フランカと私

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窓の外の菩提樹の葉が随分と少なくなった。数日前の連日の雨で落下してしまったらしい。地面を眺めると、異なるトーンの黄色い絨毯。菩提樹の葉が作り上げた美しい芸術。それにしても冷える。骨まで染み入るような冷えだ。これがボローニャの秋。そう言ったのは友人のフランカで、彼女は口癖のようにボローニャの秋を美しいと言っていた。

80年代の終わり、若く鉄砲玉みたいだったフランカは、ボローニャを飛び出してアメリカに来た。ところが困ったことが起こり、食事会で丁度居合わせた相棒が同じ故郷のよしみで色々世話をした、それがフランカと相棒の交流の始まりだった。地元で名の知れたイタリア料理店の店主の子供を住み込みで世話する仕事を相棒が紹介したことで、彼女は住む場所と収入を得た。鉄砲玉のような娘がアメリカで道を外れることもなくボローニャに戻ってきたことを彼女の両親は喜び、その一件で相棒は彼女の両親から大変感謝されたそうだ。私とフランカが初めて会ったのは、彼女が旅行と称して夫婦でアメリカに来た時だった。イタリア人ばかりが集まるカジュアルなパーティで、主催者はフランカの親友だった。突然イタリア人ばかりの中に放り込まれた私は目を白黒させるばかりだったが、初めて会うフランカは私にとても親切で、あなたのような女の子、などと私に言ったけれど、彼女の方がずっと若くて大笑いしたのを覚えている。深い緑色の瞳のフランカ。彫りが深くて、とても印象的だった。
再会したのは95年、ボローニャ郊外にできた新しいショッピングモールの中だった。遠くの方から大きな声で私達のことを呼ぶ誰かに目を凝らしてみたら、フランカと彼女の夫と小さな女の子だった。私達がボローニャに住むようになって数か月経っていて、なのに連絡をくれなかったと散々なじられたが、再会できたこと、これからいつでも会えることをフランカは両手放しで喜んだ。それから私は彼女の子供たちの相手をするようになった。時々。彼女と夫が一緒に出掛けたい時や、急用で困った時だけ。私にはまだ定職がなかったし、友達と呼べる人もいなかった。時間を持て余していていた私だから、丁度いい外出の口実みたいなものだった。フランカには女の子と小さな男の子がいた。ふたりとも私が行くと喜んでくれたから、私も嬉しかった。そうしているうちに私はフランカと過ごす時間が増えた。例えば何かを一緒にしようとか、夕食に相棒と来ないかとか、海へ行こうとか、山へ行こうとか。彼女は楽しいことが大好きで、楽しいことをするためには時間もエネルギーも惜しまなかった。イタリアに来てから言葉が達者ではないがために人と付き合うのが億劫になっていた私は、正直言って彼女の誘いが少々面倒だったけれど、しかし同時に有難くもあり、いつも腕を引っ張られるような形で参加した。思えば、様々なことがあって嫌気がさしていたあの頃の私が、内に籠らずに済んだのは、恐らくフランカのおかげだったのだろう。そう思うと、彼女と知り合うことが出来たのは、幸運中の幸運だったといえよう。

旧市街の7つの教会群近くにあるカフェ。以前は骨董品と衣服を置く店だったが、いつの間にかカフェになった。この辺りには他にもカフェはあるけれど、このカフェはいい。この感じの良さは何だろう。この夏ヴィエンナで休暇を取っていた時、ロンドンに暮らすようになって10年ほど経つフランカが、7つの教会群近くのカフェで会わないかとメッセージを送ってきたが、彼女が言っていたカフェとは、此処に違いない。壁の色といい雰囲気といい、彼女の好みそうなものだから。彼女と私の好みは、案外似ているのだから。




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金髪のショートカット

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今朝、バスルームで洗濯をした。手や顔を洗うシンクの他にもうひとつ洗濯専用のシンクがある。それは大きくて深いシンクで、手洗い表示の衣類や、セーター、パンツ類を洗うためのものである。何しろそうした目的なので、蛇口も普通のものとは少し違う。つまり水の出がとても良い。ちょっとレバーを動かしただけでザブザブ水が流れ出る。ダムやナイアガラの滝のような印象、と言ったらよいかもしれない。兎に角私は手洗い洗濯をしていたのだが、ふとした拍子に別のことが頭の中を横切り、うっかりしてしまった。蛇口のすぐ下に左手があったのに、レバーを動かしてしまったのだ。その拍子に大量の水が蛇口から流れ出て、水は私の左手に激しく当たると、わっと言う感じで水が辺りに飛び散った。壁から床から、私の顔やシャツにも。そして足元を見ると強かに濡れた猫が、恨めしそうに私を見上げていた。いつもの私なら、こうした失敗はあまりない。たまに失敗しようならば自分の過失を恨むかのように深いため息をつき、己への怒りに文句を言いながら後始末をするのであるが、どうしたことだろう、口から笑いがついて出て、笑い声が止まらなくなった。あはははは、と笑うと、何を笑うかと言う顔で猫がぷいっと向こうに行ってしまった。だって、笑うしかない。私もバスルームもずぶ濡れなのだから。ありえない。私がこんなことをするなんてありえない。そう思いながらも、でも、たまにはこんなのもいいような気がした。失敗したら萎縮したり自分を責めたりするよりは、こんな風に笑ってしまう方がいい。うん、そうだ。これからもこの調子で行こう。
床を拭きながら、考えた。あの時頭の中を横切ったのは何だっただろうか。と、思いだした。ブリジットのことだ。朝食の後にビタミン剤を摂ろうと思ったら、もう無かった。どうやら相棒が最後のひとつを飲み込んでしまったらしかった。仕方ない、月曜日の夕方に、旧市街の自然薬局に立ち寄ることにしよう。毎日飲まなくたって、別に何が悪いでもない。そしてバスルームで洗濯を始めたという訳だった。それで洗濯をしながら、でも、ブリジットだったらば、大騒ぎだったに違いない、と思ったのだ。

ブリジットはアメリカで相棒とフラットを共有していたイタリア人女性だ。フォルテ・デル・マルミ出身の彼女は金髪のショートカットで、昔はフォトモデルになりたかったと言うだけあってスタイルも抜群。その辺りを歩けば、誰もが振り向きたくなるような美人だった。実際沢山のファンが居て、しばしば彼女宛に電話がかかってきたものだ。相棒とブリジットのフラットに私が加わって3人暮らしになった。彼女は神経質で大変そうな人だった。私は声のトーンが低い女性が好みだが、彼女はその反対だった。甲高くて声が大きかった。でも今思えば、彼女はそんな風にして自己アピールをしていたのかもしれない。何処に行っても主役でいたかった彼女だから。兎に角彼女は美しさを保つために努力を惜しまなかった。彼女は昼はカレッジ、夜はレストランでアルバイト、その合間に勉強をして友人たちと会い、そしてジムに通った。あの素晴らしいスタイルは、そうした努力で保たれているものだった。若い頃は何もしなくとも美しい。でもね、何時までも続くわけじゃない。だから努力をするのよ。とは、彼女の言葉だ。彼女は私の少し上と言っていたが、相棒に言わせるともっと上らしい。若く居たかった彼女はどうやら5,6歳若く周囲に言っていたようだ。それからサプリメントを飲んでいた。その種類は夥しく、彼女の棚には幾種類ものサプリメントの入れ物が並んでいて、それらを何時摂取するかは彼女のあの美しい金髪のショートカットの中に、ちゃんと記憶されているとのことだった。たまに、それらのひとつが底をつくと、大事件と言わんばかりに家を飛び出した。車で、マリーナ地区の自然食品店に買いに行くためだ。彼女の細い体に似合わぬ、がたいの大きい四輪駆動の車。これも近所の人達の注目の的だったが、注目されるのが大好きな彼女だったから、この車を選んだのは大成功だったと言えよう。そんな彼女が言うには、外側が美しいだけじゃいけない、だから勉強をすることを怠ってはいけない、とのことだった。彼女はそのためにアルバイトに行く前と後に、必ず勉強をするのを忘れなかった。こんなに努力する人はあまり見たことがなかったから、自己中心で目立ちたがり屋で甲高い大きな声とはいえ、私はブリジットが大好きだった。それに優しかった。それは彼女流の優しさで、すぐには見ることが出来ないのだけれど。ある日、彼女宛に電話があった。彼女の親友のマイケルだった。見方によっては彼もまた美しい人だった。彼らは腐れ縁らしく、話によれば恋人だった時期もある、でも今は恋心はない、とのことだった。彼女は彼に文句を言っていた。随分待たされた挙句に、遂に来なかったことを。マイケルは何か理由を話しているらしく、彼女はじっと耳を傾けていた。と、彼女が急に甲高い声で笑いだした。あはははは。笑い声は何時までも続いた。ごめんごめん、可笑しいから笑ったんじゃない。こんな不運は滅多にあることじゃない。どうしてあなたにはいつもこんな不運ばかりが起こるの。可愛そうで、可愛そうで、笑ってでもいなければ、涙が零れて止まらなくなってしまう。そんな声が聞こえたので、えっ? と振り向いてみたら、廊下に座っているブリジットは顔中を涙で濡らしながら、すっかりぺしゃんこになっていた。それであなたの車、燃えちゃって、これからどうするの? という言葉を最後に彼女は電話の受話器を置いた。ブリジットはそんな風に色んな人に囲まれながら、色んな人に愛されながら、内側と外側の美しさの努力に忙しく、なのにある日イタリアから遊びに来た母親と一緒に、故郷のフォルテ・デル・マルミの美しい海で夏を楽しんでくると明るく言ってフラットを出たきり帰ってこなかった。急病で帰らぬ人となったからだ。だから私の中のブリジットは、あれから歳をひとつも取らず、若々しく美しいままだ。彼女が望んでいた通り、ずっと美しいまま。それでいい。あれから23年も経つのに、未だにビタミン剤の底が付くと彼女を思いだす。美しいブリジット。優しいブリジット。ずっと忘れない。

遠い雷が聞こえる、俄かに冷たい風。9月になったのだ、と安堵の吐息をつく土曜日の午後。




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自分を大切にしてくれる人

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じきに雨が降るのだろう、と思わせるような風。このところの快晴ですっかり枯れてしまった木の葉が、風にもぎ取られては舞い飛ぶ。うちのテラスの植物は、毎晩水をたっぷりくべているから枯れる様子はない。その中で春の終わりに枯れてしまったものがある。私の大切な金木犀。おそらく病気にかかったのだろう。それとも鉢が小さすぎて根元が窮屈だったのかもしれない。可愛そうなことをしてしまった。少し涼しくなったらば植木屋さんに見て貰おう。復活してくれればよいけれど。

昨晩夢を見た。古い夢だ。夢に出てきたのは、その昔、アメリカで働いていた頃に知り合った女性。私などよりずっと前にその職場に入った人。先輩と言う訳だけど、そればかりでなく人生の先輩のような存在でもあった。当時の私は20代。そして彼女は60歳を過ぎたかどうかで母親ほどの年齢であった。職場での彼女は、煙たがられる存在だった。私達の殆どが20代30代の初めだったからだ。価値観の違いや感覚の違いのせいだったのだろう。私は何も知らない新入りだったから、そうした偏見を持たぬようにしていた。そんなこともあって、彼女は私を可愛がってくれた。ある日、彼女が私にこんな話を聞かせてくれた。彼女は東京の、伊勢丹本店で働いていた。アメリカ製の美しい、女性向け下着を担当していたそうだ。戦後の日本にはこうしたアメリカの美しいものが沢山流れ込んで、彼女は是非ともこうしたものに関わりたいと望んでいたから、幸運だと思ったそうだ。彼女は販売にとどまらず、商品選びなどにも関わっていたらしい。どんなものが日本人女性に好まれるかとか、どんなものが日本人女性の心を射止めるとか。とても遣り甲斐を感じていたと言った。当時の彼女は何歳だったのか、兎に角、結婚をしていても不思議ではない年頃で、いくつものお見合い話があったらしい。しかし、どれもこれも断っていた。今の仕事が好きだからと。話はどれも親戚の叔父や叔母からくるもので、断り続ける姪っ子に、これならどうだ、文句はあるまい、と持ってきた話が今の夫との見合い話だった。見せられた見合い写真は、堂々たる大男、がっちりとした肩、ちょっと洒落たスーツを着ていて、彼女の周りにはいないタイプの日本人だったそうだ。そして、見栄えはするが田舎臭いと思ったらしい。日系アメリカ人だった。その人は数日間だけ日本にいるが、すぐにアメリカに帰ってしまう。会うだけ会ってごらんよ。そう言われて会ってみたところ、田舎臭さ、野暮ったさは影を潜め、素朴で優しそうだと思った。この人なら自分を大切にしてくれるだろう。そう思って、結婚することを決めたのよ、と彼女は私に言った。見合い結婚なんて想像もつかぬ私は、それでアメリカに来てしまった彼女に大変驚いたが、驚く私に彼女はこんな話をしてくれた。アメリカに来たのはいいけれど、言葉も分からない、友達もいない、仕事にだって就けない。どうやって生活したらいいのかと、今更ながら慌てる彼女に、夫はとても寛大だった。僕が働く。君は自分のしたいことを見つけるといい。君がアメリカに来てくれた、それだけで充分なんだ。その言葉から夫が彼女に一目惚れだったことを知ったそうだ。サンフランシスコ近郊の町の小さな一軒家だったそうだ。彼女は夫のところにきて良かったと思ったらしい。そのうち彼女は言葉を習得して、仕事を得た。5つ星ホテルの中にあった、有名な宝石店だったという。そこで彼女は持ち前の気転の良さや明るさ、接客業の経験を活用してナンバーワンになったらしい。周囲の人達は入ってきたばかりの東洋人がと嫉妬や妬みで大変だったが、兎に角素晴らしい業績を上げて、それから彼女はもう一度仕事をして、自分の足で立ち上がったことが嬉しかったと、当時のことを思いだしながら語った。そんな彼女に夫が、君が頑張ったことに贈り物をしたいと言ったらしい。それで彼女は密かに憧れていたGucci の小さな鞄が欲しいのだと告白した。これは彼女がもう何年も前からずっと憧れていたもの。街の中心にある店のウィンドウの前を通るたびに、いつかきっと、と憧れてやまなかった小さな鞄だった。但し、大変高価なものだった。それで夫にはそう告白しておきながらも、大変高価なものなのだけどと遠慮がちに付け加えた。夫はGucci だって? と、な素っ頓狂な声を出したが、兎に角そのほしい鞄を見に、ダウンタウンの店に行くことになった。彼女がこれなのだと、紅潮しながら指さすと夫は目を丸くして黙って勘定を済ませたらしい。やはり高くて驚いたのだろうと思った彼女は店を出るなり、ごめんなさい、こんなに高価なものを欲しがって、と謝ると、こんな鞄ひとつで幸せならばお安い御用だ、君が幸せならば、ぼくも幸せなんだから、と言ったそうだ。だから彼女はそれ以来、欲しい物はなくなってしまったのだそうだ。彼女には夫が居る。優しくて心の広い夫。勿論、家を改装したり新築したくはあっても、夫が建ててくれたその家に文句は言うまい、と思った。夫に何か言えないのではなくて、すべてを受け入れて与えてくれる夫に、これ以上望むことなどないと思ったのだそうだ。だからね、あなた、結婚するときは、自分を大切にしてくれる人、それが一番大切なのよ。容姿がいいとか、経済的に豊かだとか。スポーツカーに乗っているとか。そういう物は二の次なのよ。彼女はそう言って長い話を閉じた。私が相棒と結婚することを決めたと報告した時、彼女は私に耳打ちした。彼はあなたを大切にしてくれる人なの? うん、そうだと思う。短い内緒話。彼女は私の返事に満足すると、それは良かった、と言ってくれた。
夢から覚めて思った。近年私は若い人たちから、恋愛の相談事をされたりするけれど、そういえば、あの時彼女が言ったあの言葉を使っているなあ、と。自分を大切にしてくれる人、それが一番大切なのよ、と。

雨は降らない。あれほど気持ちの良い風が吹いていたというのに。雨の予報を鵜呑みにした私が馬鹿だった。仕方ない。今夜もテラスの植物に水遣りするとしよう。




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気さくなひと

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ヴィエンナでは本当によく歩く。勿論、昔はもっと歩いたけれど、あの若さがあれば歩けて当たり前だったのかもしれないと思う。私は20代だったし、私には溢れんばかりの好奇心があって、好きで好きで住み着いた街のことをすべて知りたいと思っていたから。友人が時々、私のことを揶揄った。知らない道などないだろう、そのうち地図でも描くのではないか、と。悪い案ではないと思った。私が見たものを地図に書き込んだ、自己流地図を描いてみてもよいと思った。あの頃の健脚と留まることのない好奇心。今は同じようにはいかないけれど、けれども失ったわけではない。私はやはり歩くのが好きだし、そして好奇心も失っていない。昔と比べたら、そのスタイルが異なっているだけだ。だから長時間歩くことが出来なくてもがっかりすることはない。溢れるような好奇心はないけれど、自分が何を好きかを知っている。それでいいじゃないかと思う。昔の自分と比べたり、周囲の人と比べる必要などないのだと気が付いたのは、私にしては実に幸運だったと思う。今の自分を好きになることが出来たのは、実につい最近のことだ。

暑いボローニャから脱出するのだと意気込んでいったが、ヴィエンナは暑かった。日影を選んで歩く人々。そのうちのひとりが私だった。太陽を思い切り浴びたい欲望は、今年の夏に限ってはない。できれば少しでも直射日光を浴びることなく、涼しい日影に居ながら夏を堪能したい。それは簡単そうでなかなか難しい。太陽が頭のてっぺんから照らす昼間は、探しても探しても日影がなく、小さな日影が存在するなら、既に先客が居たりして。そんな時、見つけた。パッサージュだった。パリにはこのパッサージュなるものが幾つも存在して、ああ、ここにもあった、などと言って中に吸い込まれていったものだが、私が知るヴィエンナのパッサージュは、片手に満たぬほどしかない。案外、ヴィエンナに暮らす人に訊いてみれば、もっとたくさん存在するに違いない。そもそもパッサージュとは何かと言えば、建物の中を通り抜ける、通路みたいなものである。ただ、その通路の左右には店が連なっているから、商業空間といった存在なのである。それで私が入り込んだパッサージュだが、これで3度目の訪問だ。とはいえ、いつも偶然たどり着く。これを目的にして訪れているわけではないから、まさに迷い込むという言い方が似合っている。パッサージュにはいくつもの骨董品店があって、そのうちのひとつのガラスの棚に大変興味深いものが置いてあった。単品買いができるのか、それともセットでしか購入できないのか、それによっては値段交渉も、と関心が募ったが、あいにく夏季休暇だった。よく見れば、並んでいる店の半分ほどが夏季休暇中だった。あらあら、残念。などと独り言を言いながら店の前を離れ、しかし強い日差しから逃れてパッサージュを散策できるのは有難いことだった。パッサージュの構造は多少ながら複雑で、興味深かった。そのうち私は明るい光が差し込む中庭に面した、ギャラリーと呼ぶに相応しい、美術品の店に辿り着いた。全面ガラスの向こう側には、Biliardino(ビリヤルディーノ/手動テーブルサッカー)が置かれていた。見たこともない、古い、木製の、よく磨き込まれたもので、美術品として置かれていることに何の異論もない、美しいものだった。私の知っている其れはバールや海辺の遊び道具が置かれているような場所に存在する、見るからに安っぽい、プラスティックとステンレスで作られたもので、美術品なんて言葉が似合わぬ代物だ。そもそもこの遊びは激しく作動するのだから、安物くらいで丁度良いのかもしれないのだ。そういう観点から言えば、ガラス越しに見える美しい其れは、芸術品としてみて楽しむものなのだろう。それとも、かなり古いもので、例えば戦争を潜り抜けたような古いもので、骨董品の類に属したものなのかもしれない。それにしても美しいと感嘆していたら、隣に観客がもう一人加わった。見てみると肩にやっとつくほどの金髪の女性だった。世代は私ほどだろうか、シンプルなシャツにコットンのスリムなパンツ。そして素足にモカシンシューズを履いていた。手には紐。紐を目で辿ってみたら、小型犬だった。素敵な感じの彼女からは想像できなかった、ぼさぼさ頭の・・・何犬だろうか。鳴きもせず、舌を垂らして、激しく呼吸をしていた。あらー、喉が渇いているのかしら。私が話しかけると、彼女は違うの違うのと言わんばかりに首を横に振って、年なのよ、すぐに疲れてしまうのよ、と流暢な英語で言った。そうしているうちに、店の中に作業員がふたり現れ、店の偉そうな女性にあれこれ指示されたかと思うと、作業員たちが目の前に置かれたビリヤルディーノを大型セロハンでぐるぐると包み込み、車のついた台に乗せてパッサージュの外へと運び出した。隣に立っていた彼女が、売れたのかしら、と誰に訊くでもなく言うので、きっと売れたんでしょう、と私は答えたが、答えた後にあんた高そうなものが売れるのかしらと思った。聞けば隣に立っている彼女はこの近所に住んでいて、このパッサージュは彼女と犬の散歩道とのことであった。あのビリアルディーノの美しさと値段がこの辺りでは話題の的であったことを彼女はひとしきり私に話した。ヴィエンナには驚くほど豊かな人たちがいるのだ、きっとそういう人たちが購入したに違いない、と彼女は言うと、さようなら、と手をひらひらさせながら挨拶をすると散歩の続きを始めた。その彼女の腕には誰もがそうと分かる大振りの高級時計が着装されていて、彼女もまたヴィエンナの裕福な人のひとりに違いないと後姿を眺めながら思った。豊かだけれど、見知らぬ外国人とも気さくに話す女性。それからぼさぼさ頭の犬。悪くないと思った。

ヴィエンナは確かに美術品、骨董品を愛する人が多いようだ。ギャラリーと骨董品店の多さが、それを無言で語っている。それからもう一つ言えば、ヴィエンナの人達は気さくだ。私がヴィエンナを好きな理由のひとつなのかもしれない。




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アマンダの不在

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昼過ぎに雨が降り始めた。ザーッと降るかと思えばそうでもない。私が暮らすあたりから少し南下した場所にある丘の町ピアノーロでは、ちょっと予定外の強い雨と雹が降ったらしい。だから涼しくなると誰もが期待したが、単に湿度を運んでくるだけの、厄介な雨だったとのことである。それにしても一体いつまで雷が鳴り響くのだろう。もう何時間も、弱い、遠い雷が鳴り響いている。それが実に夏らしいような気もするのは気のせいだろうか。と思っていたら、強い風が吹き出した。そして雨。遠くに居た雷が、いつの間にか頭上辺りにやってきたから、これは子供騙しの雨ではなさそうだ。やっと一息つけそうな予感の雨。確実に恵みの雨となるだろう。

1992年の8月、私はアメリカで友人たちと3人暮らしをしていた。一時は日本に帰ってしまおうと思って部屋を貸す張り紙までしたのに、そして幾人かが電話で問い合わせをしてきたのに、ちょっと思うとことがあって日本に帰らなかったのは、私にとっては幸運だったに違いない。あの時帰っていたら、私は今、ここに居ない筈だから。8月になると同居人がひとり日本に帰省した。残されたのは私とハンガリー人の男性。しかし少しすると空いた部屋にアマンダがやってきた。アマンダと言うのは日本に帰省した同居人の友人でアマンダがこの家に出入りするようになってからは、私も仲良くしてもらい、いろんな面で影響を受けていた。空いた部屋にやってきた理由を、アマンダは自分のアパートメントを出たからだと言った。Bush St.に面して建つ、白くて歴史のある建物の上階にひとりで住んでいたが、家賃の大幅値上げか何かで大家さんと折り合いがつかなかったとのことだった。私は同居しているハンガリー人男性と気が合わなかったから、アマンダの登場は嬉しい以外のなんでもなかった。おばあちゃんに甘やかされて育った彼を、アマンダは容赦することはなく、彼はアマンダのことを居候のくせして威張っていると言って、アマンダが家に来て以来、留守にしがちになった。そうだ、アマンダは小気味いいほど思ったことをぽんぽん言う女性だった。そういうことで初めて会った時は多少ながら彼女を苦手だと思ったけれど、時間が経つと苦手と思っていたアマンダのことを軽快で感じが良いと思うようになり、そうしたら話は早く、彼女は私を見つけるたびに色んなことを話してくれて、私がへこんでいれば励ましてくれて、彼女の経験話なども惜しむことなく話してくれた。彼女は私より年下だったけれど、経験という面では、私より数倍多様な経験をしているようだった。そのほとんどは辛かったり苦しかったりの経験だったようだけれど、そんなことを経験したおかげで彼女は強くポジティブだった。辛いことを喜びに変える手品師のような人で、苦しいことは次の喜びへの栄養と変えてしまった。だから。だから私が好きでアメリカに暮らすようになったのに、物事がうまくいかずに落ち込んで後ろ向きになっていた頃、アマンダは私を放っておけなかったのだろう。あなたは大丈夫。これは次へのステップに必要なこと。だから次にやってくるのは喜びだから。乗り越えよう、ねえ、乗り越えようよ。アマンダは正確にいえば同居人の友人だったが、私の友人と呼びたいひとりだった。それで空いた部屋に来たアマンダは、同居人が留守の間はここに居て、次なる場所を探すのだとのことだった。そんな彼女は恋をしていて、何とかして気持ちを伝えようと思うのだが、彼の前に行くといつもの強くて軽快なアマンダは影を潜め、どうしても好きの一言が言えないのだというので私をひどく笑わせた。私はその反対で、好きの一言は案外あっけなく言うことが出来るが、他の場面ではどうしても強く出ることが出来ない。ああ、私達は全く反対の性格なのね、と言って大笑いしたものだ。結局彼女が気持ちを伝えることが出来たのは、彼が母国に帰ってしまうその日の空港でのことだった。もっと早く知りたかったと彼に言われて、アマンダは女々しかったことを後悔に後悔した。彼女は20代半ばのあの年齢にしては苦労人だったけれど、箱を開けてみれば複雑とはいえ、どこかの裕福な家のお嬢さんだった。いつも不在の母親が所有しているという、坂の上の、街の人ならだれもが知っている大きな高級アパートメント。あなたが使えばいい、と母親は言ったけれど、彼女は反発してBush St.に部屋を借りた。私は知っている。彼女は母親の愛情を一心に受けたいと望んでいたのだ。子供の頃から。物やお金ではなくて。なのに母親は何時も居ない。アマンダはいつもひとりぼっちだと言いながら照れたのは、いつもの強いアマンダではなくて弱い部分を私に見せてしまったからかもしれない。
あれからアマンダは姿を消して、誰に彼女の消息を訊いても分からない。今はネットで簡単に、昔の友人や知人を探し当てることが出来るようになったのに、アマンダだけは見つからなかった。アマンダの不在。しかし、案外今もアメリカの、あの海と坂のある町の、何処かのアパートメントに住んでいるのかもしれない。元気でいればまた何時か何処かで会えるさ、と前向きに考えるしか私には術がない。前向き。これもアマンダが教えてくれたことだ。

ほっと一息。嵐のような雨が30分ほど降って、少し涼しくなった。テラスの植物も頭のてっぺんから雨を浴びて、満足そうである。これで今夜は水をくべる必要はないだろう。雨。久しぶりの雨だった。神様からの贈り物。恵みの雨だ。




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