普通の生活

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今朝、目を覚まし窓の外を覗いたら雪が降っていた。積もるものではなく、すぐに解けてしまうような雪。ただ、冷たいらしく、栃ノ木の枝についた、空に向かって開いた元気な印象の新緑は地面に向かって項垂れて、無言で寒いことを訴えているように見えた。テラスのジェラニウムにしても同様だ。赤い蕾が今まさに開かんばかりに膨らんでいたのに、今朝は殻を固く閉じた貝のようだった。昨晩テレビのニュースで言っていた。急に訪れた寒波による野菜や果物への大きなダメージ。凍り付いた芽を手に取った農家の人の泣きそうな顔が忘れられない。もう3月も終わりだというのに。数日後には夏時間が始まるというのに。

昨日買い物に行ってくれた相棒が、手ぶらで帰って来たのは残念だった。冷たい風の吹く朝だから店に入る人の列は短いだろうと思ってのことだったが、冷たい風などお構いなしの長蛇の列だったらしい。切らしてはならぬ物のひとつはilly caffè。此れなしでどうして朝を迎えられよう、と言う私の懇願で店に行って貰ったのだが、長蛇の列では仕方あるまい。当分は相棒が知人から貰ったというローカルな、名も聞いたことのないようなもので間に合わせることになった。夕方になると相棒が、もう家に居るのはうんざりだと言って外に出ていった。丘の町に暮らす姑の様子を見に行ったのだろうと思っていたら、暫くして自慢げな表情で袋をふたつも手に提げて帰ってきた。もう少し先にある店に行ったらしい。どうせ其処も長蛇の列だろうと思っていたら、思いのほか列が短かったらしい。一番初めに袋から出てきたのは勿論illy caffè。わあっと歓声を上げた私の声に、相棒は上機嫌だった。袋の中には、数日前にストックが無くなっていたパスタ、新鮮な野菜、朝食用のビスコッティと相棒の好きな菓子たち。そして丸い形のチーズがふたつ。幻かと思った。
随分前、相棒がブリーチーズを買ってきた。フランスの、ブルターニュ地方の白黴チーズである。大抵こうしたものは相棒が好きで、私はと言えば黴ものは避けて、例えばコンテなどの固めのチーズばかりに手が出る。ところがである。このブリーチーズは私を虜にした。此れほどのチーズは、パリはサンルイ島のチーズ屋さんと今年1月6日に店を閉めた、ボローニャ旧市街にあったフランス屋以来のことである。いや、なに、私は美食家でもなければ、チーズ専門家でもない。ただ、食の好き嫌いがはっきりしていて、此れと思わないものにはいくら薦められても手が出ない、それだけのことだ。兎に角そういう訳で、好みの白黴チーズに出会い、毎晩相棒とワイングラスを片手に白黴チーズをちびりちびり堪能した。形あるものは何時かなくなるものだ。食べ終えてしまったチーズ。購入した店に相棒を送りこんだが、もうチーズの姿は何処にもなかった。ああ、残念。私が嘆くので、相棒が他のものをあれこれ家に持ち込んだ。相棒の気持ちは有難いが、やはり何か違う。ああ、もうあのチーズを手に入れることは出来ないのだなあ。などと芝居がかった台詞を言う私に相棒は苦笑したものだが、素晴らしい、彼は遂に同じ物を見つけた。
昨夜のワインが進んだのは、美味しいチーズのせいだ。思えば旧市街からフランス屋が姿を消して以来、私の仕事帰りの立ち飲みワインの楽しみはピリオドを打ち、美味しいチーズやワインを探す趣味も影を潜めた。おかげで小遣いが減らなくてよいといえばよいけれど、あれは私の小さな楽しみだったのだと今更ながら思う。春には新しい店を開くと言っていたフランス屋の店主だったが、予想外のこのウィルス騒ぎで話は凍結しているだろう。店の人達との再会は先延ばし。どのくらい先になるか知らないけれど。

家に居るようになって10日経った。カレンダーの数字をひとつづつ数えてみたら、まだ10日の残りがあるようだ。其れもうまく行けばのこと。国が自宅待機期日を延長しなければのことである。私には難しいことは分からない。政治的なことにも口を出すつもりもない。ただ、早くこのウィルス問題が終わりを迎えることを願うだけだ。ただ、早く普通の生活が戻ってくるのを願うだけだ。朝だと張り切って起き、簡単な朝食をとり、手短に身支度をして仕事に行く。忙しい日は休憩も取れないほどで酷く目が疲れるものだけど、それでも就業時間を迎えて外に飛び出す時の喜び。家に帰って来た時の安心感。相棒と猫との時間。一日を労う楽しい夕食時間。そうしたごく普通の生活が恋しいだけだ。




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小さな願い

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夜中吹き荒れた風。風に煽られた窓ガラスや雨戸が音を立てて、良く眠れなかった。風の強い日は早く眠るに限るとの母の教えに従って、早々にベッドに潜りこみ眠りに落ちることに成功したが、しかし一体幾度目を覚ましたことか。ガタガタ。ガタガタ。家が丸ごと風に飛んで行ってしまうのではないか、そんなありえないことを想像して怯えた。それにしても冷たい風で、今朝ちょっと窓を開けてみたところ強風に押されて大窓が全開し、そして流れ込んできたのは凍るような冷たい空気。其れもその筈、アペニン山脈では雪が降ったらしい。うちから10キロもない丘の町でも今朝は雪が降ったそうだ。テレビに映されたアペニン山脈の町が雪に覆われた様子を眺めながら思う。3月の雪。もう冬は終わった、雪は降らないだろう、暖冬、暖かすぎる冬と誰もが言っていたが、まさかこんな風にして舞い戻ってくるとは夢にも思っていなかった。

ここ数年先送りになっているのはウィーンでの休暇。最後に行ったのは3年前の夏。あれはヨーロッパが暑くてどうしようもない夏だった。経験上、8月のウィーンは時として肌寒く、上着などを持っていないと困ったことになる。だからボローニャから行く私にとっては避暑地的存在なのだが、あの夏は半袖姿でも汗が流れる、ボローニャ同様の暑い夏だった。休憩に入ったカフェで店の人が言っていたように、稀にみる暑い夏、だったのだ。だからと言ってウィーンはやはり整然として美しく、点在する美術館の何と充実していることか。あまり人の居ない部屋で、椅子に腰を下ろして長々と絵を鑑賞できる素晴らしさは、忘れることが出来ぬ経験となった。勿論どの美術館を選ぶかにかかっている訳だけど。美術館と街歩き。ボローニャとは異なる風景を、街並みを堪能する休暇だ。

一週間ほどのひとり休暇を楽しむようになったのには、私がボローニャに来て直ぐに交流するようになった相棒の友人フランカのお母さんと話をして以来のことだ。そもそも私は独りが好きだが、それでもひとり休暇を楽しむようになったのはやはり彼女の影響だろう。当時私は言葉もおぼつかず、当然仕事もしていなかった。それを見たフランカが自分の子供たちを時々見てくれないかと提案して、私はその話に乗った。兎に角時間が沢山あったし、家に居てばかりは良くないと思ったからだった。大抵フランカの家に行くが、時にはフランカの両親の家に行った。両親は旧市街の静かな通りで花屋を営んでいて、彼らは花屋の上の階に住んでいた。大変素晴らしい場所だった。花屋の奥へ行くと広い広い庭があって、そして温室があった。私が其処に呼ばれる日は子供たちと広い庭で散々駆け回って遊ぶのだが、その後にはちゃんと手作りの菓子が待っていて、時には美味しい昼食まで用意されていた。フランカの両親は典型的なボローニャ人。だから料理に手を抜くことはしなかった。店で働きながら上階に上がって料理をしたりパスタを打ったり。初めて赤ワインで煮込んだ兎肉を頂いたのも、この家でのことだった。ほろほろと口の中で解けるような甘い肉。これなあに。兎よ。きゃー。そんな会話があったのを今も忘れずに覚えている。25年も前のことだ。今なら店にそうしたメニューがあるならば、自ら好んで注文するけれど。兎に角フランカの母親はよく働く人だった。家のことに、店のことに、そして孫たちの世話までもして。あなたは何時休むの? と訊く私に彼女は笑いながら言った。大丈夫。私には特別な休暇があるのよ。娘夫婦や孫たちと一緒に過ごす海の家での休暇も楽しいが、休んで居る時間は無い。店は忙しいし、家に居れば食事を作る。長年連れ添った夫との休暇も、やはり一緒に居ると、あれは何処にある、此れはどうするんだ、と世話業が絶えない。だから、と彼女は長い前置きを並べてから言った。夏に一週間、独りで海辺のホテルに行くのだそうだ。三食付きの快適な、海の見えるテラスのついたホテルで、のんびり本を読んだり散歩をしたり、昼寝をしたりテレビを観たり、其処で知り合った人達と庭でお喋りをして過ごすのだそうだ。此の休暇があるから頑張れる、と彼女は言って傍にいる彼女の夫にウィンクを贈るのだ。どうやら家族誰もが認めている彼女の独り休暇らしい。もっとも彼女の場合は、何かがあった時にすぐに帰れるようにと、大抵エミリア・ロマーニャ州の海辺らしいが。そして彼女が言ったものだ。あなたが何時か仕事に就いて、家の中と外を駆け回るような忙しい身になったら、そんな休暇を取るといい。このこと覚えていなさいよ、と。あの頃の私は言葉が今ひとつだったが、聞く方は案外いけた。気の利いたことは言えなかったから、うん、うんと頷くばかりだったけど。
いつの日か私は定職に就き、フランカの母親が言うように私の生活は家の中と外を駆け回るような忙しいものになった。そして少し経った頃思いだした。あ、やってみようかな。それがウィーンの滞在だったりリスボンの滞在だったり。何年も前にはパリへも行った。もっとも私は三食昼寝付ではなく、単に独りを楽しむ異国の滞在だけど。あの日彼女が私に言ったこと。彼女は忘れてしまっただろう。まさか私が受け継いで、実行しているなんて夢にも思っていないだろう。

私の小さな願いは、この夏のウィーン。あのエレガントな涼しい街で気ままな散歩。また先送りにならぬことを祈るばかりだ。





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明るい方向

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週を跨いだ辺りからテレビを見るのが怖くなった。情報ばかりが増えて、私は悪い意味で心を踊らされている気分である。気をつける為の忠告は聞いておいた方が良い、現状を知っておいた方が良いと思うものの、多すぎると恐怖心を煽りたてられるばかりで、頭が下がってしまった。それでテレビを見るのを止めた。正確には、報道の類を見るのを止めたと言えばよい。それ以外の、例えばフランスのシリーズ物ドラマを見ている分には、なかなか心穏やかなのだから。

仕事は忙しいし、家の中の器具は壊れるし、アレルギー性鼻炎は酷いし、世間は騒がしくて散策もできぬ。何だ、いいことがひとつもない、と呟いて思いだした。それでも私は元気に生活している。朝が来れば起きる元気があって、慌ただしく朝食をとって身支度して家を飛び出さねばならぬが、仕事が出来るのは有難いことだった筈。家の中の器具の故障も、そのうち業者に来て貰って何とかして貰えばいいだけだ。確かに鼻炎で鬱陶しいが、それが何だと言うのだ。時期が来れば治って、鬱陶しかったことも忘れてしまうに違いない。そう思えば、気持ちが軽い。確かにいいことのひとつもないけれど、案外悪くないなあと思えるのだから笑ってしまう。溜息をついたり笑ったり、そんな私を見て相棒は目を丸くする。傍から見ていると怖いらしいが、しかし最後は笑って終わったので、安心したとのことである。そうだ、明るい方を向いて歩こう。辛いことには終わりがあるのだ。そんなことを考えていたら、ふと父のことを思いだした。
私は父がある程度の年齢になってから生まれた。父と母はひとまわり違いだったから、母にとっては決して遅い子供ではなかったけれど。しかしそんなこともあって、父は姉と私をとても可愛がった。庭の植木をいじるのが好きだった父。父を外に連れ出すのは至難の業だった。外に行くと言っても、その辺りを手をつないで散歩するだけなのだが、日曜日の午前中は父に強請って歩いたものだった。今歩けばさほどの距離ではないに違いない道のりを2時間もかけて歩き、そろそろ家に帰ろうかと言う父の手を引いて、もう少し、もう少しと言って困らせた。そして散歩の最後は大抵家から10分ほどの場所に在る商店街で、そこで家で待つ母と一緒に食べる和菓子か、手焼きせんべいか、冬場なら鯛焼きなどを買って散歩を終わらせるべく家に帰った。父は疲れたに違いないのに、やあ、楽しかったと言ったものだ。父が私達との散歩のことでぶつぶつ言った記憶はない。何時も終わりは楽しかったと言って私達を更に喜ばせたものだ。
父は楽天家でのんびり屋、競争心が無く、都合が悪くなると歌ってみたり、何となくつかみどころがなかったけれど、何時も明るい方向を見ている人だった。私は父のような人になりたいと思っていた。私がまだ5歳か6歳の頃のことだ。私は父の娘だけど、父のような穏やかさはない。もし今からでも遅くないのなら。もし今からでも遅くないのなら。私も父のように常に明るい方を向いて歩いて行きたい。

クローゼットの中を見て驚いたのは、トレンチコートがひとつもないことだ。そういえば昨年処分してしまった。ならば春先はどうするの? と自分に問う。新しいのを購入してから古いのを処分する習慣は何時まで経っても身につかない。この春はトレンチコート無しで行くか、それとも新調するか。それもこれも流行のウィルス騒ぎ次第。一日も早く、以前のようにウィンドウショッピングなどを気軽の楽しめるようになればいいのに。散策をしながら気に入りの店に立ち寄れるような、気楽な毎日が戻ってくることを心から願う。




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ちょっと贅沢

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冬が去ろうとしている、と言ったのは相棒で、昨朝のことだった。私は数日前の晩から熱が下がらず床に伏したまま、そんなことはあるまい、まだ2月なのだからと返事をしたが、確かに窓から差し込む陽射しは暖かそうな色で、樹の向こう側に広がる空は青く穏やかに和んでいた。もし、相棒の言うことが本当ならば。私は手を叩いて喜ぶだろう。春、春がやって来る。そして手を叩きながら、こんなに早い春でよいのだろうかと心配するのだ。今年は暖かすぎる冬。それが早く去るならば、長い春になるのだろうか。間違っても、長い夏にならなければよいけれど。

私が昔アメリカに憧れたのは、あのテンポの速い快活な空気だった。付け加えるなら他人を干渉しない空気も好きだったし、すれ違いざまに知らない同士が軽く挨拶を交わす習慣も好きだった。初めてアメリカに行ったのは、もう33年も前のこと。勇気があると周囲に言われたのは、英語も話せずにひとりで短い旅に出たことだった。しかし其れが功をなした。自分から声を掛けねば何も進まないことを学び、人からの親切がどれほど有難いことかを知った。兎に角、魅力的で私を興奮させたその街を歩いていれば表情が自然と明るくなるというもので、恐らく私はにこにこしていたに違いなく、そんな私とすれ違う人が、時々、機嫌の良い挨拶を投げかけてくれた。Hi! そんな短い挨拶だったけど、私はその親しみやすい挨拶が嬉しかった。知らない国の知らない街。だから私は街中の高級ホテルに泊まっていた。帰る日の朝、旅人にしては早い時間に街を歩いたら、職場へと向かうに違いない人達が足早に歩いていた。その後ろ姿を眺めながら、私はこの街に暮らしたい、仕事をして此処で生活を立てたいと思った。それが発端で、幾度も足を運んだ末に、もう充分、期を熟した、アメリカに行こう、と荷物を纏めて家を出たのだ。暮らしてみて分かったのは、それほど甘くはないと言うことだが、勿論それは承知していたし、若かった私にはそれが刺激的でますます魅力的だった。今思えば、私は本当に若かった。そして、こうしたことを若いうちに体験してよかったと思っている。今の私ならば、怖気づいただろうから。
そんなことを思いだしたのは、夏の休暇のホテル探しをしていたからだ。旅人だった頃は安全と衛生確保のためにそれなりのホテルばかりを選んでいたものだが、住人になると事情はぐるりと変わって、何処へ行くにもモーテルばかりに泊まった。初めて足を延ばしたのはハリウッド。大通りに面した驚くほど部屋が広くて、驚くほど簡素な安いモーテルだった。其れを皮切りに、南カリフォルニアへ行っても、ネヴァダへ行ってもアリゾナへ行っても安いモーテルばかりだった。そういうのに慣れてしまったと言うか、ホテルに掛ける資金が無かったと言うか。アメリカに暮らし始めて以来ホテルには泊まっていない、と言ったのは私の友人で、ああ、此処にも同じような人が居ると、大きな笑いを誘ったものだ。
其れも若かったから出来たこと。長く暮らして事情をよく知っているイタリア国内であっても安宿はもう御免。それでよいと思っている。今の私が求めているのは清潔で快適な空間ばかりでなく気持ちの良いサービスなのだ。切り詰めての旅はもう充分楽しんだ。日頃贅沢もしていないのだし、と言うと相棒にじろりと睨まれそうだが、夏の休暇は思い切り羽を伸ばして。勘の良い相棒に、まさか君、8月のホテルを予約しようとしているのではあるまいね、と訊かれて、よく外国人がするように肩をすくめて受け流した。ふふふ。楽しいことに早すぎることはない。近日中に手配完了となるだろう。

栃ノ木が明るい緑色の芽を吹き始めた。外に出ておいでよ、と私に呼びかけるように。私がこのところ家に閉じ籠もっていることを栃ノ木は気付いているのだろうか。いいや、そんなことはあるまい。




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自転車とかアマリリスとか

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昨晩からの頭痛が一日続いた。風邪を引いたのかもしれない、と思ったのは妙な寒気を感じたからだった。金曜日だというのにと思うと同時に、金曜日でよかったとも思う。今夜は早めにベッドに潜り、上手くすれば明日の朝も温かいベッドの中でゆっくりして、そうすれば風邪など治ってしまうだろう。風邪は休息と栄養が一番の薬と言ったのは母だっただろうか。母は月に一度は突然高熱を出す私を学校に迎えに行かねばならなかった。私は薬を幾つも服用せねばならぬ子供だったのである。少しでも薬の量を減らすために、父と母は私を疲れないように、沢山眠らせて沢山栄養を取るように言い聞かせたものだ。しかし、親の心子知らずとは私のような子供を指すのだろう、好き嫌いは多いし、眠るのも大嫌いだった。特に昼寝などは話にならず、目を瞑ることすら出来なかった。高熱を出しても眠りたがらない子供。それも体を横たえれば、嫌だ嫌だと言いながら深い眠りについたものだけど。そんなことを言うとまるで病弱だったかのように聞こえるが、私は元気な時は大変元気な子供だった。痩せっぽちの色黒で、走るのも得意なら、柔軟体操も鉄棒も得意で、疲れ果てるまで遊んだものだ。嫌いだったのは自転車。自転車のペダルを漕ぐのが嫌いだったのは大人になっても変わらない。夏になるとボローニャの私が暮らす辺りでもオランダから自転車でやって来る人達などを見掛けるけれど、あれには全く舌を巻く。私などボローニャ旧市街に行くのですらお手上げなのに。歩くのは苦にならないが、自転車とだけは相性が悪い。だから、そんなオランダ人を見かけると、ああ、オランダ人ときたら、などと意味のないことを言って相棒に笑われるのだ。大人になって随分健康になったと思う。それとも自分の体力の限界を知るようになって、無理をしないようになっただけなのかもしれない。

ところで自転車が好きなオランダ人のことを思いたしたら、アムステルダムに行った時のことが蘇った。歩行者よりも自転車の方が我が物顔で街を行きかうアムステルダム。その様子が面白くて、長いこと私は陽の当たる道端に佇んだものだった。あれは秋のことで、もう7年ほど前のことだ。花市場で買ったアマリリスの大きな球根。姑の為にひとつ。自分の為にひとつ。自分のアマリリスは何年も咲いたが、遂に駄目にしてしまった。姑のは今でも元気で年に何度も大きな花を咲かせる。良い球根だったのかもしれないし、姑の家のテラスの環境が良いせいもあるだろうが、球根と姑の関係が良いからだと私は思っている。もう20年も前に体が不自由になり話が出来なくなった姑は黙々とアマリリスの世話をして、アマリリスはそんな姑に恩返しするかのように花を咲かせる。年に4度も花を咲かせるアマリリスなんて私は見たことも聞いたこともない。だから私はこっそりいうのだ。アマリリスさん、ありがとう。

暫くアムステルダムに行こうと思わなかったけれど、久しぶりに足を延ばしてみたくなった。運河沿いの道や路地を歩いてみたら楽しいのではないかと思って。そして花市へ行こう。大きなアマリリスの球根を求めて。姑の為にひとつ。自分の為にひとつ。

今日はそんなことをぐるぐる考えた一日。




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