理由

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日が暮れるのが早くなった。暑い夏はもういいけれど、夜が早くやって来るのはちょっと寂しい、と思うのはあまりに都合が良すぎるだろうか。これからますます日没時間が早くなって、帰り道を急ぎ足で歩くようになるのだろう。

昔は夜道が好きだった。それはもう随分と昔のことで、私がアメリカに暮らし始めた頃のことだから、26年も前のことである。アパートメントをシェアしていた友人には、兎に角たくさんの友人知人がいて、アパートメントに押しかけて来る時もあれば、彼女が外に出ていくこともあった。兎に角彼女がひとりでアパートメントに居ることは滅多になくて、一緒に住んでいるといいながら私達はあまり互いのことを知らなかったかもしれない。もうひとり住人が居た。彼はハンガリーからやって来たばかりの世間知らずの大男。と言うのは祖母に育てられたらしい彼は祖母が何でもしてくれることに慣れ過ぎていた為に、掃除をするのも食事を作るのもコーヒーを淹れるのも誰かがしてくれると信じていて、自分のことは自分ですることをモットーにしていた私と友人を呆れさせてばかりいた。悪い人ではなかったけれど、大木のような大男だった分だけ、その甘えた彼の気持ちが鬱陶しく感じられたのかもしれない。そんな彼も祖国を離れて生活するためには仕事をせねばならず、夕方からレストランでアルバイトをしていた。私が夜道を歩くのが好きになったのは、ひとり行動が好きなくせに、誰も居ない広いアパートメントにひとりでいるのが嫌だったからだ。
坂道を上がりきったところにハンティントンパークがあった。そこで左に折れるとなだらかな下り坂があって、途中で階段を上がると不思議な界隈があった。豊かな人達の家に違いないが、何か芸術の匂いがした。それは小さな庭の作り方であったり、垣根の色合いであったり。背の高い目隠しのような塀などは存在せず、道行く人達にどうぞ庭を堪能してくださいよ、と言っているかのように見えた。恐らく私は怖いもの知らずだったのかもしれない、そんな夜道をひとりで歩くなんて。それとも26年前のあの街は、今からは想像できぬほど平和だったのかもしれない。もしそうだとしたら、私は大変幸運だったといえよう。そうした道を歩きながら、イタリア人街に辿り着くのがいつものコースだった。ガラス張りのカフェに腰を下ろして、書き物をした。書き物とは母への手紙だったり、友人への手紙だったり。私のようにひとりでテーブル席に着いて何かをしている人は多かったから、居心地は抜群だった。帰り道は大抵月が美しかった。月を眺めながら家路につくのはなかなか豊かな時間だと思った。実際外を歩いていなければ月が出ているのも分からなかっただろう。そんな私の小さな楽しみを知った友人は、少しづつ夜になると家に帰ってくるようになり、軽い夕食を終えると一緒に夜道を歩くようになった。ひとりでのカフェの時間がふたりになり、ひとりも良いけれどふたりも案外楽しいものだと知った。昔からひとりで旅をしたり歩くのが好きだった私が、人と一緒も悪くないと思うようになった瞬間だった。

近年は夜道が苦手だ。理由は分からない。それともあの街に行けば、また昔のように夜道を歩くのが好きになるのだろうか。もう何年も訪れていない街。何年も訪れていない理由も分からない。ああ、最近分からないことばかりだ。でも、それでいい。時には物事を曖昧にしておくのもよいと、最近の私は思っているから。




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ヴァレーゼの人

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予告通り、ボローニャに暑さが戻って来た。昼前にちょっと近所に買い物に行った。近所と言っても目当ての店はうちのすぐ近くにはない。バスの停留所にすればふたつ先だ。これを遠いと言うか近いと言うかは、個人の感覚の違いだろう。数日前の過ごしやすい気候だった頃は、このくらい、と疑問にも思わず歩いたものだが、今日はそうはいかない。考えた挙句、歩くことにした。停留所ふたつくらいでバスに乗るなんてと、近所の健脚な老人たちに揶揄われないようにとの心理が働いてのことであった。
薬屋には最近足繁く通っている。それから青果店にも。前に購入した桃が美味しくなかったのをちらりと零してから、店主の桃選びは実に慎重だ。今日も、桃を8個、美味しいの選んでほしいと注文をつける私に、勿論ですよ、シニョーラ、僕はいつも真剣に選んで…と、そこで言葉が切れたので何かと思えば、シニョーラ、今日はいいトマトが手に入ったんです、ほら、と言って私に見せる。いつものダッテリーニと呼ばれる種類の、小さな楕円形のトマトであるが、確かに赤くて新鮮で甘そうだ。それで、それも小さなケースごと購入することにした。思うにこの店主は、隅に置けぬほど商売上手なのではないか、と真上から照り付ける太陽の下を歩きながら思った。本当は家の少し先にあるジェラート屋さんにも行きたかったが、エネルギー切れ。したたかに汗を掻いて、ジェラートよりも家に帰ることを選んだ。ジェラートは、夕方にでも相棒に買ってきて貰えばいいのだから、と。
昼食の準備をしようとキッチンに立ったところで、近所の老人が見ているテレビのニュースが耳に飛び込んできた。近所と言ってもテレビの音など、本来聞こえる筈もないくらい離れているのによく聞こえるのには理由がある。老人は耳がとても遠いのだ。それに一人暮らしでもあるから、テレビのヴォリュームは大きくし放題なのだ。そして一向にヴォリュームが下がらないところを見ると、近所で文句を言った人は居ないようである。だからうちも文句は言わない。別に特に困ったことにもなっていないから。さて、老人は昼のニュースを見ているらしい。テレビの画面こそ見えないけれど、ニュースの内容は理解できるほどよく聞こえる。つまり、老人のテレビは、私たち近所の人達にはラジオみたいな存在なのである。それでそのラジオから、ヴァレーゼという北イタリアの、殆どスイスとの国境に近い町の名前が聞こえてきた。ヴァレーゼ…と、繰り返して発音してみたら、ああ、そういえば、と思いだした。

私は教会の前の広場に立っていた。ヴィエンナ滞在最後の日で、その日の夕方にはボローニャへと発つことになっていた。今にも雨が降りそうな天気で、肌寒いほどの気温だった。連日の暑さに辟易していた私には、ヴィエンナからの贈り物のように思えた。大きな教会だった。いつも遠目に見ていた薄緑色の丸い屋根がこの教会だったのか、と思いながら、広場の真ん中にある大きな噴水を眺めていた。水面は曇り空を反映した、重い薄緑。こういう色は嫌いではないと思いながら眺めていたら、とうとう雨粒が落ちてきた。このぐらいと思っていたが止む様子はなく、それで階段を上がって教会の軒下に駆け込んだ。軒下には先客が居た。夫婦者で、50代半ばくらいだろうか。妻は美しい金色の髪を綺麗にセットしていて、雨には濡れたくないわ、と言った感じだった。夫の方は高価そうなカメラを手に、しきりにシャッターを切っていて、時々ふたりで言葉を交わしていた。何語だろうか、何処の国の人達だろうか、と耳を澄ましていた。聞いたことがあるような、ないような。その時妻の方が、Bene、と言った。それで彼らがイタリア人であることが分かったところで、ふたりから話しかけられた。訊けばヴァレーゼから来ているという。先ほど到着したばかりなのだそうだ。彼らはヴィエンナが初めてらしい。妻は早く旧市街を歩きたいのに、夫はすぐに立ち止まって写真を撮るから少しも先に進まないと言った。それを聞きながら、ははあ、確かにイタリア語だけれど、何と違うタイプのイタリア語なのだろうかと思った。あなた達がイタリア人だなんて少しも分からなかった、アクセントが全然違うのよ、私が住んでいるボローニャと、と言うと、ああ、ボローニャか、確かに違うだろうなあ、と言うので私達は顔を見合わせながら大笑いした。イタリアは大きな国ではないけれど、街によってイタリア語の言い回し、話し方、アクセントも異なる。私がイタリア語だと思って使っていた言葉がボローニャでしか通用しない言葉だったりして、ボローニャ生まれの友人たちに揶揄われたことがある。なんだ、あなた、すっかりボロニェーゼになってしまって、と。私達は偶然教会の軒下で会ったよしみで、ちぐはぐなイタリア語に笑いながら、あれこれ話して別れた。良い旅を。あなた達も、と。
ヴァレーゼの夫婦者、あれから散策を満喫できただろうか。なかなか先に進まないと、妻が怒りはしなかっただろうか。涼しいヴィエンナが有難がったに違いない。耳に飛び込んできた近所の「ラジオ」の言葉、ヴァレーゼでそんなことを思いだした。

陽が落ちるのが早くなったようだ。20時には日没らしい。少し前まで21時になっても空が明るくてと話していたと思ったのに。そうすると、いよいよ8月の終わり。私の夏季休暇も終盤を迎えて、ちょっぴり残念な気分なのだ。




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記憶の糸

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ボローニャに戻って来てから、不思議なことにどんなことがあったとか、どんなことをしたとか、どんなものを見たとか、ヴィエンナでのことを思いだすことがなかった。忙しくて思いださなかったのではない。忘れていたわけでもない。ただ、何か私の記憶の引き出しに鍵が掛かっていたみたいに、思いだすことがなかった。そういえば、ヴィエンナに居た数日間もそうだった。歩き回ってホテルに帰ってくると、今日一日のことが思いだせなかった。あまりにも色んなことを見たせいなのかもしれなかったし、単に歩き疲れて頭が回らなかっただけなのかもしれない。兎に角、ヴィエンナの記憶の糸が少しずつほつれだし、小さな色々が頭に浮かび始めた。

私が滞在したホテルは旧市街の南に位置するWiedenと呼ばれる地区だった。旅行者が見て楽しいようなものなど殆どない、いわゆる住宅地、生活の場と言った感じだった。私が其処に決めたのは、単に毎回そこに泊まるので辿り着く方法を心得ていたからと、ホテルの居心地が良いからだった。けれど一番の理由は、旅行者のざわめきのない場所だったからかもしれない。ある日の午後、私はヴィエンナに到来した熱風にやられて疲れていた。第3の男の博物館に入ることが出来ず、がっかりしていた午後だった。道から道へと渡り歩くも、くつろげそうなカフェが見つからなかった。仕方ない、一度ホテルに戻ろうか、とも思ったけれど、戻ったら最後、疲れがどっとでて、再び外に出てこれないのではあるまいかと案じ、そのまま歩き続けた。と、思いだした。前日、この辺りを丹念に散策した時に道の向こうで賑わっていたカフェ。旧市街の古いヴィエンナの色が詰まっている、あの格式高い感じのカフェではなく、近所の人達がふらりと立ち寄れる感じの、感じの良い明るいカフェ。犬連れの人や、自転車で来た人などが、気軽に腰を下ろして楽しめる感じのカフェがあるな、と思いながら、私は大通りの向こう側の歩道を歩いていたのだ。確かホテルから10分もしない場所に在った筈だ。それで今すぐにでも何処かに腰を下ろして冷たいものを注文したい自分を励ましながら歩いて行くと、あった、あのカフェがあった。店の名前はCorto & Nero。あまりにもイタリアじみた店の名前で、ヴィエンナに来てまで私にイタリアがついて回る、と苦笑したものだけど、店はなかなかよさそうだった。客層と、客のくつろいだ様子を見てすぐにわかった。歩道に並べられたテラス席。全部が塞がっていたわけではないけれど、私は店の中を見てみたかったから、中に入って小さな席に着くと、特製レモネードを注文した。店内には旅行者とみられる先客がひとり。外のテラス席は地元の人達でほぼ満席だった。ヴィエンナの人達は、夏は外の席が好みらしい。イタリア人と同じだ。多分ヨーロッパの人達と言うのは、一般的にそうなのだろう。カウンターの中に置かれていた、良く磨かれた大きなエスプレッソマシーン。店の名前のCorto & Nero、〝短くて黒い″はイタリアのあの濃いカッフェを注文するときの言い方のひとつだ。店主がイタリア人なのだろうか、それともイタリアが大好きなヴィエンナの人だろうか。どちらにしてもこんなに磨き込まれた、つまり手入れされたマシーンで淹れたカッフェは美味しいに違いないと確信した。ひとり忙しく動き回る、店の女性。雇われているに違いないが、兎に角よく働く。テラス席の客の様子を見に行って戻ってきたと思ったら、奥から準備のできたレモネードを銀のトレイに乗せて私のところに持ってきた。わっ。大きい。それは大きなレモネードで、水差しグラスのような大きさだった。其処からグラスに注いでいただくのだが、3杯分はあるに違いなかった。レモネードは美味しかった。もさもさと沢山のミントやセロリがレモネードの中につっこんであり、微妙にそれらの匂いがして愉しかった。テラス席はほぼ満席だが、だれひとり大きな声で話す人はいない。皆笑顔で、愉しそうに話しているのに。まるで他の人に迷惑を掛けない暗黙の了解があるかのように。壁に掛けられた新聞の束。昔、サンフランシスコの行きつけのカフェにあったような、新聞の束の様子を眺めながら、こうした雰囲気の店がボローニャにないのはどういうことだろう、と思った。がやがやと大声で話す人の居ないカフェ。新聞の束。愉しい空気。ボローニャにこんな店が在ったらば、通い詰めると思うのに。また来るからと言って店を出た。また来るからだって、と店を出てからひとり笑う。そうだ、次は冬に来よう。あのよく磨き込まれたエスプレッソマシーンで、美味しいカッフェを淹れて貰おう。

今日は水曜日。行きつけのジェラート屋さんの定休日。そんな風にしてカレンダーを確認して頭に叩きこんだ。新しい習慣なのだ。朝一番にカレンダーを眺めるようにしているのは、このところ曜日の感覚が乱れているからだ。このままではまずいことになる、社会復帰の日が近づいているのだから、と数日前に思い付いて始めた。週末に向けて暑くなるそうだが、まだ、快適な乾いた風が吹いている。もっとも風の柔らかさが昨日とは一瞬違うから、確かにその背後に熱風の群れが控えていることが分かる。秋になるにはまだ早すぎる、と言うのが世間の人達は言う。そんなに早く夏に去られてしまっては、あまりに寂し過ぎるとのことである。確かに。確かに同感だ。私だって夏は嫌いではない。汗を掻かない夏ならば、ほどほどの気温の夏ならば、いつまで居座って貰っても構わない。




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8月20日

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昨晩は結局、雨が降らなかった。けれども寝る前にテラスに出てみたら向こうの方の空が光っていたから、雷雨だったに違いない。そのせいなのか朝起きてみたら、すっかり涼しくなっていて、その涼しさは一日中続いた。風が涼し過ぎて剥き出しになっていた足首や痛いくらいだった。尤もそんな涼しさは長くは続くまい。ボローニャ特有の残暑は、これから9月半ば過ぎまで続く筈だから。

8月20日。この日を境に夏が終わると言ったのは、ブダペストの友人だった。もう10年以上前のことである。まさか。そんなに早く終わる筈がない。だってこんなに暑いのだから。そう言って笑ったのは私だった。私は相棒とブダペストを訪れていた。8月20日、この日はハンガリーの建国記念日で朝から快晴だった。旅行者でいっぱいなうえに、この日を自分の国で過ごすために他国から帰省していた人々で、街中がごった返していた。この祝日に向けて様々な催し物が用意されていて、ひとつは普段は車が通る橋の上を歩行者に開放して出店を立ち並べたもの、ひとつはドナウ川の上を飛行機が飛び交う航空ショー、そしてひとつが夜遅くに始まるドナウ川の上に打ち上げる大きな花火だった。午後に行われた航空ショーを眺める人達が川沿いにずらりと並んでいた様は、まるで止まり木にとまる文鳥のようだった。兎に角暑い午後で、日影などどこを探しても見つからなかった。こんなに北にあるのにどうしてこれほど暑いのか、此れではボローニャと同じではないか、と文句を言ったものだった。だから私達は早々に引き上げて街を散策した。あらましの人がドナウ川沿いに居るらしく、街が空っぽと言った具合だった。それはそれで風通しが良くて、気に入りのカフェも随分と空いていて、ドナウ川を離れたのは正解だったと思ったものだ。夜、友人たちと夕食をとりながら、花火を見に行くかどうか迷った。見たい気はするが、恐らく昼間と同じような混雑になるだろう。と言うことで花火を見に行くのは取りやめになったが、友人は、しかしこの打ち上げ花火はなかなか感動的なものがあって、ハンガリー人にとってはちょっと重要なものなんだ、と語った。打ち上げ花火は僅か30分ほどのものだが、花火が終わる瞬間、ハンガリー人たちは自分の胸に手を当ててハンガリーの建国に敬意を払うのだそうだ。若しくは自分がハンガリー人であることに誇りを持っていることを表しているのかもしれない。ただそれだけのことだけれど、傍から見ていると感動的なのだ、と友人の妻が付け加えた。私が知る限り、ハンガリーの人々は実に真面目で素朴だから、そのどちらもが当てはまるのではないかと、話に耳を傾けながら思った。その時だ、友人の妻が言ったのは。8月20日を境に夏が終わる、と。私と相棒は、その言葉にけらけら笑い、冗談でしょう、こんなに暑いのに、と汗を拭きながら言った。翌日、朝のうちに私達はブダペストを発った。ボローニャへの長い道のりを車で、途中オーストリアの小さな町に泊まりながらの呑気な帰途だった。そんな訳でハンガリーの夏が8月20日で終わったかどうかなんて、すっかり忘れていたのだけれど、ボローニャに戻り、無事に家に帰ってきたことを報告しようと友人に電話を掛けると、君たちはいいタイミングに出発したね、と友人が興奮しながら言った。大雨と横殴りの雨が降って、すっかり涼しくなってしまったそうだ。これがいつものパターンらしい。ジャケットが必要な涼しい日が続いて9月に入ると、夏の悪あがきと言うのか、一瞬だけ暑さが舞い戻るのだろうだ。そんな話を電話口で聞きながら、戻ってきたボローニャは大そう暑くて、何だか羨ましく思ったものだった。今年も8月20日になった、とカレンダーの数字を指でなぞりながら思った。今年もハンガリーの夏は今日で終わるのだろうか。

今夜は車の通行が多い。多分明日から仕事に戻る人達が家へと急いでいるのだろう。ぎりぎりに休暇から戻ってくるなんてイタリアらしい。私なんて、帰宅してから数日くらい家でのんびりしなければ、社会復帰できないけれど。それにしたって、もう、ハイテンポな生活には戻れそうにない。




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冷えた西瓜

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今日も夏の機嫌がいい。朝から快晴、朝から気温が高い。家中の窓を開け放つと気持ちの良い風が入ってきた。この風が存在する限り、クーラーを入れる必要はない。居間にはクーラーが存在するが、これを使うことは殆どない。この夏で言えば、7月終わりと8月の初めの連日38度だった時期の夕方に活用したが、せいぜい5日間程度のことである。周囲にアスファルトの道が存在しないことが理由なようだ。陽の照り返しがないということは、此れほど快適なものなのか、と最近になって気が付いた。それから土はアスファルトのように太陽の熱を充電することもない。土が周囲にあることに、最近になって感謝するようになった。洗濯したばかりの清潔なレースのカーテンが膨らんだり萎んだりしているのを眺めながら、こんな時間を過ごせることに幸せを感じる。そんなことを感じることが出来るのは気持ちに余裕がある証拠。この調子、この調子。この気持ちの余裕をクリスマス頃まで持ち続けることが出来ますようにと、心の中で願うのだ。

近所のバングラ人が経営する青果店の前を通ったら、西瓜が山積みされていた。楕円形の西瓜で、持ち上げるのに苦労しそうなほど大きかった。私は用事を済ませすために店の前を素通りして、数時間後店に立ち寄ってみたら、西瓜はもうひとつもなかった。店に入って桃を6個、ズッキーニを沢山、それからニンニクとトロペア産の玉葱を注文した。それで一区切りついたところで、朝方、店の前に山のようにあった大きな西瓜はどうしたのかと訊いてみたら、シニョーラ! 全部売れてしまったんですよ! と店主は言った。あんなに沢山あったのに? と訊き返すと、あんなに沢山あったのに! と笑いが止まらないと言った感じで嬉しそうに答えた。そういえばこの夏は、まだ西瓜を食べてないことに気が付いた。いつの頃からか、私は西瓜を欲しいと思わなくなった。何故だろう。

子供の頃、私は夏になると、いつも東京とは思えないような自然溢れる奥多摩に行った。理由はそこで子供たちのキャンプがあったからで、方々の町からやってくる同世代の子供たちに紛れて過ごす夏が好きだったからだ。日数にしたら、せいぜい5日間ほどのもので、初めのうちこそよそよそしいけれど、類は友を呼ぶと言うのか、そのうち気の合いそうなもの同士が話し出して数日間を楽しく過ごすというものだった。近くには川が流れていて、その左右の道は木陰でとても涼しかった。川の水はと言えば大変冷たくて、大変澄んでいて、だから私達は丸い西瓜を幾つも運び出して川に浸して西瓜を冷やした。その間、私達は小路を探検したり、川に入って膝下を濡らしながら時間を過ごして、さて、西瓜も冷えたに違いないと思われる頃になると、わらわらと河原から引き上げた。思えば、キャンプ場に通っている水も奥多摩の清水を引いていたからとても冷たかった。それなのに私達が冷やすために西瓜を川辺にもって行ったのは、そういうことを体験させる目的だったにちがいない。昔の人達は、こんな風にして西瓜を冷やしたのだと言うことを教えたかったのかもしれない。それで冷えた西瓜の美味しかったこと。あの冷たい川の水で冷やしたのだから当然だ、と誰かが言えば、全くだと誰もが頷いた。私達は皆、素朴で疑うことをしらない子供だった。私達は幸運だったのだと思う。そんな子供時代を過ごすことが出来たなんて。
冷えた西瓜を食べると必ず子供の頃を思い出す。甘くて冷たく美味しい西瓜。夏だけに会う友達と膝小僧をくっつけあってお喋りをしながら食べた西瓜。手紙を書くからと約束して、別々の電車に乗り込んだ時の寂しさ。あれは何駅だっただろう。拝島辺りの駅だろうか。

今の時代は気が許せない。何処に住んでいても何処に居ても平和なんて存在しないかのようだ。イタリアは大丈夫だなんて言う人がたまにいるけれど、何を根拠に言うのだろう。だからせめて家に居る時くらい、肩の力を抜いてのんびりしよう。空や風に揺れるカーテンを眺めながら考え事をしてみたり、冷たく冷やした桃を口に放り込みながら映画を見たり。人生なんてものは、楽しむためにあるのだから。




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