メッセージが届いた

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ここ数日のボローニャの気候には閉口している。暖かくてコートを脱いで歩けるようになったかと思えば、気温が思うように上がらない。例えば昨日がそうだ。一日中曇り空で底冷えがした。夕方には冷たい風が吹いて、暖かいコートを着てこなかったことを後悔したものだ。数日前はジェラートを買い求める人の列ができていたが、それよりも温かいスープが欲しくなるような夕方だった。油断大敵、というのはこの季節のことだ。うっかりして風邪などひいたら大変。もう少し様子をみなくてはならないと思う。

昨晩、メッセージが届いた。送り主は古い知り合いで、私がローマに居たころ世話になった人である。もう21年も前のこと。知人といっても単なる知人ではない。言うなれば私が働いていた会社の上のポジションの人で、間接的な上司であって、古くからローマに暮らす彼は多くの人から慕われたり頼りにされたりする、私からすれば手の届かないような人だった。忘れられないことがある。何かの名前の綴りを電話口で言われたが、私にはさっぱり分からなかった。ゆっくり言ってくれたにも拘らず。アメリカでは、A apple, B boyなどと綴りを説明するけれど、イタリアではappleだのboyだの言わずに、地名を使って説明する。A ancona, B bologna, C comoといった具合に。当時の私はまだそれを知らず、知人がいきなり電話口で沢山の地名を言い出したことに目を白黒させるばかりだった。全然分からなかったことを白状したのは、それから何日も経ってからのことだ。分からなかったことをすぐに言えなかったのは、当時の私がイタリア語やイタリア文化を全然吸収できなかった劣等感からくるものだったのではないだろうか。私が分からなかったことを知人は怒らず、分からないといわなかったことにも怒らず、恥ずかしがるな、分からないことは恥ずかしいことではないと言ってくれた。ああ、この人は親切な人だ、と思った瞬間だった。ローマに居た頃の私は、誰からも良くして貰った覚えがある。そして、この知人もそのひとりだった。誰か大切な人の接待に、おまけか何かで連れて行って貰ったことがある。いつまでも明るい夏の夕方、ヴェネト通りのレストランのテラス席。冷たい白ワインを頂いたことばかり覚えているのは、そんな雰囲気が私の知っているボローニャにはないからだろう。あれはやはりちょっと素敵で、ちょっと華やかで、やはりローマならではのものなのだ。ローマの仕事を辞めてボローニャに戻った私を、その数年後フィレンツェの仕事に誘ってくれたのもこの知人だった。あまり接点がなく遠い存在と思っていたけれど、なんだかんだ言って、私はこの知人に感謝すべきことが沢山ある。イタリアに来たばかりの頃の私は、自分をツイていない人間と思っていたけれど、そんなことはない。気が付かなかっただけだ。私は様々な人に守られていたのだ。知人から届いたメッセージを読みながら、そんなことを思い出していた。

春物のショーウィンドウを眺めながら心に誓う。数週間のうちに冬の間に蓄積した贅肉解消しようと。モカシンシューズを素足を履くころまでに。春はやはり軽快が似合う。




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新芽

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寒がりの私が冬のコートを止めて、薄いトレンチコートを着るようになった。春になった証拠である。見回せば、周囲の人々はひと足もふた足も先に春の装いになっていたようであるが、遅すぎることはあるまい。私は私のペースで春を感じればよいのだから。居間の窓の前の栃ノ木は、秋に葉がすっかり落ちて以来、丸裸だった。ところが2日前、枝の先っぽに緑色の玉のようなものが着いているのを見つけた。その不思議な様子にどんな展開があるのかと楽しみに観察していたところ、今朝緑色の玉はふっくらと、まるで花弁のように開かせた。新芽だった。春だ、春だと新芽が歌っているようで、見ている私まで嬉しくなった。春はいい。寒い冬が終わった後に訪れる春は誰にとっても嬉しいものに違いない。

一昨日、相棒が地下倉庫からお酒を持って上がってきた。それは細い深緑色の瓶で、2001とラベルが貼られていた。明らかに私が書いた数字だった。ジーノのNocino。相棒と私の古い友達であるジーノが作った胡桃のお酒。木から落ちた胡桃の実を拾い集め、90度のアルコールに浸けて作ったものだ。なかなか手間が掛るそれを、分けて貰えるのは全く有難いことだった。ジーノと知り合ったのは、まだ相棒と私がアメリカに暮らしていたころ。結婚を前にして私が初めてボローニャに訪れた時のこと、1993年のことだ。ジーノは相棒の幼馴染の恋人だった。背がひょろりと高くて何を考えているのかよくわからない、というのが私が得た彼の印象だったが、おそらくジーノも私のことを何を考えているのかよくわからない外国人だと思ったに違いない。私たちがアメリカの生活を引き払ってボローニャに来ると、私たちの交流は深いものになった。ジーノと彼の恋人と私たちは、本当にいつも一緒だった。だからジーノが恋人と別れたとき、私たちは困ってしまった。何故ならどちらも同じくらい好きだったからだ。結局恋人はローマに仕事を得てボローニャから出て行ってしまったから、ジーノとの交流だけが残った。山に暮らしていた彼は週末になるとやってくる私たちを歓迎してくれた。庭で肉を焼いたり、山のお祭りに行ったり。私たちの分もお願いね、と冗談で言った一言を真に受けて、毎年律儀にNocinoを作っては、瓶に詰めて分けてくれた。そして家に帰ると私はラベルを張るのだ。2001というのは2001年のNocinoという訳だ。コルクを抜くといい匂いがした。ジーノのお酒。小さなグラスに注いで舐めてみたら、驚くほど美味しかった。ジーノとは、2010年くらいまで、まるで兄弟のように付き合っていたが、いつの間にか疎遠になってしまった。それを私は寂しいとずっと思っていた。言葉にこそ出さないけれど相棒もまた寂しいと思っているに違いなく、いつか再び昔のように友達付き合いができればいいのにと思いながら、年月だけが過ぎていく。一昨日思いがけずジーノのお酒を頂いて、そんなことを思い出していた。ジーノは。ジーノは私たちのことを思い出すことはあるのだろうか。そうであればいいのに。春になると木の枝に新芽が出るように、私たちの友情にもそんな新芽が出るといいのに。

それにしたって週末はあっという間に過ぎていく。これは世界共通。楽しい時間とはそういうものなのかもしれない。




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彼女と私

雨が静かに降っている。何時から降り始めたのか気が付かぬほど、静かな雨。細く長く降り続けている雨を窓から眺めていると、私は少し複雑な気持ちになる。もしあの時、こうしていたら。もしあの時、私が其処に行かなかったら。後悔とは違う、一種の仮定法みたいなもの。人からすればどうでもよいような小さなことに、心を揺らす。こんな雨の降る晩は、時々そんな気分になる。私だけだろうか。世界の何処に同じような人はいるだろうか。

私が暮らしていたアパートメントは坂に面して建っていた。アメリカに暮らして二軒目のアパートメントのことである。階段を数段上がったところがエントランスで、入って右手に郵便受けが幾つもあって、左手には階段があった。エレベーターも備え付けられていたが、一度も使ったことが無い。最上階といっても4階だったし、私は2階に住んでいたから、若かった私は階段を上ることにまったく苦痛を感じていなかったからだ。25年も前の話なのだ。木製の床で、激しく歩くとぎしぎし言った。大きな出窓があって、天気の良い日は窓に腰掛けて、本を読んだりお喋りを楽しんだ。私は他のふたりと共同生活をしていた。私たちは皆、節約を強いられている身だったが、その中でも私がいちばん切り詰めていたと言ってよい。けれどもそんな生活が少しも苦痛ではなかったのは、やはり若かったからだろう。それから自力で何かをしている実感が、私を強く励ましていたのかもしれない。貯金がもっとあったらどんなに良いかと思いながらも、私はそんな生活を楽しんでいたのかもしれないと今は思う。一緒に暮らしていた友人は、私よりも更に若く、どんなことにも怖気づかなかった。そんな彼女をとても羨ましいと思っていた。どんなことにも真っ直ぐで、思ったことを言葉にする彼女。私には出来ないと思っていた。彼女のような自信は何処を探しても見つからなかった。自信とは面白いもので、自信が無いと思うとあれよあれよと言う間に消滅してしまう。反対に、自信があるときといったら、雪だるま方式で大きく膨れ上がり、いったい何処にそんな自信を隠し持っていたのだろうと自分でも驚いてしまうのである。私は彼女と一緒に居ると益々自信が首をもたげてしまうのだった。そんな自分がとても嫌いで、こういうタイプの人と一緒に住んでしまった自分を、失敗したと責めたこともある。快活な性格の彼女だ。いつも誰かが彼女の部屋に出入りしていた。その中のひとりがシボルだった。香港生まれ香港育ちのシボル。豊かな家のお嬢さんらしく、身につけているものが洗練されていた。そもそも大変美しい姿をしていたので、街を歩いていると誰もが一瞬小さく振り返った。背丈があってスレンダー、腰の位置が大変高くて足がすらりと長かった彼女。スリムなジーンズに飾り気の無い白いシャツ。それに紺のジャケットを着ると、まったくさまになった。無造作に着ていたがそれぞれを良く見れば、どれもが手の出ないような上質なものだった。彼女には一種のポリシーみたいなものがあって、ひと目で何処のブランドと分かるようなロゴの入ったものは決して身に着けなかった。だから何かの拍子に衣類の内側や隠された部分のタグを見て、驚くのだ。シンプルがいいのよ。そう言う彼女のクローゼットは、本当にシンプルなものばかりだった。みんながつまらないと言うんだけど、私は此れでいいの。気に入ったものを何年も着るの。飽きることなんて無いわ。彼女が言った言葉はそのまま私に染み付いて、いつの間にか私もそんな風に考えるようになった。シボルと知り合うことになったきっかけを作ったのは、一緒に居ると益々自信が首をもたげてしまう友人だった。一緒に住んだことを失敗したと思ったこともあったけれど、今振り返ってみれば、実に良い人と住んだと思う。どんなこともそんな具合だ。その時、あーあ、と思っても、何年も経って思い返せば感謝しても足らぬほど幸運だったりする。だから人生は面白い。過ぎてから初めて分かることが沢山あるのだ。もしあの時、私が友人と一緒に暮らしていなかったら。そう考え始めてみたものの、ありえない、ありえないと首を横に振る。私と友人は会うべくして会ったのだ。彼女と私の場合、もし会っていなかったら、と言う仮定法は成り立たない。

降り続く雨。明日は晴れるだろうか。旧市街を散歩したいと、私は心底願っている。




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此れが終わると春がやって来る

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淀んだ空。眺めていると憂鬱になりそうな2月の空。そもそも2月とはそういう月だ。そういうものだと割り切っていれば、落ち込むこともないだろう。そんな曇り空の土曜日。猫は眠ってばかりいるけれど、飽きるということは無いのだろうか。物音にも動じない。起きている時は酷く敏感なくせに。眠っている時は物音など聞こえないとでも言うように、微動することも、ない。

今年もテレビでサンレモ音楽祭.。この名前を聞くだけで、思いだす人がいる。1996年のローマの冬のこと。ローマに住むにあたって、知り合いのいない私を支えてくれたのがルイージだった。ローマ生まれのローマ育ち。相棒がアメリカに住んでいた頃、交流していた人物だ。彼らはまだ30歳にもならず、若くて鉄砲玉のようだった。相棒の何でもありの性格に対して、ルイージは実に真面目腐っていた。どんな時もアイロンがぴしりと掛けられたカッターシャツを着ていたらしく、ルイージのアイロンのかかったカッターシャツは巷手もかなり有名だったらしい。らしいと言うのは、その当時の彼らを私は知らないからだ。ルイージがいよいよアメリカからローマに帰るときめた時、相棒に一枚の紙きれを渡したそうだ。紙きれには彼の名前と電話番号が掛かれていた。ローマに来る時は連絡をおくれよ。そういう願いが込められていたらしい。その紙きれは20年近く相棒の小さな電話帳の中に眠っていたが、私がローマに暮らすことになって、ようやく手帳から引っ張り出された。昔の友達が、若い時代を共に過ごした友達が、まだ忘れずにいてくれたこと、電話をくれたことにルイージは狂喜したらしい。私はローマに暮らすにあたり、アパートメントを借りるまでの数日間住む場所が必要だと知ると快く承知してくれた。それがルイージで、私と同行した相棒の計2人がルイージのところに転がり込んだ理由だった。ルイージは恋人と暮らしていたから、私達は邪魔者だったに違いない。しかしルイージがとても喜んでいるから、恋人も仕方がないと思ったのではあるまいか。食事時に彼らの若い時代の話に耳を傾けるのは楽しかった。ねえ、君、だから君が僕の家に転がり込むのは大歓迎なんだ、とルイージは言った。どうやら相棒は誰かが困っていると知ると何を置いても駆けつける親切な人だったらしく、ルイージもまた相棒に助けて貰ったひとりだったそうだ。楽しい食事時のお喋り。この家での生活は悪くなかったが、所詮居候の身。一日も早くそこから出なくてはと気が焦っていた。ルイージの協力で見つかったのが、ヴィットリオ広場周辺の間借りだった。老女の家に部屋を借りると言う、予想もしていなかった展開に私は酷く慌てていたが、しかしルイージと恋人のところから出るためには、其れも仕方がないことだった。相棒はとっくにボローニャに帰っていたが、気が向くと車でローマにやって来た。相棒の定宿はルイージの家。だから相棒が来るとルイージのところで夕食を楽しんだ。しかしある晩、私達は一言も話をしなかった。サンレモ音楽祭だったからだ。ルイージはサンレモ音楽祭が大好きだったからだ。その為に私達は彼が聞き逃すことが無いようにと、私達は静かに食事をすることにしたのだ。あの当時私には、サンレモ音楽祭の重要さが分からなかった。でも今になってみれば少しは分かる。ある時代の人々にとって、サンレモ音楽祭とは時代の象徴、此れが終わると春がやって来る、そんな存在だったのだろう。
当時働いていた職場では、何時もラジオがかかっていて、サンレモ音楽祭で知れ渡った数々の音楽が流れていた。そのうちのひとつが私は大好きで、それがラジオから流れると嬉しくなった。ローマに独りぼっち。でも、大丈夫。そのうちふたりで暮らせるようになる、と相棒が何時かローマに暮らす決心をしてくれるだろうと願ってやまなかった私は、その音楽を聞くとそれが何時か現実になるように思えたものだ。何時か相棒もローマに暮らす。私と一緒にローマに暮らす。私はローマが好きだったし、其処で得た仕事も好きだった。知り合った人達は皆素敵だったし、此処でなら私は暮らしていける、同じイタリアでも、と思ったから。あれからもう20年が経つ。相棒はローマに暮らす決心はせず、私がボローニャに戻ることを決めた。それが良かったのかどうかは分からない。でも、それはもうどうでも良いことだ。私は今ボローニャに居る。ただそれだけのことなのだ。

先日、ローマに住む人から電話を貰った。昔の上司、みたいな人だ。直属の上司ではないにしても、昔の上司が一番ぴったりくる呼び方だろう。何時も気取った装いをして、とても日本人には見えなかった。長年ローマに暮らすと、こんな風になるものなのだろうかと、イタリアに来てまだ一年も経たなかった当時の私は思ったものだ。君、もっとお洒落をしたらどうだい。そんなことを言われたこともある。お洒落っていったって。若かった私は、そんなことを思ったことがあったことも今思い出した。どれもこれも20年も前の話だ。どんなことも時間が経つと、良い思い出となる。そういうことだ。




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静かな雨

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私が彼に出会ったのは、イタリアに暮らし始めて3、4年目だっただろうか。定かでないのは、その頃の私が様々な渦に巻き込まれていて、何をしてもうまくいかず苦しんでいたからだ。ローマから戻ってきたは良いが、相棒とふたりでボローニャ旧市街近くにアパートメントを借りたは良いが、うまくいっていなかった。思うように仕事が見つからなかったし、自分に出来ることも見つからなかった。ローマで得た活力は何処へ行ってしまったのか、自分に自信が無くなり始めたのが丁度その頃だった。途方に暮れていたと言ったらよいかもしれない。そんな時に知り合った人が彼に引き合わせてくれた。いい人だから友達になったらよいのではないか、などと言って。それに日本語を話す相手が居るのは、心強いのではないか、とも言っていた。確かに。私には日本語で話が出来る相手が欲しかった。初めて会ったのは、マッジョーレ広場。彼は不思議な印象の日本人だった。つかみどころがない。タイムスリップしているような感じでもあった。冬の終わりで、私達は冬のコートを着込んでいた。何時かな、と言いながら彼がポケットの中から取り出したのは、懐中時計などではなくて、直径8センチほどで厚みのある丸い目覚まし時計だった。しかも時間を知らせる時にアラームが鳴るようなものではなく、ジリリリリリと激しくなるような、旧式の目覚まし時計だった。腕時計が無いんだ、と言って笑う彼が、私には案外新鮮だった。二度目に会ったのは彼の家でだった。遊びにおいでよ、日本語の本があるんだよ。そんな誘われ方だった。彼は恋人と旧市街に住んでいた。とても質素なアパートメントで、地上階の小さな小さなアパートメントで、ドアを開けると直ぐ右手にキッチン、左手に小さなスペースがあった。他に小さな寝室とバスルームがあるらしく、細々と暮らしている様子が窺えた。でも、貧乏なわけではなく、質素な生活を楽しんでいるようだった。紅茶と菓子をご馳走してくれてくれた。君はきっと好きだと思うよ。そう言いながら差し出された本は俗にいう文庫本というやつで、ミラノの霧、と表紙に書かれていた。聞いたことの無い名前だけれどと言う私に、いいから兎に角読んでみたらいい、と言って、傍に置いてあった私の鞄の中に滑り込ませた。それがこの本と、そしてこの作者との出会いだった。本は、彼が言った通り、私が好きな類のものだった。そして、思慮深い、言葉を選んで文字を綴る須賀敦子という作者に、嫉妬すら感じた。けれども私が嫉妬し続けなかったのは、驚きの方が強かったからだ。知り合って間もない彼が、短い時間の間に私という人間を見抜いたことが、脅威でならなかった。彼とはその後数年に渡って友達付き合いがあったが、ある日突然いなくなった。ボローニャを出て行ってしまったからだ。人間付合いには、そういうこともある。残念だけど、縁がなかったと思うことにしよう。いいや、本当に縁があるならば、いつかまた何処かで会うに違いない。居なくなってしまったのは、彼の新しい出発なのだ、と思うことにした。あれから彼とは一度も会っていない。声のひとつも聞いていない。結局、縁がなかったと言うことなのかもしれない。でも、と私は思う。あの日彼が電話をしてこなかったら、あの日私が彼の家に行かなかったら、私はこの本に出合うことは無かった。私がこの本を好きなのは、単に描写力のある、丁寧な文章だからだけではなく、彼という存在が本に沁み込んでいるからだ。
雨が降ったのでそんなことを思い出した。雨が降るとじめじめするんだよ、この家は。と、地上階暮らしていた彼が言ったのを笑った覚えがある。でもいいじゃない、旧市街に住むなんてなかなかできない事なのだから、と羨む私に苦笑いを見せた彼。年上の恋人に大切にされていた彼が、春を待たずに突然出て行ってしまったことを思い出させるのが雨。今頃どうしているのだろうと思わせるのは静かな夜の雨。

彼がいつか言ったことがある。君は運のいい人なんじゃないかと思う、と。そうかなあ、いいこと全然ないけれど、と笑う私に、自分が気が付いていないだけだと言った。其の言葉が、あれから十何年も経つのに、未だに心の隅っこでふわふわ浮かんでいる。




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