彼女からの電話

DSC_0063 small


蝉の声がする。其れも一匹二匹の話ではない。家の周囲の樹々に蝉が随分と居るらしく、蝉のオーケストラと言った感じである。運が良いのは今日が日曜日で、気持ちがゆったりしていることだ。自分なりに色んな予定があるにしても、こんな暑くてはどうにもならぬ。あー、辞めた、辞めたと全てを放り投げたら、ゆったりな気持ちになった。何だ、こんなことだったのか、という感じ。もっと早くにすればよかった。

昨夕、食事を終えるのを待っていたかのようなタイミングで携帯電話が鳴った。この時間帯に電話が鳴るのは珍しいことだった。さて誰だろう、と電話にでてみたら懐かしい声が耳に飛び込んできた。耳に心地よいハスキーな声。彼女にシャンソンを歌わせたら素晴らしいに違いないと昔よく思ったものだが、その声を再び耳にできるとは夢にも思っていなかった。彼女との関係は28年も前に遡る。1991年の秋のことだ。私はアメリカで独り暮らしを始めたが、安いアパートメントながらもひとりで暮らすには高く、それにひとりで暮らすよりも誰かと暮らした方が健康的に違いないと思い、いや、簡単に言えば私はあの小さなアパートメントから出ていきたくて、友人を通じて日本人女性を紹介して貰って、住み心地の良い、日当たりの良い明るいアパートメントを探したのだ。次に住む場所が見つかり月末が来ると私は独りで住んでいたアパートメントを後にした。とは言え、まだ入居手続きが完了していなかったので、一時的に住む場所が必要になり、私は友人の勧めでレジデンスクラブと言う場所に身を寄せた。此処はホテルのような場所だが、もっと格安。留学生などが利用する場所といった感じだった。そこで私は彼女と知り合った。私と彼女はすぐにピンとくるものがあって、帰り道でばったり会うとカフェに立ち寄ってみたりウィンドウショッピングをする仲になった。彼女は私より二つ上の日本人。小柄でスレンダーさんの彼女は、かっちりしたジャケットに洗いざらしの細身のジーンズを格好良く着こなす、お洒落の天才みたいな人だった。きついカールの長い髪を後ろの高い部分でキリリとひとつに結わき、キャップを被るとそのスタイルの良さや着こなしから、とても自分と同じ日本人には見えないと思った。一度彼女に誘われて買い物について行ったことがある。店じまいセールの最終日で、彼女が目をつけていたのは高級なジャケット。定価ならば到底手が出ないようなものだった。其れも今日が最終日となると私達のようなつつましい生活をしている学生にも手が出るような値段になっていて、彼女はそれを試着して私に見せた。それはもう格好いいの一言で、貴方は人を褒めるのが上手だと彼女は言いながら上機嫌になってそれを手に入れた。そんな素敵なジャケットが最終日まで残っていたのは、恐らくサイズが小さかったからだ。こんな小さなサイズを着こなせる人はこの街にはあまり居ないだろう。しかし其れでもこうした掘り出し物を見つけた彼女には脱帽で、やはり彼女はお洒落の天才なのだ、と再認識したものである。私と友人が新しいアパートメントに暮らすべくレジデンスクラブから出ていっても、私達の友人関係は続いた。私達が強いつながりだったかと言えばそうでもない。ただ、何かあると連絡を取り合い、顔をつけ合わせて話をして、ああ、やっぱりあなたと話ができてよかった、と思うような仲だ。大変落ち込んでどうにもなら無くなった私を外に連れだしてくれたのも彼女だ。此れからフットボールのプレイオフがあるから皆でユニオンストリートのスポーツバーに観戦に行こう、気分がすっきりするはずだから、との誘いで、実を言えばそんなものにはさらさら興味は無かったけれど、彼女の親切が嬉しくて迎えに来てくれた車に乗りこんだ。フットボールについてはどんなふうにゲームが終わったかすら覚えていない。覚えているのは彼女の恋人とその友人がゲームに夢中になっている傍らで、彼女が私の気分を持ち上げようと楽しい話を聞かせてくれたことだ。果たしてゲームが終わる頃には私は随分と元気になり、飲めないビールを飲んで彼女たちと乾杯したり夕食を楽しんで家に帰ってきた。そうした小さな彼女との忘れ難い思い出は沢山ある。最後に会ったのは24年前、そして最後に電話で話をしたのは多分18年前のことだろう。18年前は互いに深い問題を抱えていて、何となく纏まらない感じで電話を切って、其れっきりだった。別に喧嘩をしたでもないが、其れから連絡を取ることはなくなってしまった。元気で居ればいいと時々思いだしながらも。その彼女が電話をしてきたことに驚き、戸惑い、どうしたのかと訊けば、私の声を聞きたくなったと言うではないか。こんな嬉しいことってない。そんな人が地球の裏側に存在するのだと、心の中でサーフィンを愛する青年たちが喜ぶに違いないほどの大波がおこり、そして大波は私が近頃抱えて持て余していた全ての小さな思い悩みを呑み込んで去っていった。必要な時に彼女はどうしていつも登場してくるのだろう、と今日の私は思う。それが単なる偶然だとしたら、偶然ほど素敵なものは無い。彼女と私。最後に会った24年前の私達とは表情も姿が変わったに違いないが、気持ちはあの頃と同じ。たまに様子を見に来る相棒が呆れるほど沢山話した。1時間と17分。まだ話すことは沢山あったが、続きは次回にしようと頷きあって電話を切った。

昨日は色んなことを考えた。暫く停滞して色々が、何かの力によってぐいっと押し出されたような感じだ。そう言うことが時々ある。私の場合は5年や10年に一度の割合で、そう頻繁なことではないけれど。後は自力で前に進もう。それとも小さな奇跡を期待しようか。




人気ブログランキングへ 

肩を並べて歩く

DSCF1152 small


私はアイロン掛けが好きだ。これは昔からのことで、家族と一緒に暮らしていた頃も家じゅうのものにアイロンを掛けて大そう喜ばれたものである。それもアメリカへ行くとあまりしなくなり、しかしイタリア人の相棒と暮らすようになると再びアイロン掛けをするようになった。イタリアのアイロン掛け文化は深い。タオルや布巾、下着や靴下にまで掛ける徹底ぶりで、勿論ジーンズにアイロン掛けは当然の話だ。相棒と結婚して数年後にボローニャにやってきてその現実を知るなり、大変なことになったと思ったものだが、そもそも好きな部類の作業なのであまり量が多ければうんざりするものの、あまり苦痛を覚えることなく、休みの日にすいすいとこなすのだ。アイロン掛けをしながら普段見ることがあまりないテレビドラマを見るのがまた楽しい。先日テレビをつけたら、聞き覚えのある音楽が流れた。歌っている人こそ異なるが、それは80年代初期にアメリカのラジオをつけるとそればかり流れていたくらいの人気の曲で、かれこれ38年振りである。流行、例えばモーダなどは繰り返すものだが、音楽も然り。再びこの曲を耳にするとは思っても居なかったので、ちょっと感動だった。あれはいい時代だったと思う。豊かで、色んなことが可能だった時代だ。と、画面に釘付けになった。見覚えのある風景だった。それは17年ほど前に遡る。私が歩いた道。歩いた街。トロントだった。

当時、フィレンツェの職場に通っていた。人はそんな遠くまで、と言ったが、私は相棒に頼らずに自分の足で立つ手段としてフィレンツェ通いを選んだのだ。勿論、平日の朝の早起き、そして家に帰れば夜になっている生活は素敵ではなかったけれど、何しろ私は若くて元気だったし、収入を得る喜びと得た自信は格別だった。トロントには私の親友がその数年前から暮らしていた。彼女も私同様、自分の足で立ちたいタイプの人で、トロントに遊びに来て貰いたいがもう少し待ってほしい、もう少し自分らしさを取り戻してから、元気な自分を見て貰うために、と言っていた。だから、その彼女から、遊びに来ないか、との誘いが来た時は嬉しかった。彼女も居心地の良い環境を作り上げたらしい。その夏は何の予定もしていなかったが、昼休みに思いついて旅行会社に行ってみたら、格安ではないにしても魅力的な航空券が存在することを知り、その場で航空券を購入した。行ってみよう、彼女が暮らす街に。そして彼女と肩を並べて歩いてみようと思った。私が彼女に会いに行くことは、彼女を歓喜させたようだ。それから彼女は忙しくなり、私の為に小さなアパートメントを用意したり、コーヒーを何時でも淹れられるように道具を揃えたり。そう言うことはトロントに行った時に彼女の夫から聞かされたことだ。こんなに嬉しそうな彼女は見たことがないと。そうだ、私達はアメリカに居た時からの仲。良い面も悪い面もさらけ出して、喧嘩もした仲だから、簡単に言えば何でも話せる相手なのだ。隠す必要がない仲。そんな友を持てた私達はかなり幸運だった。彼女は仕事をしていたから、平日の昼間は私は独りで歩いた。オンタリオ湖に面した素晴らしい界隈を散策したり、トラムが走る通りをひたすら歩いたり。カフェに入ったり。湖の岸に腰を下ろして手紙を書いたり。その辺の人達と話をしてみたり。2週間という長いような短い滞在は、そんな毎日で楽しみに満ちていた。時には夕方に彼女と街角で待ち合わせして、肩を並べて歩いた。同じ街に暮らしていたら、時々こんな風に待ち合わせをして何処かでカッフェをしたり、ウィンドウショッピングを楽しめるのに、と彼女は嘆いたが、それは私も同様だった。トロントという街は私の肌に合う街だった。こんな街に暮らす彼女を羨ましく思いながらも、彼女がこんな街に暮らすことになったことを嬉しく思った。彼女によく合う街だ。私は時々こんな風に彼女に会いに来ればいい。私が振舞ったイタリアの食事に彼女も夫も喜んだ。いつかボローニャに来たらば、相棒がもっとおいしいのを振舞ってくれるからというと、ふたりは目を輝かせて必ず行くからと言ったものだ。
あれからもう17年も経つのか、と静かな吐息をつく。テレビの画面に映る街並みを懐かしく思い、彼女のことを懐かしく思う。彼女はあれから病気に罹り、ボローニャに来ることも叶わずに空のお月様になった。だから私はもうトロントに行くことはない。ずっとそう思っていたけれど、画面の街並みを見ていたら、もう一度行きたくなってきた。何がある訳ではないけれど。誰が待っていてくれるでもないけれど。もう一度あの街を歩きたいと思うようになった。良いことだと思う。そうすることで私が、彼女の不在の悲しみを乗り越えられるならば。

折角の土曜日に、晴れのち曇りのボローニャ。しかし、この季節は新緑が曇り空に良く映える。晴天の時よりも美しく見えるのだから、何が良くて悪いなんて言い難いのだと生活の中の小さな様々から教えられる。敷地内にある、昨年バッサリと切られたアカシアの樹。長い幹と短く切られた太い枝が数本、直立不動で立っているが、長いこと見るに堪えなかった痛々しい切り口から美しい緑が芽吹いた。まだほんの少しだけ。しかしこれから初夏に向かってどんどん増えていくに違いなく、自然の生命力の素晴らしさを感じる。来年の今頃は、アカシアの花を楽しむことが出来るだろう。




人気ブログランキングへ 

旧友マリオ

DSC_0045 small


今日は朝から風が強い。南東にあった大きな黒い雲の群れが風に乗ってぐんぐん動き、あっという間に家の真上までやって来た。雨が降るのか、と思えばそうでもなく、人々の気持ちを脅かしただけで、北西に向かって移動していった。どうやら今日はこんな一日になるらしい。黒い雲がやってきても雨は降らぬと分かっただけで有難い。しかし其れも夜になれば話は別だ。雨の予報がでているから。

古い知人にマリオという名の人が居る。マリオは相棒の旧友で、相棒がアメリカに行ってすぐに出会った人のひとりらしい。互いに若く、といってもマリオは相棒より少し年上で落ち着いていたから、相棒の道しるべになるような存在だったらしい。マリオ、マリオと名前だけはよく聞いていたが、相棒と知り合ってから直ぐにマリオにあった訳ではない。私達が結婚して少し経った週末か何かに、ふと思いついたように連れられて行った先がマリオのところだった。マリオは同じ街に住んでいた。しかも普通の人には家賃が高くて手が出ないような界隈の、有名な通りに面した場所に工房を持っていた。彼は画家だった。そうとも知らずに連れられて行って扉を開けた途端に鼻についた油絵の具の匂いに、私は心が固まり、足が前に出せずに困った。もう随分前のことなのに、絵を描くのを辞めたトラウマの類のものが、油絵の匂いを嗅ぐとアラームを発するのだ。相棒もマリオもそうとは知らずに入り口に佇む私を招き入れ、観念して中に入るとどしりと腰を下ろした。マリオは絵を描いていたが、その手を止めてこちらを向いた。2時間もマリオの工房に居た。マリオはこの工房の家賃はとんでもなく高いけれど、この場所がいいのだと言う。ここに居るとこの通りを散歩がてら立ち寄る上客が幾人も居るのだそうだ。そうしてふらりと立ち寄っては、個展を開かないかなどと話を持ってきたり、仕上がった絵をポンと買っていくらしい。そう言うことで彼は今も絵を描き続けることが出来るのだ、と言った。勿論、多くの芸術家がそうであるように週に数回は夕食時にレストランで働くそうだが、昼間の時間は誰にも邪魔されずに、じっくり腰を据えて絵が描けるんだ、といって彼は嬉しそうに笑った。とても丁寧な絵を描く人で、とても穏やかな性格な人だった。私達がアメリカ生活を畳むまでに何度か足を運び、時には近くのカフェに誘って休憩時間を楽しんだ。私達がアメリカを去ることで、マリオとの人間関係は終わったと思っていたが、ある日家の電話が鳴った。マリオからだった。マリオが相棒の家族の家に電話をしたら、この番号を教えてくれた、とのことであった。相棒は歓喜し、長いこと音信が絶えたことを詫びながら、大変興奮している様子だった。訊けばマリオがイタリアに暮らすようになったとのことだ。其れもフィレンツェに。行こうと思えば行ける場所にマリオが居ることに相棒は興奮して、貰った電話なのに相棒ばかりが話をしていた。あの電話の後、彼らはボローニャで再会したらしい。マリオがイタリアに戻って来たのは母親の病のためだった。あれほどアメリカでうまくやっていたマリオなのに、あっさりと35年のアメリカ生活のすべてを畳んでイタリアに戻って来たことに誰もが驚き、そして彼の優しさに感心した。あれから随分の年月が経つ。マリオは今も絵を描いているだろう。彼から絵を捥ぎ取ってしまったら、何が残るのかわからないと言っていたから。私が絵を辞めたのとは違うのだ。情熱という根本的な部分が。マリオのことを思いだしたのは、彼の絵によく似たものを先日街中で見かけたからだ。マリオの絵ではあるまいか、と彼の署名を探したが見つからなかった。フィレンツェへ行かないか、マリオに会いに行かないか。相棒に提案してみようと思う。今も彼はフィレンツェ市内の工房に居るだろう。車ならば1時間ほどで着く場所にマリオは居るのだから。彼が元気なうちに。相棒と私が元気なうちに。良いことは先延ばしにしてはならぬ。ということをここ数年学んでいるから。

私の試行錯誤は続く。イタリアに暮らして長くなったが、私の手の中は空っぽだ。勿論、様々な困難は乗り越えたし、生活にも困らなくなったし、良い人達に囲まれていて幸せだけど。其れだけでいいのかと訊かれれば、首をかしげてしまう。情熱というものから離れて長くなる。本当にこれで良いのか、一度立ち止まって考えてみたいと思う。




人気ブログランキングへ 

彼のこと

DSC_0020 small


空が明るいと気分も明るい。こんな当たり前のことに改めて気づいて苦笑する。窓の前に枝を自由奔放に伸ばす大きな栃ノ木。つい最近まではただの枯れ木に見えたのに、いつの間にか丸い芽をつけ、そしてそれが充分に膨らんで、我慢できなくなったかのように開く姿に心を打たれる。人間の心と同じだ。むくむくと育つ小さな夢が、ある日、開くように。開かぬ夢もあるかもしれない。でもポジティブに考えたいものだ。いつかきっとと思いながら夢を追うのは全然つまらないことではない。この栃ノ木。この樹が私に今の家に暮らすことを決めさせた。この栃ノ木を眺めながら暮らしてみたいと思ったのだ。だから、私の樹と呼んでいる。ただ、この樹はうちの敷地ではなく、隣の建物の敷地の限りなくうちの窓に近い場所に存在するという訳で、いつか隣の建物の住人会議で、何かの理由で切り倒すことになっても、私は反論する権利は全くない。出来ることと言えば、そんな残念なことが起きないことを祈るだけだ。

3月ともなると私が暮らしていたアメリカの街は大そう過ごしやすくなって、朝晩は霧が出て冷え込むにしても昼間は簡単なジャケットを羽織れば半袖シャツ姿で過ごすことが出来た。ボローニャの、相棒の幼馴染の随分年下の男の子がうちに泊まって英語の学校に通うことになったのは今頃の季節だっただろう。私は彼の姉さんにボローニャで会って知っていたが、彼に会うのは初めてのことで、そんな人がうちに転がり込むのが少々苦痛でもあった。空港に迎えに行った相棒が車に乗せて帰ってくるのが窓から見えて憂鬱だった。今までも色んな人と同居したというのに、何故だか彼を家に住まわせるのが嫌だった。私と相棒が結婚して1年も経っていなかったからかもしれない。そうして家に入って来たのは巻き毛のがっしりした骨格の青年で、英語力はゼロに等しかった。私だってアメリカに来たばかりの頃は酷いものだったが、しかし相手の言っていることは大まか理解できて、ただ、自分の英語に自信がなくて話が出来ないという類のものだった。彼の場合は違う。何しろ今まで英語を話そうと思ったことがなかったというから、納得だった。そんな彼だがとても前向きで、進んで手伝いはするし、重い荷物は当然のように持ってくれるし、何しろ親切。だからあっという間に周囲に馴染み、彼の人気は上がる一方だった。特に通いだした英語の学校では、どんなふうにして意思の疎通をしているのか知らないけれど、先生も生徒も彼にメロメロで、帰り道などはぞろぞろ女の子がついて歩いて来ると言った様だった。一度、彼にぞっこんの先生に訊いてみたことがある。彼のどこがそんなに魅力的なのかと。すると彼女は私の目が節穴なのではないかと疑うように私の顔をまじまじと見て、彼は大変魅力的、彼自身から滲み出る男らしさがとても素敵、とのことで私は開いた口が塞がらなかった。一度は家まで女の子が3人ついてきた。彼が好きならそれでいいけれど、どうもそうでもないらしい。相棒を通じて訊いてみると、女の子を邪険にするものではない、との彼特有の哲学があるらしく、遂には家までついて来てしまったと言うことらしかった。ボローニャでもこんなに人気があるのかと訊いたことがある。その質問に彼は大笑いして、僕が人気のある男だって?と訊き返すともう一度お腹を抱えて笑った。どうやらイタリアの男は、アメリカに行くとモテるらしい、と言うのが彼が周囲から仕入れた情報だった。そんな彼と一度歩いたことがある。私が歩くために外出しようとしたら、彼がついてきたと言うべきだろうか。私が歩くのは限りなく長いから、辞めた方がいいと言うのにも耳を貸さずに。どうやら彼なりに私と交友を深めたいと考えていたらしい。恐らく私が彼の存在をあまり宜しく思っていないのに気づいたのかもしれなかった。若いと言っても彼は既に20歳を過ぎていたが、しかし其れなりに吸収力が高いらしく、あれほど何も話せなかった英語をそれなりに話すようになっていた。私達はアメリカの暮らし、イタリアの暮らしなどを取りとめもなく話しながら坂道を上り、下った。ある坂道を登り切ると街並みを眺められる場所に出て、彼はあっと言ったきり口を噤んだ。これが私の好きな街。この街に住みたい、それだけの為に私は家族のもとを離れて此処に来た。今でも良かったと思っている。そんなことを誰に言うでもなく言葉にすると、君は強いな、僕は家族の住む街から離れるなんて考えられないよ、と言った。それは私に言ったと言うよりは、彼の呟きだったかもしれない。あの日を境に私達は互いが少しは分かるようになったのだろう。だから彼がボローニャに帰った時は残念だった。彼にとってあの1年にも満たぬアメリカの生活は大切な体験だったらしい。それも相棒と私が居なければ実現しなかったこととのことで、私と相棒がボローニャに引っ越してきた時は持て余すほどの歓迎と親切を受けることになった。ボローニャに来たはいいが軌道に乗れず葛藤する私に、彼が言った。君は強いな、いつも新しい環境の中に飛び込んで行く。彼にはそんな風に見えるのかもしれない、私と言う人間が。ただ、私に言わせれば、私は強くないけれど、無防備で怖いもの知らずなだけだ。
彼はどうしているだろう。数年前に彼の姉さんが新しい恋の為にボローニャを離れてローマに暮らすようになってから、すっかり音沙汰がない。元気ならばいいけれど。元気ならばまた会えるだろう。

無性に甘い苺が食べたくなった。イタリア産はもう出回っているだろうか。大きさも形もばらばらだけど、イタリア産の苺は本当に美味しい。そんな苺にありつけるのだから、イタリアに来たのは満更無駄なことではなかった、と言うことだ。




人気ブログランキングへ 

舅の存在

DSC_0032 small


テラスへと続く大窓を開けて部屋の空気を入れ替えていたら、アパートメントの敷地に車を止めて何やら詰め込んでいるロベルトと目が合い、手を振って挨拶を交わした。ロベルトとは、上階に暮らす洒落者の、あのロベルトのこと。年齢は未だに分から無いが、私と同じくらいか、それとも少し上、と睨んでいる。めっきり老け込んで冴えなくなったと数日前に思ったものだが、いやなに、多分向こうだって驚いたに違いない。お互いさまと言ったところだろう。太陽の陽を浴びて元気に活動するロベルトを眺めながら、元気と言うのは何よりも素晴らしいことだと思った。洒落ていようがあるまいが、元気があってこその話である。その点我が家は全滅。数日前に相棒が倒れ、その翌日に私も倒れた。相棒のは確実に世間で言うインフルエンツァで、私のは相棒に比べたらかなり軽症。インフルエンツァもどきと呼ぶといいだろう。日頃の健康ケアがこんな所に現れた。それから、おかしい、と思った時に無理をしないで体を休めたのも良かったのではなかろうか。兎に角、晴天の土曜日に車で何処かへ出かけるロベルトは、まだパジャマ姿で髪もぼうぼうの私に驚いているに違いなく、あれこれと質問もせずに、沢山休息をとるようにと言って車を走らせた。快晴。折角の快晴の週末に、全く残念な展開となった。

昔、そうだ、もう20年ほど前のことだ。2月だっただろうと思う。私が寝込み、そして病とは全然無縁の相棒も寝込んでしまった。高熱にやられたのである。すると昼前に誰かが家のベルを鳴らした。勧誘とか郵便屋さんだろうと放っておいた。此のベルの音は地上階の、建物の外にあるベルの音だったから、放っておけば退散するだろうと思ったのだ。すると少しして、今度は各家に取り付けられたベルが鳴った。恐らく誰かが中に入れてあげたのだろう、ベルの主はうちの前まで来てしまった。と、相棒が言う。誰だい。具合が悪いんだよ。面倒臭い話だったらごめんだよ。すると、しゃがれた弱々しい声で、開けてくれよ、重くてもう限界なんだ、と返ってきた。舅の声だった。驚いて扉を開けると舅が大きな袋をふたつも手に提げて立っていた。どうしたんだいと相棒が訊くと、ふたりとも寝込んでいると聞いたから栄養をつけなくてはと思って買い物をしてきたのだとのことだった。思いがけないことだった。其れと言うのもあの当時の舅は、私達のことをあまり快く思っていなかったからで、何でアメリカからボローニャに来たのだくらいに考えていたからだった。面倒臭い奴ら。そのくらいの評価だった筈だ。さて、其のふたつの袋の中には、彼の行きつけの店で買いこんだ様々なものが入っていた。パルマのチーズに生ハム。新鮮な卵と野菜、パンと果物。そして作ったばかりの自家製ラグーとブロード。重くて限界だとの言葉が納得できるような内容だった。ありがとう、父さん、ありがとう、と礼を言う相棒。私は夢でも見ているような気分で声も出なかった。兎に角、栄養をつけて早く元気になるんだな。そう言ってさっさと出ていった。私達は顔を見合わせて、どんな風の吹き回しなのかと驚いたものだった。その食料品のおかげで私達は毎日の食事にも困らず、数日後には元気になり、いつもの生活に戻ることが出来たのを今も忘れていないし、これからも忘れることはない。あんなに意地悪なことばかり言っていた舅だったけれど、彼はただ、素直に気持ちを表現できないだけだったのかもしれない、と今は思う。その証拠に晩年の彼と私は一番の仲間になり、何か困ったことがあれば真っ先に相談しあったものだから。悪い人じゃなかった。ただ、素直に言葉にできないだけの、不器用な人だったのだ。今はもう居ない彼を思う。彼がまだ生きていたら、あの日のように袋を抱えて飛んできてくれたに違いない。栄養をつけなくちゃいけないよ、と言って。

健康が取り柄の相棒が寝込んだ。彼はすっかり落ち込んでいて、まるで唯一の取り柄をむしり取られたように弱気だ。大丈夫よ、今までが元気過ぎただけ。妻のそんな言葉も単なる気休めにしか聞こえないようだ。気持ちは分から無くもない。暫くそっとしておくことにしよう。そのうち元気になったらば、またいつもの彼に戻って大きなことのひとつも言うだろう。そうしたら、ちょっと土曜日の昼の食事のために郊外に誘いだして、元気に乾杯などして、楽しい時間でも過ごしてみようと思う。




人気ブログランキングへ 

Pagination

Utility

プロフィール

yspringmind

Author:yspringmind
ボローニャで考えたこと。

雑記帖の連絡先は
こちら。
ysmind@gmail.com 

フリーエリア

月別アーカイブ

QRコード

QR