思いだせないこと、思いだすこと。

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先週までジャケットなしでは怖くて外を歩けなかったというのに。怖くて、というのは暖かいと思えば急変して冷たい風が吹くからだ。もう5月だからと気を許すと風邪を引いてしまう。今年は誰もが慎重。うっかりはもう許されないと言わんばかりに。ところがどうだ、ここ数日は昼間にもなれば25度を超えて、日射しも大そう強くなった。今日などは長袖のコットンセーターが暑苦しく感じるほどで、寒がりで慎重な私とて日に日に軽装になりつつある。
テラスに置かれたふたつのジャスミン達。ひとつは白、もうひとつは薄いピンク色の可憐な花を咲かせた。いつからうちにあるのか、何処の誰から譲り受けたものなのか、相棒も私も思いだすことができない。私達はどんな小さな植木であろうと、何処で手に入れたのか、誰から譲り受けたのか、若しくはどの地区のどのごみ箱の足元に置き去りにされていたのか覚えているというのに、可笑しなものでこのふたつのジャスミンに限ってはどんなに記憶を遡ってさぐっても、これっぽっちも覚えていない。

過去にそれに似たことがあった。でも相手は植物ではなくて、同じ年頃の女の子だった。私が13歳の時だったと思う。私と姉は昔から夏になると一週間ほど奥多摩の山の中腹にあるキャンプ場に行くのが習慣だった。父も母も4つ半年上の姉が一緒だからと言うことで、子供ばかりが集まる山のキャンプに送り出すことを快く思っていたらしい。私が其処に行き始めたのは5歳だっただろうか。最年少だった私はそこへ行くと誰からも可愛がって貰えることもあり、夏が来るのが楽しみだった。それで13歳の時、見慣れぬ女の子が私の名を呼んだ。えっ、と驚いたのは、彼女が見知らぬ人だったからだ。しかし彼女はとても親しげに私の名を呼び、さらには元気だったかと私に訊いた。これほど親し気に話しかけるのだから、彼女と私は仲良しだったに違いないが、さて、しかし誰だっただろう。人の顔や名前を覚えるのが得意とまで言わなくとも、忘れることなどなかった私だ。一生懸命思いを巡らしてみたが、分からなかった。それで思い切って訊いてみた。何処かで会ったことがあるのかしら。すると彼女は悲しそうな顔をした。彼女の顔を忘れてしまった私をなじるでもなく、黙って悲しそうな顔を見せた。悲しい気持ちを伝えるのに言葉なんかいらない。ただ、唇をきゅっと結ぶだけで十分だ。彼女の表情がそう教えてくれた。昔、母はよく言ったものだ。忘れるということは罪悪だ、と。人間だから忘れることもある。しかし忘れることによって自分以外の人を困らせたり悲しませたりしたら、それは罪悪なのだ。母はそんな風に言っていたと思う。私は彼女の悲しそうな表情を見て、母の言葉を思い出していた。私が忘れてしまったことで彼女を悲しませてしまった。
もう何十年も前のこと。あれから幾度も考えてみたけれど、未だに思いだすことができない。彼女の記憶がすっぽりと抜けていて、しかし、あの時の彼女の表情と狂ったように鳴いていた蝉の声、眩しいばかりの緑、強い夏の日差しがセットになって、忘れられない夏になった。そして今でもあの時の彼女の表情が胸の隅っこに引っかかっていて、思いだすたびに、そっと心の中で呟くのだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と。

数日前の夕方、テラスの掃除をした。椅子やテーブル、植木鉢を移動させて掃き掃除をして、念入りに拭き掃除をしたら見違えるほどご機嫌な雰囲気のテラスになった。落ち葉が大好きな猫は大そう残念がったけれど、しかし寝転んで大きな伸びをしていたところをみると、猫も綺麗なテラスに満足らしい。ジャスミンの花が咲きこぼれ、庭の木の枝にとまった鳥が囀る。こんな素敵な時間、こんな素敵な空間。心穏やかでいられることをいったい誰に感謝しようか。




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ウィンドウを眺めながら

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ほっと一息。この時期になると毎年何かが故障する。昨年は洗濯機。あれこれやってみたけれど結局修理不可能だった。新しいのを購入して久しぶりに洗濯機を回した時の喜びと言ったら。あの日の感情はまだ記憶に新しい。今年はパソコン。二度も故障して、もう駄目かもしれないと諦めかけたところで回復した。久しぶりにパソコンを使う喜び。当然のように使っていたものが使えなくなった不自由の分だけ、喜びは深い。直せるものは直して末永く使うのが好みだ。まだまだ現役で頑張ってもらいたい。私の体もそんな風であってほしい。少し故障気味だけど、治しながら宥めながら。医者に行くのが嫌いなどと言ってばかりもいられない。仕事帰りに、旧市街の気に入りの店のウィンドウを眺めながら、そんなことを思った。

駆け足で初夏がやってくる予感。気のせいではない筈。




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5月1日の祝日

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5月だ、とカレンダーを眺めながら思う。カレンダーは昨年クリスマス前にエルボリステリアで貰ったもの。エルボリステリアとは、自然薬局とでも呼ぼうか、イタリアでは人々の生活に浸透している存在で、例えば私は誕生日やクリスマスの贈り物は大抵エルボリステリアに足を運ぶ。自分のために様々なハーブを調合してもらうこともあれば、肌に優しい石鹸類やボディクリームを求めることもある。私に関していえばエルボリステリアは本屋みたいな、気軽に足を運べる場所である。それでエルボリステリアで貰ったカレンダーには毎月異なった花や果実、そして小鳥の絵が描かれていて、美しい。絵の下には説明書きがあって、それを読むのもまた楽しい。些細な楽しみ。でも、そういう訳で、月の初めにカレンダーをめくるのが楽しみのひとつになっている。

5月1日。イタリアは祝日である。国際的に労働者の日とされているけれど、イタリアではこの日をPrimo Maggio、5月1日の祝日と呼ぶ。この一言に労働者の日の意味が既に含まれているのであろうけれど、毎年この日を迎えるたびに、面白い呼び方だと思う。今日は風が強く、空に浮かぶ雲が早いペースで動いている。晴れていると思えば曇り、曇っているかと思えば晴れる。決して寒くはないけれど、陰った時の風はキリリと冷たく、思わず首をすくめてしまう。この春は天候不順で閉口しているが、思い出してみれば毎年春とはそんな感じなのかもしれない。この時期になると思いだすことがふたつある。
ひとつは私がまだ高校生だった頃のこと。家族みんなで電車に乗って、遠足したこと。国立公園を目指して。最寄りの駅で降りて、そこからバスには乗らずに公園まで1時間以上かけて歩いたこと。公園に居たのはわずか2時間。急いで帰ってきたのは天気が崩れて雨になりそうだからだった。しかしバスには乗らずに最寄り駅まで歩いて、くたくたになって家に帰ってきたら大雨になった。この遠足はある日突然病気に侵された姉のためだった。病院とか、漢方薬局とか、色々駆け回った挙句に治らないとわかり、それならば少しでも軽減させよう、何とか体力をつけよう、何とかしようと父と母が一生懸命考えて、企てたものだった。疲れすぎも禁物だったが、それよりも家の中にじっとしてばかりいたらいけないよ、ということだったらしい。家族一緒に歩けば楽しいから。そんな気持ちが含まれていたらしい。姉は覚えていないかもしれないけれど、私はそんな父と母の話を聞きながら、姉のことを一生懸命考えるふたりを大好きだと思った。何年かすると姉はそんなことがあった頃も忘れてしまうほど元気になった。でも、私は覚えている。ずっと覚えているだろう。あの頃、父と母が毎日顔を突き合わせて、ああしたらよいのではないか、こうしたらよいのではないかと言葉を交わしていたことを。
もうひとつはアメリカに暮らしてからのこと。一緒に暮らしていた友人と坂の上り下りしながら、イタリア人街のカフェまで歩いたこと。私たちは一緒に暮らしているくせに何かを一緒にすることが少なかった。こんな風にしてふたりで歩いたのは7か月ほど前に一緒に暮らすための物件を探して毎日午後に地図を手にして歩き回って以来だったかもしれない。こっちの道の方がいい、と私が誘った。その道は彼女の知らない道で、今まで知らなかったのが残念過ぎるようないい雰囲気の道だったから、どうしてこんな道を知っているのかと彼女は訊いた。いつもひとりで歩いていたから、時間がある時は何時だってひとりであちらこちらを歩いていたからと答えると、時には自分を誘ってほしいと彼女が言った。あの頃からだ。私と彼女が時々、夕方や夕食後の散歩を楽しむようになったのは。そうして私たちはカフェに通う楽しみを覚え、カフェの人たちと話をすることを覚えた。思いだすだけでもわくわくする。私にとって、一番楽しかった時期かもしれない。あの頃、覚えたことは他にもある。人は同じでなくてもよいということ。考え方や習慣、何が大切で何が大切でないかにしても。自分は自分。他人がそんな自分を尊重してくれるから、私も他人を尊重すること。それから待っていても何も始まらないことも。こうしたいと思うことがあったら、自分から動かなければ何も始まらないこと。当たり前のようだけど、当たり前じゃない。人に頼らない、人を当てにしない。それらはあの頃に覚えて身につけたことだ。

祝日だろうと何だろうと営業している近所の食料品店。バングラ人の店だ。店の前に置かれた大きな鉢に薄紫色のアイリスが沢山咲いていた。この時期日本では菖蒲が美しいのだろう、そんなことをアイリスを眺めながら思った。あ、あ。シニョーラ、これは僕の大切なアイリス。いくらシニョーラだって駄目です。持って行かないで下さいよ。気が付けば食料品店の店主が横に立っていた。勿論! と元気よく答えて、照れ隠しに小ぶりの新じゃがと真っ赤な苺、それからアスパラガスを一束注文した。ふふふ。僕の大切なアイリスだなんて。この小さな食料品店が近所の人たちに愛されている理由がわかったような気がした。




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4月は人生で一番の貧乏暮らしだった

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今日は風が冷たくて、開けた窓をすぐに閉めた。ああ、寒い! と言ったのは私で、相棒は4月なのだから寒いなんて言葉は的確ではないと言って私を戒めた。ところが相棒もいつもの軽装でテラスに出てみたら、5秒と経たずに家の中に入ってきた。ふふふ。4月だって寒い日は寒いのだ。空が青い。驚くほど青い。東からの風に乗って雲の群れがぐんぐん空を走る。いつの間にか新緑に覆われた木の枝が風に揺れてきらきら光る。それは何か遠い記憶を呼び起こす為の儀式のようにすら見えた。窓辺で眺める分には美しくも、パスクエッタの祝日を郊外のどこかで過ごす人々は寒くて肩をつぼめているに違いない。それもボローニャあたりが寒いだけで、ローマあたりへ行けば、案外暖かくて素敵なピクニックなのかもしれないけれど。いつの頃からなのだろう、パスクエッタはピクニックや屋外で食事を楽しむのが一般的になった。そう言えば以前は私達も山の友人たちに誘われて、パスクエッタの屋外での食事を楽しんだものだった。

4月になって以来、私はアメリカに暮らしていた頃のことをよく思い出す。実のところ、冬の半ばからあの頃のことをあまり思い出さなくなっていた。理由はあるようで、ない。ほかに考えることが沢山あったからかもしれないし、無意識のうちに思い出さぬようにしていたのかもしれない。もし後者の方が理由だとしたら、その理由すらも分からない。
4月、4月。アメリカに暮らして初めての4月は人生で一番の貧乏暮らしだった。と言っても、住むアパートメントもあったし、家賃もきちんと払ったし、自由に市の交通機関を使える月間パスも持っていたし、食事だって贅沢をしなければ困ることはなかった。なのに人生で一番の貧乏暮らしだったと思ったのは、どっちつかずの生活で、ふと気が付いたら、そういえば自分には何もない、自分の手の中は空っぽだ、と思ったからだった。そのうえ仕事探しもうまくいかなかったから、貯金が確実に減っていくのを確認しながら、途方に暮れていた。あれほど夢みて叶えたアメリカ暮らしだったのに、日本に帰ってしまおうかと思ったこともある。なのにそうしなかったのは、帰るのは何時だって帰れるではないか、君はぎりぎりまでチャレンジしていないではないか、好きな場所をそんなに簡単に離れることができるのかい、などど様々な人が私に声を掛けてくれたからだ。それは知人だったり、同じアパートメントに暮らす他の階の住人だったり、よく足を運んだカフェの店員だったり、一緒に暮らしていた友人だったり。そういう意味では私はついていたのだ。運の良い人間と言ってもいいだろう。もしあの時誰かが、残念ねえなどと言っていたら、私はあのまま、何も得ぬまま帰ってしまったに違いないから。4月のある日、とても暖かかった。しかし夕方になると湾からの風が吹いて終いには霧が出始めて急に冷え始めた。襟ぐりの広い、薄手のブラウス一枚で出掛けてきてしまったことを後悔した。首元がひどく寒かった。この街の住人としては初歩的な失敗で、ジャケットのひとつ、スカーフのひとつも持たずに家を出てきたことに我ながら呆れていた。私はユニオンストリートを歩いていた。ユニオンストリートとはこの街でも目抜きの通りで、お洒落で手の込んだものを置く小さな店が連なる通りだった。そこで偶然知人を見つけた。お洒落なものが好きな彼女はこの界隈によく買い物に来るらしい。同じようによくこの通りを歩く私はもっぱら眺めるばかりだったが、ユニオンストリートという共通項を見つけて少し嬉しくなったのを覚えている。寒くなったから帰ろうと思っていたという私に、もう少し先まで一緒に歩かないか、その先にとてもいい店があって、きっとあなたも好きだと思うから、との知人の誘いに乗って寒いのを我慢して歩いた。目当ての店は驚くほど小さくて、狭い店内に驚くほどの量のものが飾られていた。知人は店の常連なのか、店の人と親しそうに話しをしながら、あれを見せて、これを見せてと忙しかった。私はと言えば、ひとりで店に置かれているものを物色していた。繊細な美しいピアスや、ブレスレット。華やかな帽子。レースのブラウス。そうして私が手を触れたのはストールともいえるような、しかしとても薄い軽い、華やかな大きな花模様のシルクのスカーフだった。春とも初夏ともいえる雰囲気の、素晴らしい色合いだった。スカーフに手を触れて考え込んでいる私に、首に巻いてみると言い、と言ったのはもうひとりの店の人だった。複雑にまかれているスカーフを上手にほどいて広げて見せてくれたら、さらに素晴らしかった。勿論エルメスなどと比べたら素材にしても縫製にしても雲泥の差があったけれど、あの頃の私にはそんなことはあまり気にならず、その色合い、花の開き方が私の心をとらえ、踊るような気分になった。首に巻いてみたらいい感じだった。それに首元が寒くてどうしようもなかったから、スカーフの温かさが有難かった。傍にいた知人ともう一人の店員がとても褒めてくれた。値段は29ドル。25年前の私にとっての29ドルは、人生で一番貧乏暮らしだと思っていた私にとっての29ドル。思い切って買うことにしたのは、実際寒くて仕方なかったからと、そしてこんな華やかなものを首に巻いたら気分が明るくなって良いのではないかと思ったからだ。あのスカーフは、あれからとても人気者だった。知人友人ばかりでなく、街を歩いているとすれ違いざまに見知らぬ人たちに声を掛けられた。美しいとか、よく似合うとか。若い人だったり年配の人だったり、女性だったり男性だったり。あれが私の運命を変えたとは思っていないけれど、少なくとも私の気持ちは明るくなって、考える方向を少しならずとも変えたのではないかと思う。私にとってあの時期は、思い出すのもつらいような時期だ。自分の方向が見えなくなって、こんな時、海の向こうに暮らす両親は、姉はどんなことを言ってくれるのだろうと思いながらも、電話をかけなかった。心配を掛けたくないというよりも、好きで自分で決めて飛び出してきたのに泣き言などいえない、といった頑なな気持ちがあったからだ。自分の中で戦うしかなくて、苦しくてつらい時期だった。だから私は外を歩いた。大好きな街の空気に触れながら、坂を上り、下り、階段のてっぺんに腰を下ろして街を眺めた。気を紛らわしていただけと言われればそうかもしれないけれど、私はそんな形で気持ちの整理をしていたのではないかと思う。歩きながら何かを見たり考えたりするのは、人が考える以上に効力があると思っている。鎮静剤の役目もするし、刺激剤にもなる、と言ったら分かりやすいかもしれない。

風に流される雲の群れと揺らめく新緑を眺めているうちに、やはりいろんなことを思いだした。しかも一番思いだしたくないに違いない時期のことを。3連休のせいに違いない。長い週末で、考える余裕ができたから、面倒くさいことを思いだした。きっとそうだ。でも、それも悪くない。時々、思いだすとよいだろう。




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私の傍らには藤の花が咲いていた

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散歩をしていたところ、藤の花が咲いているのを見つけた。ほんの少し例年より早いような気がするが、気のせいだろうか。ほんの少し春が駆け足で進んでいるような気がするのは私だけなのだろうか。それは別にして、藤の花は何と美しいのだろう。まるで優雅な貴婦人のよう。

私にとって藤の花は、初めてのローマ暮らしに繋がっていて、20年経った今も、そしてこれから先も、忘れることはないだろう。ローマの強い春の日差しの下で手紙を書いた、私の傍らには藤の花が咲き乱れていて、それがひとりぼっちの私を支えていた。あんな素敵な職場はなかったと思う。隣の建物はテッラコッタの工房だった。とても興味深くてよく足を運んだ。私の上司はとても優しい人で、相棒と離れてローマに暮らす私に気を使ってくれた。時々、休憩と称して外に連れ出してくれた。ある時は近所のバールに。ある時は隣の工房見学に。ひとりぼっちを自ら選んでボローニャを出てきた私は寂しいなんて言える立場ではなかったから、そんなことは言ったためしがないのに、上司に限らず周囲の人たちはこんな風にして私を外に誘い出してくれた。私がローマに特別な感情を持っているのは、そんな人たちが居たからだ。私が感謝してもしきれない人たちの存在。そうした思い出がすべて藤の花に繋がっている。美しい藤の花。青い空。眩い太陽。
私が働いていた会社は、もう何年も前にあの場所から立ち退いたらしい。でも私の思い出はいつもあの場所にある。ずっとあの場所にある。

雨が降ると言っていたが、雨粒の一滴も落ちてこなかった日曜日。窓の前の栃ノ木はすっかり新緑に覆われていて、早くも花を咲かせようとしている。そんなに急がなくてもいいのに、と思うほど。もう少しゆっくり行こうよ、と声を掛けたくなるほど。今週の一週間、私は自分にそんな言葉を掛けながら過ごそうと思っている。ねえ、もう少しゆっくり行こうよ。




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