自転車とかアマリリスとか

DSC_0065 small


昨晩からの頭痛が一日続いた。風邪を引いたのかもしれない、と思ったのは妙な寒気を感じたからだった。金曜日だというのにと思うと同時に、金曜日でよかったとも思う。今夜は早めにベッドに潜り、上手くすれば明日の朝も温かいベッドの中でゆっくりして、そうすれば風邪など治ってしまうだろう。風邪は休息と栄養が一番の薬と言ったのは母だっただろうか。母は月に一度は突然高熱を出す私を学校に迎えに行かねばならなかった。私は薬を幾つも服用せねばならぬ子供だったのである。少しでも薬の量を減らすために、父と母は私を疲れないように、沢山眠らせて沢山栄養を取るように言い聞かせたものだ。しかし、親の心子知らずとは私のような子供を指すのだろう、好き嫌いは多いし、眠るのも大嫌いだった。特に昼寝などは話にならず、目を瞑ることすら出来なかった。高熱を出しても眠りたがらない子供。それも体を横たえれば、嫌だ嫌だと言いながら深い眠りについたものだけど。そんなことを言うとまるで病弱だったかのように聞こえるが、私は元気な時は大変元気な子供だった。痩せっぽちの色黒で、走るのも得意なら、柔軟体操も鉄棒も得意で、疲れ果てるまで遊んだものだ。嫌いだったのは自転車。自転車のペダルを漕ぐのが嫌いだったのは大人になっても変わらない。夏になるとボローニャの私が暮らす辺りでもオランダから自転車でやって来る人達などを見掛けるけれど、あれには全く舌を巻く。私などボローニャ旧市街に行くのですらお手上げなのに。歩くのは苦にならないが、自転車とだけは相性が悪い。だから、そんなオランダ人を見かけると、ああ、オランダ人ときたら、などと意味のないことを言って相棒に笑われるのだ。大人になって随分健康になったと思う。それとも自分の体力の限界を知るようになって、無理をしないようになっただけなのかもしれない。

ところで自転車が好きなオランダ人のことを思いたしたら、アムステルダムに行った時のことが蘇った。歩行者よりも自転車の方が我が物顔で街を行きかうアムステルダム。その様子が面白くて、長いこと私は陽の当たる道端に佇んだものだった。あれは秋のことで、もう7年ほど前のことだ。花市場で買ったアマリリスの大きな球根。姑の為にひとつ。自分の為にひとつ。自分のアマリリスは何年も咲いたが、遂に駄目にしてしまった。姑のは今でも元気で年に何度も大きな花を咲かせる。良い球根だったのかもしれないし、姑の家のテラスの環境が良いせいもあるだろうが、球根と姑の関係が良いからだと私は思っている。もう20年も前に体が不自由になり話が出来なくなった姑は黙々とアマリリスの世話をして、アマリリスはそんな姑に恩返しするかのように花を咲かせる。年に4度も花を咲かせるアマリリスなんて私は見たことも聞いたこともない。だから私はこっそりいうのだ。アマリリスさん、ありがとう。

暫くアムステルダムに行こうと思わなかったけれど、久しぶりに足を延ばしてみたくなった。運河沿いの道や路地を歩いてみたら楽しいのではないかと思って。そして花市へ行こう。大きなアマリリスの球根を求めて。姑の為にひとつ。自分の為にひとつ。

今日はそんなことをぐるぐる考えた一日。




人気ブログランキングへ 

優しさ

DSC_0026 small


太陽は何処へ行った。晴れるとの予報が大いに外れてどんよりと重苦しい空の日曜日になった。予報なんてものは大抵そんなもので、当たって良し、当たらなくても仕方がないと私は思うのだが、相棒はそうではないらしい。予報に沿って緻密な計画を立てた彼は応用が利かず、朝から文句を沢山言った。はいはい。そうですね、と適当に相槌を打つ、折角の週末に朝から怒るものではないよ、と心の中で思いながら。せめてもの救いはまだ止まなかった雨が昼前には上がったこと。気温は低くないのに寒いのは太陽が出ないせいだろう。太陽よ、顔を出しておくれ。寒くてどうしようもない、と呟きながら、私も随分諦めが悪いと己を振り返って苦笑する。

今でも時々思いだす、アメリカに暮らしていた頃のこと。其れも相棒と知り合ってからのことではなくて、まだ言葉も不自由で、知人もあまり居なかった頃のこと。私が一番初めに借りたアパートメントは知人が何年か前に誰かから買い取った建物の、4階か何かの小さな部屋だった。それは古い建物で、取り付けられていたエレベーターの扉は鉄柵の手動式だった。そして前の持ち主は一体どのようなセンスの持ち主だったのか、レンガの外壁をえんじ色に塗り、縦長のその建物は通りでもひときわ目立つものだった。私の部屋は通りに面していないところに在り、大きな窓の向かい側には他の建物があった。その空間は僅か1メートルほど。陽当たりはあまり良い方ではなかった。運が良かったのは向かい側の建物に窓がなかったことだろう。さほど広くない部屋と、バスルームとキッチンがあった。素敵とは言い難かったが、暮らすにあたって不足なものは無く、文句を言う筋合いはなかった。急な坂道に面したその建物の近辺は、なかなか面白い店があった。雑誌に出てくるようなファンシーな店はなかったけれど、地元の人達が普通に通う店が並んでいて、私をとても喜ばせた。小さな骨董品店があって、40年代の美しい色柄のついた大皿とスープ皿を二枚づつ購入した。と簡単に言うが、未収入の実の私だったから、これを本当に購入するべきなのかどうか、4枚の皿を購入するに至るまで、何度も店に足を運んだ。そしてようやく心を決めた日、当時は値切るほどの語学力が無かったから、言い値で購入するつもりだったけれど、気の良い店主が自ら割引価格を出してくれて、とても嬉しかった覚えがある。皿の其処ががさがさしていてはテーブルを傷つけるからと、まるで日本の瀬戸物屋さんみたいに其処を何かで磨いて綺麗にしてくれたのには感激した。その皿たちは家に遊びに来る誰もが褒めたたえ、良い買い物をしたと誰もが言った。こんな楽しい色合いの皿を使うなら、ひとり暮らしも淋しくないと誰かが言って、ああ、この人は私のことをよく分かっていると思ったものである。其れからよく足を運んだのは、角のコーヒーショップ。この店もアパートメントの持ち主の配下だった。其処に暮らしにあたって店に連れていかれて紹介などされたものだから、店に行くとお金を受け取って貰えず居心地の悪い思いをした。店を切り盛りしているのは香港人の夫婦だった。同じ東洋人だからというのが彼らがお金を受け取らぬ理由だったが、それでは困ると交渉して半分でもお金を受け取ってもらうようになった。今思えば言葉が拙かった私が、よくも彼らとそんな話しが出来たと感心するが、恐らく移民だった彼らには外国人の私の言わんとしていることをくみ取ることが出来たのだろう。後から知ることになったのだが、このコーヒーショップはパンケーキが美味しいことで有名だった。私がその店の常連だと知った知人達は、ああ、あの店、と目を輝かせたものだった。しかし私が好きだったのはパンケーキではなくて、この香港人夫婦が出す昼のメニューだった。3ドルと安い中国料理のメニューは、その界隈に働く人暮らす人達の人気で、昼時に行くと席がないほどだった。私が好きだったのはキッチンをぐるりと囲んだカウンター席。多分70年代くらいから改装していないに違いない古めかしい内装で、カウンターに置かれた背の高い椅子も古かったが、それがどうしようもなく好きで、テーブル席の方が落ち着けるよと夫婦は何時も薦めたけれど、私はこのんでカウンター席に座った。店の人と話をしながら食事をしたりコーヒーを飲む楽しみを知ったのは、多分この頃からだ。もっともつたない英語だったから、周囲の客たちは目を白黒させていたに違いない。
29年も経った今も、そんなことを思いだすのは、好きで自ら進んでアメリカに行ったとはいえ、やはり心細くって、そんな時期に他人の小さな優しさが嬉しかったからだろう。人に優しくして貰うことがこれ程有難いことだとは、私はアメリカに暮らすまで知らなかったのかもしれない。家族と一緒に居た時には何時も両親と姉が私を守ってくれていたから。何不自由することも無かったから。歩き慣れた道。使い慣れた言葉。見慣れた顔。それらが無い生活は私には良い経験だった。異国で寂しい思いをすること。不自由すること。必要だったのかもしれない。

日曜日は猛烈な速さで駆け抜けていく。もっとゆっくりいこうよ、と呼びかけても、まるで聞こえないかのように。せめて今夜は美味しいものを。気に入りの赤ワインの栓でも抜いて、ゆっくり夕食をとることにしよう。




人気ブログランキングへ 

冬に想う

DSC_0038 small


気温はそれほど低くないのに飛び切り寒く感じた昨日と今日。空が晴れないので憂鬱だが、ボローニャの冬とはそういうものだと思いだす。そうそう。初めての冬もこんなだった。そんな冬から逃げるかのようにしてローマへと移り住んでしまったけれど。あまりに寒い冬のボローニャからローマに移り住んだのは1月に入ってすぐのことだった。ヴァティカン市国のサン・ピエトロ広場に、まだクリスマスの飾りが置かれていたから私の記憶は確かだと思う。其処へ行ったのは、相棒の友人がボローニャから来た私と相棒を車に乗せて、色んなところに連れまわしてくれたからだ。此れからひとりでローマに暮らすことになる私が、少しでも街の様子が分かるようにと。しかし彼のそうした好意は、単にローマがとんでもなく広い街であることを分からせただけで、私を不安にさせたものだ。今思えば、彼はとても親切だった。相棒がボローニャに残り、私が独りでローマで仕事をしながら暮らすのは、誰が見ても可笑しな具合だったのに、大丈夫だよ、君たちは大丈夫だよと繰り返し、勇気づけてくれたのだから。この時期になると思いだすのは、独りぼっちだったローマの冬。でも、独りぼっちだったと私は思いこんでいたけれど、周囲が確かに私を見えないところから見守っていてくれたのだと今は思う。ボローニャの冬にローマの冬を思いだす。今でも毎年思いだすのは、あの頃私の周囲に居た人々に感謝の気持ちを贈るためだ。

ところで12月に、美味しいシチリアワインを手に入れた。美味しいだろうと思って購入したら、本当に美味しかった。私好みだったと言えばよいかもしれない。深い深い赤。此れは姉も好きだろうと思って、ワインボトルの写真を送ったところ、姉はすぐに飛びついた。日本でも手に入るそうだが、2倍以上の値がつけられていた。イタリアでだって普段に飲むには高価だと私も相棒も思っていたのに、そんな高値が付いたワインを姉は直ぐに注文したようだ。其の行動の速さに脱帽。姉は何時だってポジティブで、アクティブなのだ。そういう姉を見て成長した私は姉を尊敬すると同時に、怖気づいてばかりいたのだろうと、ふと気が付いた。今年はそういうことを肯定して成長したいと思う。姉を追い抜く必要はない。姉と肩を並べて歩めればいいと思う。世界でたったひとりの姉と妹。喜びや楽しみを分け合えればよいと思う。兎に角、注文したワインが姉の手元に届く日が楽しみだ。どんな感想を聞かせてくれるだろう。気に入ってくれればよいけれど。




人気ブログランキングへ 

贈り物とか

DSC_0040 small


夜道が明るいと思ったら、空に美しい月。明後日には満月になる月だが、もう充分満ち足りたように輝いていた。満ち足りる。それは素敵なことだと思う。人間にしてもそうだ。そして誰が何と言おうと、自分が満ち足りていると思えば、それで十分なのだと思う。

木枯らしの吹く寒い一日だったが、飛び切り天気が良かった。少し迷ったけれど旧市街に寄り道したのはそういう理由からだった。雨が降れば散策したくも出来ぬだろうから、と。クリスマスのライトアップが始まり、寒い冬の街を灯す。街の中心のマッジョーレ広場の真ん中に佇めば、あっという間に中世にタイムスリップしてしまう。初めてこの町に来た時は、なんて古い、なんて閉塞感のある、重苦しい、とそんなことばかり思ったものだが、今の私はそのどれも感じることがない。古いけれど案外自由。こうでなければならぬという法則があるようで無い町。勿論周囲の目はあるけれど、私が自分らしく居られる町と思えるようになった。自分の中でどんな変化があったのか知らないけれど、良いことだと思っている。絶対なんて言葉は使いたくない。人間は変化していくのだから。
街を歩きながら私は考えていた。どんな贈り物にしようかと。ひとつは姑に。ひとつは住み込みで姑の世話をしてくれる年配の女性に。高価なものである必要は無く、しかし貰って嬉しい実用品。毎日使いたくなるような。姑には毎年肌に優しい自然薬局の基礎化粧品を選んでいるが、今年はどうしたものだろう。住み込みの女性に贈り物をしたことは今まで一度もなかったが、夏に現在の人に交代したのを心配したが、驚いたことが起こった。姑がとても嬉しそうなのだ。そして食事を拒否ばかりしていたのに喜んで食べるようになった。嫌いな果物や野菜も。好転だった。姑に優してくれているらしいこの女性に、贈り物をしたくなったのはこうした背景がある。其れに彼女が居るから私も相棒もいつもの生活が出来ると言っても過言ではない。彼女の趣味は知らないから、装飾品類はやめた方が良いだろう。香水も好みがある。ならば、やはり肌に優しい自然薬局の基礎化粧品辺りが無難だろうか。近いうちに店の立ち寄って、素敵な包みを作って貰おうと思う。

あと2週間で冬の休暇に入るからテンションが高くなっているが、本当は心底疲れている。一年走り続けたような気分。諸々のことから少し離れて、何も考えずに過ごしたい。ああ、待ち遠しい。それがこの冬の休暇の過ごし方だ。




人気ブログランキングへ 

靴が好き

DSC_0008 small


今日という日が嬉しいのは、金曜日だからだけではない。風邪を引いて熱が出掛けたのを上手く潜り抜けることが出来たことや、思うように進まなかった仕事が何とか片が付いたことや、近所の青果店の奥さんに美味しい林檎を選んで貰うことに成功したことや、それから、それから。それから仕事帰りに閉店ぎりぎりに駆け込んだ靴の修理屋さん。店主に頼んでおいた自分の靴を渡されて、見違えるように美しくなっていたのには感激した。もともと私は靴の手入れは良い方だけど、それにしても靴の底の修理を頼んだだけだったのに、8年も履き込んで多少なりとも傷んでいた黒のショートブーツが良く磨き上げられて戻ってきた。うわー、こんなに良くしてくれて、と思わず言葉が零れると、店主は照れながら頭を撫でて、必要だと思ったからだと言った。私が修理を繰り返しながら大切に履き続けているのが伝わったのだろうか。兎に角、此の一件は私を深く感動させた。ありがとう。ありがとう。料金を支払いながらいったい何度ありがとうを言ったことか。この店の存在を教えてくれた友人に感謝せねばならない。この店は大当たりだった。少なくとも10年は通うことになるだろう。

ボローニャの靴屋の多さと靴好きは有名で、80年代から90年代に売れた歌手、ルカ・カルボーニの歌にも出てくるほどだ。この歌を初めて聞いたのは私がアメリカに居た頃だが、何しろイタリア語が分からなかったから、そういう歌だと知ったのは私がボローニャに暮らし始めてからのこと、この歌を初めて聴いてから何年も経ってからのことだ。確かに当時のボローニャには沢山の靴屋があって、靴好きの私を歓喜させたものだ。中でも靴を注文に応じて作り上げる店については話を聞くだけでもわくわくしたが、その店が友人の叔父の店だと知った時は興味と関心と驚きが交差して笑いが止まらなかった。靴職人が身近な人の周囲に居るなんて。彼は何時も素敵な靴を履いていて、既製品ではない、彼の足に合わせて仕立てたものだと分かる靴を何足も持っていた。そのうちの一足は橙色の靴で、艶といい色合いといい、そして形といいより抜かれた素材としか言いようがなく、貴方は何時も素敵な靴を履いているが、今日の此れは飛びぬけて素晴らしいと褒めたところ、此れは僕の一番の気に入りなんだけど、僕の靴はどれも叔父の店で仕立てたものなんだよ、とのことだった。どういうことなのかと突っ込んで訊いてみると、旧市街にある小さな工房の、有名な店だとのこと。ボローニャに暮らし始めて5年も経った頃、一度興味があって店に入ったことがある。話を聞いてみたら一足を作るのに何か月も掛り、代金は私の手の届かないものであると知り、退散するしかなかった。成程、ならば分かる。しかしあの店はこんな素晴らしい靴を生み出すのかと、それ以来彼と会うたびに靴ばかりが気になって仕方がなかった。私の靴好きも、其処までは手が出ない。自分の足に合わせて靴を作るのは、母に連れられて自分の体に合わせて服を仕立てて貰っていた其れとは話が随分と違うと思った。自分の足に合わせて靴を仕立てるのは、私にとって手の届かない贅沢のひとつ。かと言って良い靴を諦める気はさらさらなく、大変微妙なのである。近年は既製品ではあるが手製の、柔らかい革を使ったものが好きだ。高価だが、しかし8年も履けるなら良い。足元は大切だから贅沢ではない。足が痛くては歩くこともできぬ。そうだ、足元は大切なのだ。

明日も天気になるらしい。旧市街に骨董品市はあるだろうか。アンティークのクリスマス・オーナメントを今年も幾つか購入したいと願っている。何か可愛いのを。毎年少し買い足すのが、この時期の楽しみだ。




人気ブログランキングへ 

Pagination

Utility

プロフィール

yspringmind

Author:yspringmind
ボローニャで考えたこと。

雑記帖の連絡先は
こちら。
ysmind@gmail.com 

フリーエリア

月別アーカイブ

QRコード

QR