冬空

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雨はもう止んでしまった。残ったのは窓ガラスを叩く風、風、風。風の音を聞きながら日本の冬を思いだした。生まれ育った東京の端っこの街から場所を移して思春期を過ごした田舎の町は、冬になると強風が吹き、がたがたと外の音が聞こえるたびに不安に駆られたものだった。夜であれば雨戸が、昼間であれば窓ガラスが音を立てて、何か地球の端っこに追いやられてしまったような気分になった。思春期と言うこともあって、風の音は私に様々なことを考えさせた。どうしてこんな所へ来てしまったのだろうとか、この風が止まなかったらどうするのだろうとか。今思えば詰まらないことばかりこと。でも思春期と言うのはそんなものなのかもしれないと思う。そうして窓の外を見れば、いつの間にか雨が降り始めて、地面を黒く光らせる。今日はこんな一日らしい。外出には不向きな一日。どちらにしても数日前から、私は寝たり起きたりの生活だ。

こんな暗い空を眺めていたら思いだしたことがある。ローマで職のオファーを得て、ボローニャから飛び出した頃のこと。ローマに暮らす相棒の古い友人の家での居候生活を経て、街の中心の厳めしいアパートメントに部屋を借りた頃のことだ。2月という季節柄、ボローニャより南のローマであっても空は確実に冬色で、快晴の時には果てしなく明るい空も、曇りの日は限りなく憂鬱で暗かった。私は老女の家の一部屋を借りていた。相棒の友人の家の居候生活をやめるには、それしか方法がなかったからだ。ボローニャを飛び出す頃は簡単に見つかると思っていた部屋探しだったが、現実はそんなに簡単ではなかった。新聞に載せられた部屋を貸します広告を読んでは電話を掛けて、断られての繰り返し。だからやっと了解を得たこの老女の部屋に文句を言う筋合いなどなかった。ただ、留守の間に老女が部屋に入って物色するのが嫌だったし、時には物が紛失して困った。節約の為に給湯器を昼間に一度しかつけないから、夜帰ってくる私はシャワーが出来ない。共同で使えるはずのキッチンも制限があって、不満は積もるばかりだった。でも、安眠するベッドと暖かい部屋があった。それ以上望むのは罪だと思ったのは、私が相棒をボローニャに残してローマに飛び出して来た後ろ冷たさだっただろう。そんな私を相棒は手放しに応援してくれたから、望んでばかりいてはいけないと、私は自分を制限していた時期だった。自由と責任。私はいつもそれを忘れていなかったけれど、ローマに暮らすことになったこの時期の私は、確実に自由と権利ばかりが勝っていて、責任や義務は放棄していた。それが私の負い目で、だから安眠できるベッドと暖かい部屋以上望んではいけないと思っていた。私の部屋は小さくて、そして天井がとてつもなく高かった。その天井にあわせるように長細い両開きの大窓があって、これが私には救いだった。窓から見えるのは公園で、冬でも手入れがされているそれは眺めていると心が和んだ。この辺りはその昔は裕福な人達が住まいを構えていたらしく、公園の周りのどの建物を見てもがっしりとした構えで美しかった。そうしたことを大家さんである老女は誇りにしていて、暇になると私を呼びつけてそんな話を聞かせた。とはいえ、私のイタリア語はそれほど上級ではなかったから、話の半分ほどしか理解できなかったし、老女にしても、あなたには理解できないかもしれないけれど、と言って話を閉じたものだ。兎に角ここに部屋を借りていた一か月間。休みの日になるとどう言う訳か空が暗かった。外の空気は切るように冷たかったけれど、部屋の中に居たら病気になってしまいそうで、行く当てもなく外に出たものだ。職場の近くの切り売りピッツァ屋さんに足が向くのは、そこに行けば見慣れた顔があるからだった。何が美味しいかも知っていたし、店に入っていくと店主が機嫌よく迎えてくれるのが嬉しくて、仕事が休みだというのに職場の近くへ行ってしまった。今思えばそんな自分が不憫でもあるが、しかし良い選択だったと思う。おかげで私は誰かと楽しく会話をして、寂しさを紛らわすことが出来たから。そうして2月最後の休みの日にこの部屋を出た。素晴らしい快晴だった、いつも休みの日は雨でも降りだしそうな暗い空だったのに。それは春へと移り変わる時期だったからかもしれない。でも、空までもが自分を応援してくれているような気分になって、勇気づけられたものだった。冬は必ず終わって春になる。嫌なことも必ず終わってよい状況になる。海の向こうに暮らす友人が手紙に書いてくれたように、私のローマの生活は徐々に明るい方に向かっていくような気がした。あの暗い部屋で考えたことは今でも覚えている。暗い時期だったが、それは私には必要なことだったのかもしれないと今は思う。無駄なことなどひとつもありはしない。どんな経験からも学ぶことがあるものだ。母はいつもそう言っていたけれど、全くその通りだと思う。あの時期の私があるから今の自分があるのだろう。そう思えばどんなことも愛おしい。そんなことを思いだしたのは、この暗い空だけのせい。でも、何事もが順調にいく生活に慣れ過ぎていた私には、必要だったことだ。

ところでクリスマス前夜に体調を崩した。多分、休暇前に無理をし過ぎたせいだ。すぐに良くなるさと甘く見て、もう3日も経つのに治らない。旧市街を散歩するなんて夢のまた夢。今のうちにしっかり治して、元気に新年を迎えることが出来ればそれでいい。ポジティブにいこう。




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よく歩いた道

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随分前に枝をバッサリ切られて直立不動していた2本の樹。背丈が高い分だけ幹だけになったそれらの存在は、奇妙としか言いようがなかったけれど、いつの間にか新芽を出して天辺だけは緑でふさふさと豊かになった。背高のっぽ達が緑の帽子を被っている、と言ったらちょうどいい。僕たちは元気だから、と周囲に知らせているように見えた。
このところ大変忙しい。忙しい生活をとうの昔に止めたはずの私だったから、ベッドに潜り込むと直ぐに眠りに落ちる。何年か前に眠れなかったのが嘘のようだ。どんな物音にも目が覚めない、身動き一つしない私に、相棒は毎晩心配するのだそうだ。息をしているのだろうか。そうして呼吸をしていることを確かめると、やっと安心して自分も眠りに就けるらしい。

ボローニャの小路を歩きながら思い出したのは、私がまだ20代初めの頃のことで、小さな広告デザイン会社にいた頃のことだ。新入りの私はあちらこちらへ行かされて、様々な人に会いながら様々なことを学んでいたが、其の中にひとつだけ仕事らしい仕事があった。ある会社の毎月発行の小冊子を任されたのだ。それで毎月、月に何度か、客先に足を運んで打ち合わせをしたり、訂正をしたりで、緊張の連続ではあったけれど、楽しいことでもあった。客先の会社は表参道と明治通りの交差点から直ぐ傍のグリーンファンタジアと言う名の建物に入っていた。私が自分が所属する事務所からどんな風にして其処に通っていたかは、いくら考えても思い出せない。多分、地下鉄を乗り継いで行ったに違いない。若くてまだ学生気分が抜けていなかった私が興奮するには、その建物に足を踏み込むだけで十分だった。この辺りはよく知っていたけれど、でも、まさかいつか自分が仕事でこんな場所に来るとは思っていなかった。愉快としか言いようがなかった。大通りに面したその建物の前はそれまでにも幾度となく歩いた。週末に、学校帰りに友人たちと、それともひとりでぶらぶらと。60年代。表参道のセントラルアパートと同時期くらいに建てられた。その頃には名の知れた人々しか入居できなかったに違いない此の建物の前を、今はどんな人達が中に居るのだろうなどと想像しながら通り過ぎた。その建物に初めて立ち寄ったのは、まだ学生の頃だった。大好きな千疋屋が入っていたからだ。当時の千疋屋の存在は美しい洋菓子を置く店に比べたら少々時代がかっていたから、そんな店を好む私は同年齢の友人たちから揶揄われたけれど、何と言われようが私は千疋屋が好きだった。ところで、千疋屋、千疋屋と簡単にうけれど、結構奥が深い。創業して既に100年以上経っている筈だ。初めは日本橋千疋屋が生まれ、その後、京橋千疋屋、銀座千疋屋がのれん分けするような形で生まれたと聞いている。それを教えてくれたのは母だ。母は千疋屋が大好きだったから、そんな話を子供にするのも好きだったようだ。家族で銀座に行くと必ず千疋屋へ行った。他の選択は無い、とでも言うように。そもそも母はそう言う人で、好きになると其処にばかり足を運ぶタイプの人だ。その点から見ると、私は母によく似ていると言うことになるのだろう。学生の頃に立ち寄った千疋屋。周囲の客の洗練された姿を眺めながら、此処に足を踏み入れても良かったのだろうかと思ったことを覚えている。皆大人びていた。何か特別な能力を持った人達が、この華やかな街を作り出すのに加担した人達が、あちらにもこちらにも居るような気がしてならなかった。自分の能力を生かして、仕事をする人々。もっと上へ、と向上心に満ちた人々。そう言う人達が眩しくて眩しくてならなかった時代だった。学生時代を締めくくって仕事を始めたばかりの私に飛び込んできた小冊子の仕事は、私を不安がらせながら興奮させた。手あたり次第頑張った私のとても懐かしい時代のひとつだ。そしてこの建物のなかですれ違う人達。イタリアならば見知らぬ人とも挨拶を交わすところだが、ちらりと眺めながら無言で通過していく。私はどんな風に見えただろう。やせっぽちで髪の短い、風のような若者といったところか。何しろ私はふわふわしていたから。私からは見る人見る人が、才能を持つ、何かクリエイティブな仕事についているように見えてならなかったけれど。

随分昔のことを思い出したものだ。3年ほど前に帰省した時、用があってその界隈を歩いたが、グリーンファンタジアはまだ存在していた。しかし、驚いたことに、その少し先にあるセントラルアパートの姿が無くなっていた。時代の象徴とも言われていたあの建物が。多くの人達がその存在を楽しんでいたのに。時代の流れとはこういうことなのか。あの建物に愛着を持っていた人達は沢山いると思うけど。変化を続けるこの街に私は置いてきぼりにされたような気分になったけれど、いいや、違う。私もまた変化を続けていているのだ。自分の居場所が無くなったのではない。私は、自分らしく居られる場所を求めて、常に歩いているのだ。




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好きな色

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街を歩いていて好きな色を見つけると、胸がどきどきする。


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感謝の日

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急に寒くなった。明日はもっと寒くなるらしい。寒いと言っても昼間は13度くらいになるそうだから、大騒ぎするほどのことではない。しかしそろそろ冬用のコートにしても良いだろう。帰り道の寒さときたらひと際だから。

昨夕の仕事帰りに旧市街に立ち寄った。いつもの塔の下の停留所を乗り過ごしてVia Ugo Bassiで降りたのはガンベリーニに用があったからだった。ガンベリーニは私の気に入りの菓子店で、土曜日の散歩の途中によく立ち寄る。それからどこかに御呼ばれした時の手土産を求めるときにも。今日の用事はマロングラッセだった。つまり知人の家の夕食に呼ばれたのでマロングラッセを持っていこうと思ったのだ。他の家に行くならばワインの手土産も宜しいが、この知人ときたら地下倉庫に驚くほど沢山の素晴らしいワインコレクションを隠しているから、ワインの手土産は無用なのだ。話によると今夜はブルネッロを引っ張り出すらしく、それに合わせて知人の母親が野兎の赤ワイン煮とポレンタを用意してくれるらしかった。そう言う訳で食事の最後に甘いものを、とマロングラッセを購入したかったのである。ところが。売り切れだった。ここのマロングラッセは美味しいと、宣伝しすぎてしまったのを後悔した。今日はマロングラッセばかりが売れてね、といつもの巻き毛の女の子がすまなそうに言った。暫く考えて、チョコレートを金色の紙皿に並べてもらうことにした。彼女が色んな種類を綺麗に並べてくれたがマロングラッセほどの好感度はない。少しがっかりしているのを読み取った彼女は奥でごそごそとそれを包みだした。何やら時間がかかっているが上手く包めなくて困っているのだろうか。と思っていたところ、ようやく彼女はガンベリーニの白い紙の手提げ袋に入れたそれを持ってきた。ほら、こんな風にしたのよ、素敵に見えるでしょう? 彼女はそう言って紙袋の中を見せてくれた。小さなチョコレートが行儀よく並んだ金色の四角い紙皿を透明のセロファンで丁寧に包んで、幅広の白いサテン調のリボンがうまい具合に掛けられていた。シンプルで上品で、マロングラッセでないことを残念がった私の気持ちを一気に引き上げてくれた。上出来よ! と喜ぶ私に人差し指を立てながら彼女が言った。こんな特別な包装は今回だけよ! と悪戯半分に笑いながら。うんうんと私は幾度も頷いて、素敵な小さな手土産を作り上げてくれた彼女に小さなウィンクを贈った。ああ、それにしてもガンベリーニはやはり素敵。私の気に入りの菓子店だ。

その晩の食事は期待通りで野兎の赤ワイン煮は甘くてとろけるようだった。年上ばかりが集まるこの食事会。ボローニャの方言で話すことが多いので話の3分の1は分からなかったが、なんだか愉快な気分になった。皆に一日早く誕生日を祝って貰った。赤ワインが満たされたグラスを幾度も持ち上げて乾杯した。秘蔵っ子のブルネッロはやはり美味しく、しかし私は2006年のPinot Neroが口に合い、ブルネッロ泣かせと皆に笑われた。せっかくブルネッロを用意したのに、と。

今日という日を感謝したい。健康で今日を迎えられたことを嬉しく思う。私を見守ってくれる家族に感謝。私を取り囲む諸々の人にも感謝。誕生日というよりは感謝の日といっても良いのかもしれない。そんな素敵な一日。


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特等席

もう一週間も前のことだ。薄日が差したり曇ったりの一向に天気が安定しない、ある午後のことだ。piazza maggiore に面したテーブル席に若い男女が肩を寄せて座っていた。ここは特等席だ、そんなことを思いながらこっそり写真を撮った。特等席。何て良い響きなのだろう、そんなことを思いながらまた歩き始めた。私は誰と約束があるでもなく、また取り立てて用事があるでもなく旧市街を歩いていた。こういう時間は大切。出来る限りこういう時間を確保するようにしている。誰に歩調を合わせるでもなく、誰かに気兼ねしながら行き先を決めるでもなく。多分、私は若い頃からそうすることが好きだったのだ。勿論友人との散策も、友人との談話も、それは私には大切な時間であるけれど、自分ひとりの時間があるからこそ友人との時間を楽しく過ごせるのだ、と私なりに分析する。人間には色んなタイプがあるらしい。誰かと一緒でないと寂しいとか詰まらないとか感じる人も居て、だから私のように一人で時間を過ごす人を寂しい人と呼ぶ。面白いことに当の本人は全く寂しくは無く、それどころか楽しんでいるのだから考え方とは全く個人差のあるものである。時々、思い出す。私がアメリカに暮らし始めて半年が経った頃のことだ。私には一握りの友人と、その倍数くらいの単なる知人が居るだけだった。複雑な人間関係は無く、とてもシンプルで明快だったから人間関係で悩むことは滅多に無かった。勉強と仕事、彼らとの付き合いと自分の時間、それだけが私の生活だった。シンプルな分だけ充実した生活だった。自分が行動を起こした分だけ一歩先に進むことができた。それを咎める人も居なかった。そういう時代だったのかもしれないし、アメリカがそういう文化なのかもしれなかった。自分が置かれている状況の違いがあるにしても。多分、私が体の隅っこで長いこと気が付かない振りをしながらも苦しんでいたのは、そういうことなのかもしれない。と、街をふらふらと歩いている途中に突然答えがポロリと零れて落ちた。過ぎたことと諦めようか。時代が違うと諦めようか。置かれている状況が違うから、と自分を納得させようか。確かにあの頃のようにはいかないだろう。けれども気が付いてしまったのだから、もう悩まない。これから始めよう。自分の人生だもの。自分の人生の特等席を確保しなくては。そうだ、人生の特等席だ。答えが出て、気持ちがやっと晴れた。

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