかりは体裁など考える暇もなく、大きな声で言い放った。涼しい7月の晩に私の言った言葉が大きく響き渡った、ような気がした。

遊び心

私は古いものが好きなので家具もアンティークが好みである。その昔はこんな古臭いもの、と嫌ったこともあったのに気がついたら夢中になっていた。例えばテーブル、例えば椅子。机は勿論、肘掛け椅子もアンティークが好きなのだがソファに限っては今時のデザインが宜しい、と思う。たまに時間のある時に手が出ないことを承知で周囲のインテリアの店に足を運ぶ。この手の店は旧市街の外の大きな店へ行くと種類が多くて見ごたえがあるが、そこに行くまでが億劫なので旧市街の散策中に立ち寄っている。最近は夏休みでクローズのところが多いからショウウィンドウの外側から、大きなガラス板に額をくっつけて中を覗くだけのことが多いのだけど。旧市街には選り抜き風の店が多くて兎に角高い。しかしその店の主のセンスで纏められた店内から学び得ることは少なくなくて、正直言って面白い。この日は靴屋を見て回って歩いていたらいつも通ることのない曲がり角に小さなインテリアの店を見つけた。またしてもクローズか。店の扉に夏期休暇の期間が書いていないので、ひょっとしたら開いているのかと強く押してみたがやはり閉まっているようだった。あまり衝撃を与えると店のアラームが鳴って厄介なことになると困るので、大人しく外から眺めることにした。この店はシンプルでダーク系が好きなようだ。私は赤い皮のソファが欲しいので、ほんの少しガッカリしながら立ち去ろうとしたその時、隅っこに透明の草色の背の高い壺を見つけた。中にはなにやら植物。その意外な組み合わせに新鮮さを感じた。成る程、これは良い。斬新なデザインの家具を持ち合わせていない私の家でも、そんな意外な組み合わせは活用できるのではないかとあの日以来ずっと案を思い巡らせている。それにしても発想とは何と素敵なことだろう。時間も場所も選ばずにできるこれは暫く私の楽しみになりそうである。

pollo al limone

7月最後の日曜日、山の友人達に夏休み前最後の山の昼食会に誘われた。今日のメインはpollo al limone (チキンの檸檬風味)。時間に遅れないようにと二日前から電話で言われて今朝もまた携帯電話にメッセージがあった。焼きすぎたら硬くて美味しさが半減だから、なのだそうだ。まあ、それにしても。約束の12時半を目指して小アルプスへと車を走らせる。今朝は少し風があるせいか、川に日光浴やバーベキューに来ている人が少ないようだ。いや、大半の人達が夏期休暇で北へ南へ、山へ海へと出掛けているのかもしれない。それにしても何という乾燥。木々の葉がすっかり枯れて地面に落ちている。その様子はまるで10月の終わりか11月のようであった。こんな時期は山火事になりやすいので要注意だ。何でもないことから火事が発生して、あっという間にあたり一面が燃えてしまう。そろそろまとまった雨に降ってもらわないと。川沿いの道はいつもの週末よりもずっと空いていて約束の時間よりも少し早めに友人宅に到着した。辺りは良い香りで満ちていた。予告のあったpollo al limone は既に片面が焼けていて、そのよい匂いが庭を中心にしてあたりに渦巻いていた。私は家の地下倉庫から引っ張り出してきた農家から直接買った、10年物の赤ワインをテーブルに並べる。ひとりはテーブルをセットし、ひとりは庭から収穫したばかりの真っ赤なトマトを刻んだ上にオレガノに大蒜、そして上等なオリーブオイルをたらしてシンプルなサラダを作る。ああ、そうだ、といってはやはり庭からサラダ菜を刈り取って別のサラダを用意する。ここはいつもそんな風に物事が進む。それぞれが自分の出来ることをするのがルールなのだ。今日は全員で7人。さて、焼きあがった肉を各自の皿に取り分けてbuon appetito (さあ、たっぷり召し上がれ) ! 美味しくて笑いが止まらないというのはこんなことか。焦げて硬くなったところまでも美味しくて残すところ知らずである。ねえ、レシピを教えてよ、と言えば喜んで教えてくれる。何キロ分のチキンに対してか知らないが、肉に檸檬4個分をたっぷり絞って白ワイン、塩コショウ、大蒜、そして好みのハーブをまぶして24時間冷蔵庫の中で寝かせてから焼くのだそうだ。そうか、そんなに気合を入れて準備するものだったのか、とやっと電話でしつこく集合時間を守るようにと言われた意味がわかった。ワインの美味しいこと! トマトの美味しいこと! サラダ菜の美味しいこと! 美味しいと感じることが出来るのはなんて幸せなのだろう。美しいグラスも食器もない、洒落たクロスもないけれど広々とした空と清い空気、気心知れた仲間同士のお喋りがあるからそれらの不在を感じることはない。それにしてもこれが夏休み前最後の山の昼食会。ひとしきり休暇の過ごし方に花を咲かせて、buona vacanza (よい休暇を) と挨拶のキスを交わしながらそれぞれの家に散って行った。

いつものところ

最近不調だ。何が不調かと言えば気持ちの元気が湧いてこない。どうしたことかと色々思い巡らせてみても理由はありそうでない。そんなことで丸一週間も鬱々と過ごしてしまった、折角の明るい夏なのに。こんな時にはどうしたらよいか。こんな時他の人はどんなことをするのだろう。昨日の夕方、一日の仕事を終えて帰りのバスを待つ間に友人に電話をした。もしかしたら今日辺り彼女は旧市街をぶらぶらしているのではないか、それなら一緒にカフェでもしながらお喋りしたらよいのではないかと思ったのだ。残念ながら旧市街へは行っていない、それどころか残業なのだと言う。・・・さて、それで考えに考えて金曜日の夕方の旧市街をあてもなく散策することに決めた。そうだ、こんな時には歩くとよい。色んなものを見て気分転換するのがいいのだ。いつもより3つも手前の停留所でバスを降りた。暑い夕方であった、しかし暑さよりも鬱々から脱出したい気持ちの方が大きかったのである。先週よりも更に人が少ないボローニャの街。人混みが苦手な私にとっては全く有難いことだった。幾つ角を曲がったことだろう。連れがいるわけでもないので右へ左へ気まぐれに曲がりながら歩いていたが、気が付いたらいつの間にかアルキジンナージオ宮、つまり旧ボローニャ大学に前まで来ていた。別にここに来たかった訳ではない、しかし招かれてきたような気持ちになって誰もいない中庭に歩いて行った。ここはいつもの場所。私がほっとしたい時によく来ていた場所だ。もう何度も来ているので見慣れたものばかり、何を見るでもなく中庭を囲む回廊の下をぐるぐる回った。大理石の通路の色、壁の装飾、向こうの窓ガラスに映る青い空。それらを淡々と見ながら歩いていたら解った。何かに悩んでいたのではない、悲しいことがあった訳でもない、淋しい訳でもない、心がぽっかりと空洞になっていたせいなのだ。それが小さな不安を呼んだのかもしれない。ああ、そうか、と誰もいない中庭を見ながら呟いた時、職員の女性が閉館なのよ、と私を促した。年の頃は40歳後半の涼しげな白い麻のドレスを着た女性だった。彼女はぐるぐる歩き回る私の様子を見ていたのだろうか、ここ、好きなの? と聞いた。思い掛けない質問に驚いて言葉を失った私はただ、うんうんと頷くばかりだったがこの見知らぬ人の優しい顔を見ていたらちょっと言ってみたくなった。"ちょっと気持ちがすっきりしなくてね" すると今度は彼女がうんうんと頷いた。外の大きな扉を閉めようとする彼女にまた来るからと片手を挙げて挨拶すると同じように片手を挙げて"alla prossima (また今度)" と返してくれた。こんな小さなことが空洞だった心の一部を埋めたらしく、久しぶりにいつもの調子が戻ってきたような気がした。

イタリア小アルプスの家

丘の町に暮らし始めて4ヶ月が経った。ボローニャの街中の喧騒から離れ、ここを選んで良かったと思う。しかしまた面白いことにもっと田舎に住みたいとむくむくと欲望が出てきた。家の周りが緑で囲まれたこんな景色が目の前にある家、初夏の晩には蛍が飛び交うような場所、夏は夜遅くまで庭に出したテーブルを囲んで慣れ親しんだ人達と食事やお喋りを楽しむことが出来るところ。今住む家は郊外と言えどそれなりに住宅街である。だから車も行きかうし、蛍なんて居ない。夜中までテラスに出てお喋りなど出来る筈もない。また他所の家でそんなことをしている人がいたら話し声が耳について眠ることが出来ないだろう。ここよりも更に山へ行くとなると通勤時間が長くなる。冬は長くて寒いだろう。冬場は雪が降り易いなどの不都合も勿論あるけれど、それでもいいからもう少し奥の方に、そう、トスカーナ州との境とまでは言わずもイタリア小アルプスの何処かの一軒家に住みたいと思い始めたら止まらなくなった。昔の私だったら何が何でも街中に固執したであろう。店に歩いていける便利な場所、思い立ったら直ぐに移動できる便利な場所。しかしそんなことも近い将来とれるであろう運転免許証があれば、どうでも良いことに思えてきた。引っ越してきてやっと4ヶ月。それなのにもう次の家を探している。