箱を見つけた

DSC_0031 small


思いがけぬことが起きている。例えばイタリア国内外で起きている山火事。それから古い建物の崩壊。どれもこれも普段の生活の上で用心していても防ぐことが出来なかったこと。少なくとも私にはそんな風に思える。この世の中には、そんなことが沢山ある。だから、例えば計画通りに物事が進まないことくらいで文句を言ったりがっかりしない方がいい。そんなことは実に小さなことなのだ、予定とは少々異なっていてもどうにかなるよいうことならば。少なくとも私はそう思っている。妥協ではない。考え方をちょっと変えるだけ。それを柔軟と私は呼ぶのだけれど、それがどの相手にも通じるとは限らない。しかし、それもありだ。みんな違う考え方を持っていて当然なのだから。

数日前、見せたいものがある、と言いながら相棒が帰ってきた。パスタを茹でようと思って、たっぷりの水を入れた大鍋を火にかけところだった。見せたいものがあると言ったくせに、相棒はもじもじして、なかなか見せない。不審に思って詰め寄ると、両手で持てるほどの箱を目の前に差し出した。薄茶色の使い古しの箱で、どうやら何処かの誰かが小荷物発送に使ったものらしかった。何だろうと箱に貼られた宛先を読んでみたら、古い住所が、ローマから戻ってきたころに住み始めて10年も居た、私達のあの住所が記されていた。私宛の小包だった。見覚えのある筆跡。はっと思い当たるものがあって小さく貼られた送り主を見て胸がきゅっと熱くなった。送り主は私の大切な友人だった。2004年12月24日の消印で、トロントの郵便局から送られてきたものだった。箱の中にはアメリカの古いラジオの部品が入っていた。相棒がアメリカの、50年代のラジオを修理しようと思って部品を探していて見つけたのだと言った。確かに相棒は、こうした箱があると、捨ててはいけないよ、部品を入れるのに使うんだから、と決して捨てようとはしないのだ。この箱もこんな風にして、相棒は部品入れに再利用したのだろう。
友人との付き合いは長い。1992年にアメリカで知り合って以来の中で、私達は一緒のアパートメントにも住んだことがある、良いところも悪いところも了解の仲。幾度も仲違いをして距離を置くのに、どちらからともなくまた接近する。彼女も私も時間が解決してくれることを知っていた。日本に帰った彼女は結婚して、それを機にトロントに住むことになったのは、私がボローニャに暮らし始めて何年も経った頃で、まだ、世間の人達がごく当たり前のように手紙を書く習慣があった頃だ。夫に連れ添ってトロントの生活を始めたが、色んなことがうまくいかなくて辛い、と彼女は手紙に書いた。そんな時、大丈夫、住めば都だから、などと書いて彼女を励ましたものだけど、実は私こそ、何時まで経ってもボローニャの風習に馴染めなくて悩んでいた。彼女が良い仕事に就いて、もう少し生活に都合の良い場所に住まいを移したと知らされた時はなんと嬉しかったことだろう。そうして間もなくトロントに夏がやってくるという頃、ふと思いついて休みを取ると、私は彼女に会いに行った。大きなトロント湖から数ブロックの、街中のアパートメント。夫婦と同じ建物に小さなアパートメントを用意してもらった。本当ならば短い滞在では貸さないらしいが友人がうまく交渉してくれたのだ。木造の階段を上るとぎしぎし言って懐かしい感じのするアパートメントだった。2週間弱の滞在中のことは今も何ひとつ忘れていない。どんな小さなことだって忘れてしまいたくないと思っている。その中で今でも時々何かの拍子に思い出すことがある。彼女と私が近所の店を覗きながら散策していた時のことだ。彼女は言いたいことをストレートに表現するのを躊躇っていたから、私にもそういうことがある、だけど本当はこういうことなのだ、と自分の話にすり替えて言うと、彼女は小さな溜息をついて、どうしてあなたにはわかるんだろう、どうして私の心の中が分かるんだろう、と泣きそうな顔をした。それはどんなに夫に説明しても分かって貰えなかったことらしく、ひとりで苦しんでいたことらしかった。彼女は少しづついろんな話をしてくれた。私達が離れていた間にあったこと、考えたこと。そして、あなたが近くに居たらどんなにかいいだろう、と言うので、近くに居たらまた仲違いするでしょう? と揶揄うと彼女はあははと向日葵のような明るい笑顔を見せながら涙を零した。私がそのことを思いだすのは、私は遠くに住んでいるけれど、いつも近くに居るからと彼女に誓ったからだ。それがどんなに彼女を喜ばせたか私は知っている。飛行場まで送ってくれた彼女の夫までもが、彼女がそれをどんなに嬉しかったかを知っているくらいだった。色んなことが順調にいっていた筈だったのに、空のお月様になってしまった友人。だから私は言うのだ。予定外のこともある。仕方のないこともある。でも、どうにかなることなら、いいじゃない。友人の不在は、私にとってはどうにもならないことで、あれからもう何年も経つのに、心の整理ができていない。整理はできていないけれど、私はもう泣かない。泣いたら彼女が悲しむから。泣かないように心に誓ったのだ。この箱を棚に見つけて、相棒は柄にもなく涙が零れそうになったらしい。彼女が帰ってきたような気がする、と。ねえ、あなた。小さなことで悩んだり怒ったりしないことよ、と私と相棒に語り掛けているような気がしてならない。

風に膨らんでは萎むレースのカーテン。こんな気持ちの良い夕方ってあるだろうか。猫はテラスで涼しい風に吹かれながら何を考えているのだろう。長く細い尻尾を空に向けて、ゆらゆら揺らす。この家に来てよかったとか考えているのだろうか。それとも、外を散歩したいとか。お腹が空いたなあ。案外そんなことかもしれない。




人気ブログランキングへ 

彼のこと

DSC_0003.jpg


ジャスミンの花が満開だ。窓を開けると四方八方から匂いが流れ込んでくる。自分のうちのテラスからと、上階の住人のテラスからと、それから多分近所の庭にもあるのだろう。この家に住み始めて3年が経とうとしているけれど、こんなにジャスミンの花が咲いたのも、こんなににおいを放っているのも、これが初めてのことだ。今年のジャスミンは機嫌がいい、と言ったら相棒が笑った。あはは。そんなことを言うのは世界で君くらいしかいないだろうね、と。

数日前の晩、食事中に相棒が急に懐かしい名前を言った。私達は愛称で呼んでいたが、正しくは実に美しい音の名前である。彼が旧市街の小さなアンティークの店を閉めてから、もう何年にもなる。閉めた理由は何だっただろうか。もう忘れてしまった。彼は相棒の友人で、ふたりは仕事上でも繋がりがあったから、本当に頻繁に会い、電話で話もしていた。それは彼が店を閉めてからも続いていたが、彼が本職なのか、趣味なのか、役者業の為にフランスへ行ってから会うこともなくなってしまった。フランスの次にはローマ辺りへ飛び、なんだ、彼は随分と活発なんだな、と相棒と私は目を丸くしていた。私達は彼のことを、少なくとも活発な人ではないと思っていたからだ。本を読むのが好きで、いつもじっとしている。おとなしい子犬みたいな。そんな印象の人だったから。旧市街を歩いていた時に大きな声で彼に呼び止められたのは、いつだっただろう。多分3,4年前のことだ。暑い夏の夕方で、何しろ私は先を急いでいたから、あら、久しぶりねえ、今度一緒に食事でもしましょうよ、と言って別れて、それっきりだった。それで、その彼が数日前に電話をよこしてきたそうだ。彼の父親が病で亡くなり、母親とふたりきりになった。人が羨むほどだった両親が作り上げた財産は、悪い人に騙されて失ってしまったそうだ。病の夫を支えながら、会社も支えていた彼の母親は、もう疲れ切ってしまったらしい。もう、本当に何もないんだよ、とのことだ。残ったのは祖父から譲り受けた家だけらしい。私達からすれば、家だけと言っても広い土地付きの大きな一軒家だから、十分ではないかと思うけれど、大きな財産を持っていた人たちにしてみれば、これだけしかない、と言うことになるのだろう。兎に角、母親は疲れ切っていて、彼女が愛する暖かい土地へ移り住みたいと毎日のようにこぼしているそうだ。残りの人生を暖かい土地で。シチリアが良いそうだ。シチリアに生まれて育ったわけでもない、生まれも育ちもボローニャだけれど、彼女はシチリアが好きなのだそうだ。それは分かるような気がする。あの太陽の日差し。私だって大好きだ。檸檬色の風。ボローニャとは確実に違う生活が存在するに違いない。優しい彼のことだから、母親の為に、本当にシチリアに移り住むかもしれない。人を疑うことを知らない、この真面目で善良な家族が、こんな状況になっていると知って相棒と私はすっかり落ち込んでしまった。私達に何かできるだろうか。今度家に呼んでみようか。それとも旧市街で待ち合わせをして、美味しいワインでも頂こうか、以前私達がよく夕方に落ちあって、食前酒を楽しんだように。どうでもいい話に笑い転げて、あーあ、君は本当に気楽でいいね、と言われたことが幾度もある。違うわよ、今までが大変だったから、気楽にすることにしたのよ。私がそう言葉を返すと、君の気楽に乾杯、などと言ってグラスを高く掲げた彼。彼が今の状況に潰されずに、気楽さを忘れないでいてくれればいいと思う。

どこか遠くで花火が打ち上げられているらしい。随分沢山の花火が。お祝い事だろうか。それとも祭りだろうか。ああ、夜遅くまで楽しむ、そんな季節になったのだなあ。




人気ブログランキングへ 

野生のアスパラガスを探したこと

DSC_0046 small


晴天の復活祭。22年ほどイタリアに居るけれど数えるほどしか記憶にない。復活祭は雨が降る、というのがいつの間にかスタンダードになった。それだから、午後バールに立ち寄ったら、驚いたね、復活祭なのに晴れたね、と店の人も客たちも、その話題で持ちきりだった。そういえば金曜日の夕方にクリーニング屋さんに立ち寄った時も同じような話をした。復活祭? たぶん雨になるでしょ。そんな風に。晴れた復活祭。たったそれだけでなんと嬉しいことか。

ふと思い出したことがある。私がローマに暮らしていた頃のことだ。復活祭の連休だっただろうか、それとも別の連休だったのだろうか。私は同居人に連れられて近郊の町に行った。そこは彼女の家族が暮らす、緑の濃い、自然豊かな美しい町だった。途中で小さな八百屋さんに立ち寄って、数種類の春野菜を買った。私が小さな店で買い物をするのが好きになったのは、多分この時期からだろうと思われる。スーパーマーケットでは存在しない店主と彼女のやり取りを眺めながら、面白いと思ったから。春野菜の夕食を堪能してから、すっかり暗くなった旧市街を歩いた。春とはいえ、夜も10時を過ぎると冷え込んで、薄いジャケットの襟を立てて歩いた覚えがある。翌日、彼女の家族が持つ山の家に行った。私たちが2匹の犬を連れて山道を歩いたのは野生のアスパラガスを探していたからだった。なかなか見つからなかったが、見つかりだしたらあちらにもこちらにも見つかって、短時間で籠が一杯になった。見たことのないものだったし、見た感じ貧弱で美味しそうにも見えなかったが、夕食に出てきたそれは今までのどんな野菜よりも美味しいと思った。そうでしょう? と、彼女は私が美味しいと言って頬張ることを喜び、彼女の父親は娘が連れてきた東洋人がこうしたものを喜んで食べることを面白そうに眺めていた。
もう20年以上前のことで、すっかり忘れていたことだ。彼女は私を不憫に思っていたのだろう。結婚しているのに相棒はボローニャに居て、私はローマに居ること。ときどきしか会えないこと。別に喧嘩して別居しているわけでもないのに。だから、こんな風にして家族の家に連れて行ってくれた。夜、近所の映画館に誘ってくれたのも彼女だ。サンフランシスコが舞台の映画だからと言って。ただ、情報不足で、それが恐ろしく恐ろしい映画だとは彼女も私も知らず、ふたりで腕を組んで震えながらアパートメントに戻らねばならなかったけれど。そうして帰ってみれば、いつもは5人もいるアパートメントに誰もいなくて、一晩中怖い思いをしたけれど。これも長いこと思い出さなかったことだ。考えてみれば、私は彼女にとてもよくして貰ったと思う。復活祭を機に、彼女に深く感謝したい。

夜中になって、驚くような稲光が空を走ったかと思ったら、大粒の雹が降りだした。大粒の雹が日除け戸や雨戸を叩き、私と猫を不安がらせた。まるで空から大きな石が落ちてきたような音だった。怖がりの猫、大きな音が嫌いな猫は、背後から私のコットンセーターの中に潜り込んでじっと息を潜めている。あーあー。セーターが伸びてしまう。と、思いながらも何処よりも私の背中を安全地帯に選んでくれたことを嬉しく思った。




人気ブログランキングへ 

メッセージが届いた

DSC_0035 small


ここ数日のボローニャの気候には閉口している。暖かくてコートを脱いで歩けるようになったかと思えば、気温が思うように上がらない。例えば昨日がそうだ。一日中曇り空で底冷えがした。夕方には冷たい風が吹いて、暖かいコートを着てこなかったことを後悔したものだ。数日前はジェラートを買い求める人の列ができていたが、それよりも温かいスープが欲しくなるような夕方だった。油断大敵、というのはこの季節のことだ。うっかりして風邪などひいたら大変。もう少し様子をみなくてはならないと思う。

昨晩、メッセージが届いた。送り主は古い知り合いで、私がローマに居たころ世話になった人である。もう21年も前のこと。知人といっても単なる知人ではない。言うなれば私が働いていた会社の上のポジションの人で、間接的な上司であって、古くからローマに暮らす彼は多くの人から慕われたり頼りにされたりする、私からすれば手の届かないような人だった。忘れられないことがある。何かの名前の綴りを電話口で言われたが、私にはさっぱり分からなかった。ゆっくり言ってくれたにも拘らず。アメリカでは、A apple, B boyなどと綴りを説明するけれど、イタリアではappleだのboyだの言わずに、地名を使って説明する。A ancona, B bologna, C comoといった具合に。当時の私はまだそれを知らず、知人がいきなり電話口で沢山の地名を言い出したことに目を白黒させるばかりだった。全然分からなかったことを白状したのは、それから何日も経ってからのことだ。分からなかったことをすぐに言えなかったのは、当時の私がイタリア語やイタリア文化を全然吸収できなかった劣等感からくるものだったのではないだろうか。私が分からなかったことを知人は怒らず、分からないといわなかったことにも怒らず、恥ずかしがるな、分からないことは恥ずかしいことではないと言ってくれた。ああ、この人は親切な人だ、と思った瞬間だった。ローマに居た頃の私は、誰からも良くして貰った覚えがある。そして、この知人もそのひとりだった。誰か大切な人の接待に、おまけか何かで連れて行って貰ったことがある。いつまでも明るい夏の夕方、ヴェネト通りのレストランのテラス席。冷たい白ワインを頂いたことばかり覚えているのは、そんな雰囲気が私の知っているボローニャにはないからだろう。あれはやはりちょっと素敵で、ちょっと華やかで、やはりローマならではのものなのだ。ローマの仕事を辞めてボローニャに戻った私を、その数年後フィレンツェの仕事に誘ってくれたのもこの知人だった。あまり接点がなく遠い存在と思っていたけれど、なんだかんだ言って、私はこの知人に感謝すべきことが沢山ある。イタリアに来たばかりの頃の私は、自分をツイていない人間と思っていたけれど、そんなことはない。気が付かなかっただけだ。私は様々な人に守られていたのだ。知人から届いたメッセージを読みながら、そんなことを思い出していた。

春物のショーウィンドウを眺めながら心に誓う。数週間のうちに冬の間に蓄積した贅肉解消しようと。モカシンシューズを素足を履くころまでに。春はやはり軽快が似合う。




人気ブログランキングへ 

新芽

DSC_0071.jpg


寒がりの私が冬のコートを止めて、薄いトレンチコートを着るようになった。春になった証拠である。見回せば、周囲の人々はひと足もふた足も先に春の装いになっていたようであるが、遅すぎることはあるまい。私は私のペースで春を感じればよいのだから。居間の窓の前の栃ノ木は、秋に葉がすっかり落ちて以来、丸裸だった。ところが2日前、枝の先っぽに緑色の玉のようなものが着いているのを見つけた。その不思議な様子にどんな展開があるのかと楽しみに観察していたところ、今朝緑色の玉はふっくらと、まるで花弁のように開かせた。新芽だった。春だ、春だと新芽が歌っているようで、見ている私まで嬉しくなった。春はいい。寒い冬が終わった後に訪れる春は誰にとっても嬉しいものに違いない。

一昨日、相棒が地下倉庫からお酒を持って上がってきた。それは細い深緑色の瓶で、2001とラベルが貼られていた。明らかに私が書いた数字だった。ジーノのNocino。相棒と私の古い友達であるジーノが作った胡桃のお酒。木から落ちた胡桃の実を拾い集め、90度のアルコールに浸けて作ったものだ。なかなか手間が掛るそれを、分けて貰えるのは全く有難いことだった。ジーノと知り合ったのは、まだ相棒と私がアメリカに暮らしていたころ。結婚を前にして私が初めてボローニャに訪れた時のこと、1993年のことだ。ジーノは相棒の幼馴染の恋人だった。背がひょろりと高くて何を考えているのかよくわからない、というのが私が得た彼の印象だったが、おそらくジーノも私のことを何を考えているのかよくわからない外国人だと思ったに違いない。私たちがアメリカの生活を引き払ってボローニャに来ると、私たちの交流は深いものになった。ジーノと彼の恋人と私たちは、本当にいつも一緒だった。だからジーノが恋人と別れたとき、私たちは困ってしまった。何故ならどちらも同じくらい好きだったからだ。結局恋人はローマに仕事を得てボローニャから出て行ってしまったから、ジーノとの交流だけが残った。山に暮らしていた彼は週末になるとやってくる私たちを歓迎してくれた。庭で肉を焼いたり、山のお祭りに行ったり。私たちの分もお願いね、と冗談で言った一言を真に受けて、毎年律儀にNocinoを作っては、瓶に詰めて分けてくれた。そして家に帰ると私はラベルを張るのだ。2001というのは2001年のNocinoという訳だ。コルクを抜くといい匂いがした。ジーノのお酒。小さなグラスに注いで舐めてみたら、驚くほど美味しかった。ジーノとは、2010年くらいまで、まるで兄弟のように付き合っていたが、いつの間にか疎遠になってしまった。それを私は寂しいとずっと思っていた。言葉にこそ出さないけれど相棒もまた寂しいと思っているに違いなく、いつか再び昔のように友達付き合いができればいいのにと思いながら、年月だけが過ぎていく。一昨日思いがけずジーノのお酒を頂いて、そんなことを思い出していた。ジーノは。ジーノは私たちのことを思い出すことはあるのだろうか。そうであればいいのに。春になると木の枝に新芽が出るように、私たちの友情にもそんな新芽が出るといいのに。

それにしたって週末はあっという間に過ぎていく。これは世界共通。楽しい時間とはそういうものなのかもしれない。




人気ブログランキングへ