頑固で柔軟

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共和国記念日。イタリア国営放送では朝からその日を祝う様子をテレビで放映している。毎年のことだ。これを楽しみにしている人は思いのほか多い。と言っても、その祝典に携わる家族や、共和国設立時を通過した年配の人々が主であるけれど。近所の老人たちは朝からその放送を楽しんでいるらしく、朝から快晴で気温が高いこともあってどの家も窓を開け放っているから、そしてイタリアではテレビの音を大きくして見る人が多いこともあって、あちらから、こちらからと音声が聞こえてきて、テレビを見ていなくとも雰囲気を楽しめると言った具合である。と、気が付けば居間で相棒も見入っている。共和国設立時は通過していない彼が見たかったのは、どうやらパラシュート隊の行進らしい。もう随分前のこと。イタリアには兵役が義務になっていた時代があって、相棒はパラシュート隊に参加していたらしい。それはなかなか面白い体験だったらしく、いまでもこんなテレビを見ると、パラシュート隊に居た頃のことを思すらしい。ああ、パラシュート隊がやって来た、とテレビの画面を見ながら言う彼の顔を見たら、実に嬉しそうだったから、どれだけ楽しい体験をしたのだろうと思った。いや、兵役は楽しくはなかったかもしれないが、過去となった今は、どれもこれもが良い思い出になったのだろう。

幼いころから私は集団で同じ行動をとるのを好まなかった。今でもそれは変わらない。あなたも参加したらどうか、滅茶苦茶楽しそうだから、などと言いながら知人がアドリア海の街リミニで100人だか200人だかが集まって浜辺で一緒にフィットネスしている画像を見せてくれたが、そうした物は私にとっては鳥肌が立つもの以外の何でもなく、にこやかに話をかわすのが精一杯だった。思うにイタリア人の多くは、こうしたみんなで一緒が好きなのではないかと思う。皆で一緒に旅行をしたり、皆で一緒に歌い、兎に角皆で一緒が良いらしい。裏返せば、ひとりで何かをしたりするのが苦手らしい。だから私がひとりで旅をしたり、ひとりでふらりと旧市街に立ち寄って立ち飲みワインを楽しむ術を知っていると知ると、皆一様に目を丸くする。彼らにとっては経験したこともなければ、考えてみたこともない行動らしく、だからそれが楽しいとか楽しくないかとか想像することも難儀らしい。そして、そうしたことを平気で日常の中でこなす私を、一種の羨望の目で見たり、時には変わっている人だと思ったり、可哀そうな人と思う節があるらしい。この最後の可哀そうと言うのは、イタリアによくある感情で、何かにつけて良く出てくる表現。ところが私にしてみれば、可哀そうなどと思ってもらう必要はなく、それどころか、そうしたことを楽しむ術を知らぬ人達の方がずっと可哀そうに思えるのだが、それもこれも個人の違い、皆が異なっていてよいと思うから、実にどうでも良いことだ。私は私。あなたはあなた。同じで良し。違っていて良し、なのだ。最近、小さな世界に生きていて、それが全てだと思っている若い人と知り合った。若いからそれだけでも経験が少ないのに、自分が知っている範囲だけで、これはこうでなくては、と決めつけてしまう人。人の話に耳も傾けず、自分はこう思う、自分は、自分は、とそればかりだ。もっと柔軟でも良いのではないかと思うが、自分が知っていることが全てらしい。何だか頑固な老人みたいだと思ったが、いや、老人はもっと柔軟であることを思いだした。もう10年以上前に他界した舅。私と相棒がイタリアに引っ越してきた当時、舅は私を少しも好んでいなかった。異文化に住んでいた東洋人。言葉の違う嫁。考え方があまりに異なっていて、理解できない。そんなところだっただろう。始めの一年は言葉の不都合で互いに苦労した。その後は私が舅を避けた。そして私の言葉が達者になり、自分の仕事を持ち、自由に身動きできる自分の場所を見つけると、私が舅に会いに行くようになり、舅が好んで私と話をするようになった。ある日、舅が家族や近所の人達から、あんたは頑固でどうしようもない、と詰られていた。実際彼は頑固ものだった。だから、初めの頃、私を受け入れようとしなかったし、私とうまくいかなかった。その晩、舅はいじけていて、淋しがり屋の猫のように私のところに来て話をしたがった。皆が自分を頑固ものだと言うんだ。でも、どうしようもないじゃないか、こんな年になってからでは、変わりようもないじゃないか、と。それで私は忙しく動かしていた手を休めて、椅子に座って話し始めた。私がイタリアに来たばかりの頃、異文化、異なる考え方や習慣、言葉にしても波のようにして私を呑み込もうとしていたのが脅威だった。でも、イタリアが私のところにやって来たんじゃない、私がここにやって来たのだから、と拒まずに受け入れる努力をした。自分を貫いてばかりじゃ話にならない、もっと柔軟になろうと思った。かと言って、私は自分の大切な部分はちゃんと宝石箱の中に納めて取っておいたから、自分自身を失ったわけではなかった。此処でうまくやっていく方法のひとつだった。そんな経験があったから、私にとって答えはいつだって幾つもあるのだ。こうでありたいという気持ちこそあっても、こうでなければいけないことなど、ない。色んな方向から考えたら答えは幾つもある筈なのだ。だから絶対という言葉は使いたくない。ねえ、お義父さんにもそんな経験があるでしょう。戦争中に他国の兵士が侵入して来た時、今まで通りを貫くことなんてできなかったでしょう。と、切りだすと、舅は遠い目をしながら、それはそうさ、如何にして生きていくか、うまくその場を切り抜けられるか、何時も試行錯誤しなければいけなかった。答えは幾つもあって。と、其処まで言ったら、突然黙りこくり、そして、忘れていた、と言った。忘れていたよ、そうだ、色んな考え方があるんだ。もうじき80歳になる舅が溜息をつきながら私の腕をぎゅっと握って、ありがとうと言うように肩をポンポンと叩いて向こうに行った。舅は頑固だが柔軟だ。少なくとも人の話に耳を傾ける柔軟な心を持っていると思った。あれから舅は色んなことを考えたに違いなく、家族に、周囲の人にとても感じが良くなった。人の意見に耳を傾け、人のやり方を有難く受け入れるようになって、誰もが彼は変わったと言って目を丸くした。そんな時、舅はこっそりこちらを向いて、他の人に気づかれぬように私に小さなウィンクを投げた。頑固者だけど心が柔軟で、茶目っ気がある。私の舅はそんな人だった。時々、舅の不在を淋しく思う。まさかこんな日が来るなんて、イタリアに暮らし始めた当初には夢にも思っていなかった。

蝉が鳴いている。昨日からだから、6月になった途端、蝉のスイッチが入ったのだろうか。猫の方は眠りのスイッチが入ったままで、朝から眠ってばかりいる。私達が不在の平日はこんな風に眠ってばかりいると思えば、夕方から夜にかけての異常な活力が納得できるというものだ。頭上でふわりふわりと風に膨らんでは萎むレースのカーテンを気にしながらも、猫は眠り続ける。空腹になれば目が覚めるのかもしれない。




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彼の記憶

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春は美しい。窓の外を眺めながら思う。週明け早々体調を崩して、すっかり寝込んでしまった。一番の失敗は何だったかといえば、悪い風邪を引いて床に伏した私に良くしてくれた相棒にうつしたこと、そして相棒を通じて姑にもうつしたことだ。これには酷く罪悪感を感じていて、私は病の床に伏しながら、心を痛めたものである。あれほど注意していたのにどうしてだろう、などと言うのはもう考えたくない。これから如何にして完治し、健康を保つかを考えたいと思う。折角の春の始まりがこんなで、すっかり気持ちがしぼんでいるが、窓の前の栃ノ木の葉が、テラスの前の菩提樹の葉が、日に日に茂る様子が私を多少ながら元気づけてくれる。おい、頑張れよ。そんな感じに。

昔、私は望んで望んで住むようになったアメリカの海の街から去ろうとしていた。春のことだ。貯金に底がついてしまったからだった。理由は色々あった。人間関係の拗れで、予定外の生活をするようになったからだった。収入を絶たれ、出費ばかりになったからといえばよいだろうか。仕事探しは難航していて、私は早くも諦め始めていた。そんな私を周囲の人達は、君はどうしてそんなに簡単に諦められるのか、君はずっとここで生活することを夢見ていたんじゃなかったのかい、と叱咤激励してくれたが、思いのほか根性なしになった私は、仕方がない、だって仕方がない、と心は既に諦めていたようだった。だから私は自分が出ていった後に入居する人を探すために募集の張り紙をあちこちに張り付けたし、手元にある手放してもかまわないものを売り始めていた。しかし私は帰らなかった。周囲の人達が少しも諦めていなかったからだ。私の為に知恵を絞り、自分の職場に空きがないかを訊いてくれたり。それは私とは直接関係のない人達まで輪が広がっていて、そのうちのひとりを通じて私は来月も此の街で暮らしていける生活の糧を得た。人生悪いことばかりじゃないなあ。そう思った。何でも自分の力でやって来たと思っていた私は、自分の人生は実は様々な人と拘わりあって作り上げられているものなのだと、生まれて初めて気が付いたのである。若すぎたというよりは無知だったのだろう。自分の力を過信していたのだろう。大好きな街で、貧乏の辛い時期を通過したが、それを通じて大切なことを学んだと思う。仕事に就いて再び生活をつづけられるようになると、私はそうした人達に感謝を述べて回った。一緒に考えてくれた人達。自分のことでもないのに。私がこれからも此処で生活できることを皆手放しに喜んでくれた。妬みとか嫉妬がない人間関係を大変幸運だったと思う。
さて、私にアメリカの海の街での生活を継続するチャンスを与えてくれた彼は私より幾つか年下の、ギターを弾く、見かけの良く、人当たりの良い男性だった。そういう彼を多くの人達は格好がいいと褒め称え、一握りの人達は胡散臭いと陰で言った。私は彼をあれこれ評価できる立場ではなかった。感謝以外にできることなんでなかったから。その彼とはそれまで人伝に細い細い拘わりがあっただけだったが、あの一件以来話をすることが多くなった。例えば、私が新しい職場でうまくやっているのかと電話をくれたり。今からチャイナタウンで北京ダックを食べに行くから、人が多ければ多い方がいいから直ぐに家から出てこないかとか。例えば知り合いが街を去るので皆で騒いでいるから店に来ないかとか。そうして行くと大抵見慣れた顔が幾つかあって、ああ、そうか、私と彼は実はこうした人達を介して繋がっていたのだなと思いだしたものだ。北京ダックの晩のことは今思いだしても顔がにやりとする。店に行くと色んな知り合いが待っていて、こんなに大騒ぎして夕食をしたのは初めてで、こんなに大笑いしたのも初めてで、その上、知人の親戚か何かの店だったことから、大振るまいして貰って、これ以上食べられないというくらい食べた。北京ダックだって、いったい幾つ注文しただろう。春にしては寒い晩で、この街特有の濃い霧が道を覆っていて、歩いているとジャケットや髪の毛が濡れるほどだった。またね。また今度ね。私達はこんな挨拶を交わして別れた。5月になると週末は街のあちらこちらでストリートフェアが開かれた。其処でばったり彼に出会ったこともある。互いに用事のない暇な身だったから、私達は飲み物を片手に路上に座ってバンドの演奏を聴きながら話をした。雑踏の中にブルース・スプリングスティーンによく似た人を始めに見つけたのは彼だった。彼はスプリングスティーンが大好きだったらしい。そう言う私だってスプリングスティーンが大好きだったから、私達は向こうの人の群れの中に居る男性が気になって気になって仕方がなかった。単なる他人の空似なのか、それとも本人なのかは声を掛けなかったから分からない。でも、私達は互いに小さな共通点を見つけて、そんな時間を共有して、思いだすとちょっと楽しい記憶なのだ。暫くして、最近どうしているだろうと思ったころ、彼はもう街にはいなかった。人の話によれば急に居なくなったらしい。何があったのかは分からない。誰にもわからなかった。悪いことに巻き込まれていなければいいけれど。そう願うしかなかった。
この季節になると私は彼を思いだす。もう26年も前のことなのに。彼のような人が存在したから私はあの街に残ることが出来た。もう二度と会うことがなくても、私は毎年この時期になれば思いだすだろう。あの頃若くて自由ばかりを両手に抱えていた私も、今ではそれなりの責任を自由と同じように持つようになり、家族があり、仕事があり、あの街から随分と離れたところに暮らしている。地味ながら、それなりに幸せな人生だ。勿論思い通りのことばかりではないにしても。欲張り過ぎなければいいだけだ。それにしても時々思う。あの時、あの街を離れていたら、私の人生はどんなだっただろう。後悔ばかりが背後について回ったのかもしれない、そう思うと、私はもう会うこともないであろう彼に繰り返し感謝するのだ。ありがとう。この気持ちは一生変わらない。そして彼にも幸せがあればいいと思う。

今日から日曜日までボローニャ旧市街の郵便局前で花の市が開かれている。これは私の大のお気に入りで、年に幾度か開かれるこれを一度だって逃がしたことがないけれど、今回だけは控えておこう。体調を整えるのだ。こんな季節に体調を崩した自己嫌悪から早く脱出したいから。部屋の日当たりの良い場所に椅子を置いて、のんびりゆっくりするとしよう。




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偶然とか不思議とか

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世の中には不思議なことがある。今日のそのことは、いったい何処から書き記したらよいのか、いくら考えても分からない。

2013年12月まで時を遡ってみようか。私は旧市街の七つの教会群前の広場に面した画廊が好きで、その前でしばしば足を止めたものだ。画廊に入ったことはなかったが、外から鑑賞するのが私流だったと言えよう。ある日画廊の前を通ったら美しいヴェネツィアの絵が飾られていて、思わずレンズに納めた。その数日後、テレビから流れてきた美しい映画音楽に心打たれて、私はブログにそれを書いた。レンズに納めた画廊の様子と一緒に。それを読んだ女性が私に連絡をくれた。それがきっかけで私は彼女と会うようになった。私よりずっと若い人。若いけれども地に足がついていて、大人びた視線と考えを持つ彼女を私はとても素敵だと思った。肩を怒らせずに、自然に身を任せて生きる術を知っている人。なのに頻繁に会うことはなかった。ほんの時々、気が向いた時だけ。互いにボローニャに住んでいるから何時でも会えると思っていたからだ。これは私の大きな欠点。一生かけても治るこのとのない致命的な欠点と言ってもよかった。いつか彼女がボローニャを出ていくなんて思ってもいなかったのは何故だろう。だから、ある日彼女が他の街に移り住むと知って、ああ、またやってしまったと思った。アメリカに居た頃にも同じようなことがあった。同じ街のあちらとこちらに住んでいた私と女友達は、いつでも会えるから、などと言って積極的に会うことはなかった。時々電話で話して、そして近いうちに会おうと言いながら、何時も先延ばしにして。それでいて私達は良い友人関係だったのだから、全く妙だった。ならばもっと会えばよかったのに、ある日女友達は日本へ、私はイタリアへと場所を移し、もう簡単に会うことは出来なくなって、互いに大変後悔したものだった。さて、ボローニャから居を他の国の他の街に移した彼女だが、全然会えないわけではなく、一年に一度は会える仕組みになっていて、世の中満更悪いことばかりではないと思う。それに、あの日、あのブログを書いたことで彼女と知り合うことが出来たのだから、私は案外運がいいともいえよう。その彼女、今日が誕生日だった。おめでとうのメッセージをおくり、彼女と知り合ってからもう4年が経つのか、などと思っていたところに居間から音楽が聞こえた。あの美しい映画の音楽だった。Anonimo Veneziano、日本語の題名でヴェニスの愛という名の映画が始まったらしかった。映画の始まりは駅。1970年の映画だから撮影したのは60年代終わりだろうか。もう50年程前なのに、少し前までとあまり変わりがなく、不思議な気分だった。不思議なのはそればかりではない。彼女と知り合うきっかけとなったこの音楽を今日と言う日に、彼女の誕生日に聴くことになろうとは。何かが音なく動き始めて、気が付いたらすべてが繋がっているような、そんな風に思えてならない。偶然といえば偶然。だいたい私と彼女が知り合ったのも、偶然のひとかけらだったかもしれない。不思議も偶然も私の生活にはよくあることで、良く調べてみれば多分私の人生の大半がそんなことで成り立っているのかもしれない。何にしても、この美しい音楽が、今夜は私を癒してくれる。少し熱っぽくて、しんどくて、立っているのもままならぬ私の体の芯から。

この偶然と不思議にありがとう。それにしてもこの音楽は、いつ聴いても、背中に鳥肌が立つほど美しい。




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優しくて温かい

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金曜日を迎えて気分は上々。しかし、ここ連日の寒さで風邪を引いたらしく、体がひどく熱っぽい。折角の週末なのにこんなことでは、と気分を盛り上げているが、全然うまくいかない。仕方がない。明日は温かくしてゆっくりしよう。

13年前の3月に仕事を辞めた。約5年間続けたフィレンツェ通いのピリオドを打つために。仕事は嫌いではなかった。いや、寧ろ好きだったと言っていい。様々な人と関わる仕事で、それを通じて色んなことを学んだ。そのひとつが、人は皆それぞれで、同じでなくてよいことだった。色んな人が居る。考え方も違えば意見も違う。好みも異なるし、そんな風でよいのだと言うこと。そんなフィレンツェでの仕事を何故辞めたかといえば、単にフィレンツェ通勤が辛くなったからだった。初めのうちは感じもしなかった疲れが、最後の一年はまるで背中に張り付くようで辛かった。ある1月の週末に、辞めようかなあ、と口にしてみたところ、相棒がそれもいいのではないかと言った。次の仕事はあるかどうか分からないが、一区切りつけるのもよいかもしれないよ、と。予想していなかった相棒の言葉で心が決まった。それからは通勤が楽になった。すべて気分の問題だったのかもしれない、と今は思う。もしかしたらもう5年ほど続けることができたかもしれないけれど、何事にも丁度良い時期というものがあるようで、辞めると決めた途端にボローニャでの仕事の誘いがかかった。運が良かったのだと思う。そんな幸運はそうそう転がっているものではないと思うから、私はチャンスを与えてくれた人に一生頭が上がらない。一生。一生だ。一生感謝を忘れない。
それにしてもフィレンツェはボローニャから僅か100キロ南下したところに位置すると言うのに、ここ数年は足が遠のいている。最後に行ったのはいつだっただろうか。8年ほど前だったかもしれない。春が来たら久しぶりに行ってみようと思いながら、ふとひとりの女性のことを思い浮かべた。フィレンツェ生まれのフィレンツェ育ち。髪を短く切っていた。私より15歳ほど年上だっただろうか。一見、大変な堅物に見えるが、実はとても優しくて温かい。何時だったか、彼女の猫が飛ぶ鳥を追いかけてアパートメントのテラスからぴょーんと飛んでしまった。4階か何かのテラスから。猫は幸運なことに上手に着陸して怪我ひとつなかったそうだ。そして地上の誰一人に被害を与えることもなく、一件落着、という話で、ああ、よかった!と私は胸をなでおろしたが、彼女は酷く怒っていた。大馬鹿よ。自分が鳥だと思って一緒に飛んでしまったのよ。もし誰かの上に落ちていたら、誰かに怪我をさせていたら、大変なことになっていた、と彼女は興奮が冷め止まないようだった。そうねえ、本当よねえ、と同意する私に、そうでしょう?といった表情を向けながら、言葉をつづけた。それに着陸に失敗していたら、猫は死んでいたかもしれない。そんなこと、あってはいけないのよ、と彼女は言葉を切って俯いた。彼女は堅いからと人が言うのを何時も耳にしていたけれど、違う、彼女は堅いのではなくて、多分彼女は優しい部分、柔らかい部分を他人に見せたくないだけなのだと思った。それとも本当の自分を見せるのが下手なのかもしれない。私は優しくて温かいのに堅物に見える彼女が大好きだった。ところで猫は怪我ひとつなかったと言うが、猫も驚いて足がすくんでしまったのか、それとも着陸時に足にショックがあったからなのか、兎に角、彼女が大急ぎで下に降りてきて抱き上げてくれるまで身動き一つしなかったそうだ。抱き上げて、あんた、馬鹿ねえ、あんな上から飛んじゃってと、ぎゅっと抱きしめると猫は小さな子供のように彼女に抱きついた、と締めくくられたその話は、もう16年も経つのに忘れることがない。だからね、あんたもテラスから鳥を追いかけて飛んではいけないの、と自分の猫に話を聞かせてみるが、どうだろう、分かって貰えただろうか。

悪天候が続くボローニャの今夜の空は青白い。誘われるように窓辺に立つと空の高いところに満月が光っていた。青白い空は満月のせい。満月を眺めていたら、ひょっとしてもうすぐそこまで春が来ているような気がした。春が来たら行きたいところがある。フィレンツェばかりではない。トスカーナの小さな町や、ウンブリア辺りにも足を延ばしたい。春とは、小旅行をしたくなる季節なのかもしれない。




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友人

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目を覚ますと雨が降っていた。日曜日だと言うのに。それにしても頭痛がして、頭の焦点がなかなか合わず、目覚めが悪かった。良くあることだ。特に季節の変わり目。冬とはいえ、春へと向かうこの時期はによくあることだった。それにしても降り続く雨に、溜息が出た。そうして今日はヴェネツィア散策だと言っていた友人のことを思うと、心が痛んだ。

昨日友人と再会した。私達が古い長い糸を手繰って分かったのは、再会が25年ぶりであることだった。25年前に東京で会ったのが最後。そして私達が知り合ったのは、もう少し前の26年前のことだった。何処でどうやって私達が繋がったのか、私は思いだすことが出来なかったが、彼女はちゃんと覚えていた。彼女は授業代が高くて有名な語学学校に通っていて、私はその学校が無料で開いた午後のクラスに通い始めていた。無料なので毎日はなく、全く先に進まぬ授業だったが、私には十分だった。無料で学べるだけで有難かったからだ。それでそのクラスに大学生の男の子がいた。名前はタカオ。彼は午前中のクラスの生徒で、午後の無料クラスにも参加していた学生だった。彼の素性は知らない。大学生の日本人、ということくらいしか。だいたいタカオという名前だって、どんな風に書くのか知らない。同じ日本人だということと、年上で頼りになりそうだということで私に懐いたと言うと丁度良かった。その彼が友人と出会うきっかけを作ってくれた。同じ年齢で同じ日本人女性だから、と単純な理由だった。でも、きっかけなんてものは大抵そんなものなのかもしれない、と今は思う。兎に角、タカオを通じて私と友人は知り合い、短い期間だったが様々な相通じるものを見つけ、幾度も会い、そして彼女がアメリカを去ると手紙を交わすようになった。彼女はのんびり屋さんのようで情熱的、そして意表を突くような行動力があった。そうしたものが私には眩しかった。それも時間という壁、大きな海が私達の間に横たわって、いつの日か交流が途絶えてまった。ところが数年前、交流が復活した。今は様々な方法で人と知り合ったり、古い友人を探し出したりすることが出来るのだ。案の定、探してみたらすぐに彼女が見つかって、再び言葉を交わすようになった。その彼女がボローニャに来ると言うので嬉しさのなかに一抹の不安があった。25年という歳月だ。彼女も私も変化しているに違いなく、昔のように話が出来るとは限らない。互いが歩んできた異なる人生が育んだものが私達の間に大きな違和感としてのさばることも大いにあるだろう、と。海神の噴水の前で待っていたら、向こうから温かいコートに身を包んだ、25年前と同じ彼女が やって来た。何も変わらない。温かい表情も、自己主張し過ぎない話方も。私達は歩きながら次から次へと話を替えながらしゃべり続けた。25年の空洞を埋めるかのように。それでいてまるで昨日も会っていたような空気があり、肩がこらず、話は淡々と進み、互いが少しも変わっていない証拠のように思えた。旧市街の道を歩き、途中で食事をして、途中でカッフェをして、あちらに立ち止まり、こちらに立ち止まり、ミラノ行きの列車に彼女を乗せて別れた。またね。また近いうちに。もしかしたらまた長い年月が経つのかもしれないけれど、それでもいいと思った。彼女とは離れていても色んなことが分かり合えると分かったからだ。同い年同士。互いを尊重して、否定することはない。人間はみな違って当たり前。そうした気持ちが心の底にあるから、たとえ自分ならそうはしないと思っても、成程ね、そういうこともあるのだな、と肯定しあえる仲。だから肩が凝らない。それから自分をよく見せる必要もない仲。こうした関係を保てる人を私達は友人と呼んでいる。沢山歩いた分だけ、沢山話をした。昨年の秋にボローニャに来る計画があることを知らされて以来、ずっと楽しみにしていた一日。もう終わってしまったなあ。

足が棒のようだ。確実に歩き過ぎである。彼女もまた同じようなことを思っているに違いない。ボローニャのように歩いて散策できる街は、多々して歩き過ぎになりようだ。それにしたって彼女の行動力。並みならぬエネルギーに私は興奮している。私もそうでありたい。不可能なんてことはない。やってみなければ、何も始まらない。彼女の淡々とした控えめな言葉の中に、そんなことが秘められていた。確かにメッセージを受け取ったよと、窓の外に降り続く冬の雨を眺めながらひとり呟いた。




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