野生のアスパラガスを探したこと

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晴天の復活祭。22年ほどイタリアに居るけれど数えるほどしか記憶にない。復活祭は雨が降る、というのがいつの間にかスタンダードになった。それだから、午後バールに立ち寄ったら、驚いたね、復活祭なのに晴れたね、と店の人も客たちも、その話題で持ちきりだった。そういえば金曜日の夕方にクリーニング屋さんに立ち寄った時も同じような話をした。復活祭? たぶん雨になるでしょ。そんな風に。晴れた復活祭。たったそれだけでなんと嬉しいことか。

ふと思い出したことがある。私がローマに暮らしていた頃のことだ。復活祭の連休だっただろうか、それとも別の連休だったのだろうか。私は同居人に連れられて近郊の町に行った。そこは彼女の家族が暮らす、緑の濃い、自然豊かな美しい町だった。途中で小さな八百屋さんに立ち寄って、数種類の春野菜を買った。私が小さな店で買い物をするのが好きになったのは、多分この時期からだろうと思われる。スーパーマーケットでは存在しない店主と彼女のやり取りを眺めながら、面白いと思ったから。春野菜の夕食を堪能してから、すっかり暗くなった旧市街を歩いた。春とはいえ、夜も10時を過ぎると冷え込んで、薄いジャケットの襟を立てて歩いた覚えがある。翌日、彼女の家族が持つ山の家に行った。私たちが2匹の犬を連れて山道を歩いたのは野生のアスパラガスを探していたからだった。なかなか見つからなかったが、見つかりだしたらあちらにもこちらにも見つかって、短時間で籠が一杯になった。見たことのないものだったし、見た感じ貧弱で美味しそうにも見えなかったが、夕食に出てきたそれは今までのどんな野菜よりも美味しいと思った。そうでしょう? と、彼女は私が美味しいと言って頬張ることを喜び、彼女の父親は娘が連れてきた東洋人がこうしたものを喜んで食べることを面白そうに眺めていた。
もう20年以上前のことで、すっかり忘れていたことだ。彼女は私を不憫に思っていたのだろう。結婚しているのに相棒はボローニャに居て、私はローマに居ること。ときどきしか会えないこと。別に喧嘩して別居しているわけでもないのに。だから、こんな風にして家族の家に連れて行ってくれた。夜、近所の映画館に誘ってくれたのも彼女だ。サンフランシスコが舞台の映画だからと言って。ただ、情報不足で、それが恐ろしく恐ろしい映画だとは彼女も私も知らず、ふたりで腕を組んで震えながらアパートメントに戻らねばならなかったけれど。そうして帰ってみれば、いつもは5人もいるアパートメントに誰もいなくて、一晩中怖い思いをしたけれど。これも長いこと思い出さなかったことだ。考えてみれば、私は彼女にとてもよくして貰ったと思う。復活祭を機に、彼女に深く感謝したい。

夜中になって、驚くような稲光が空を走ったかと思ったら、大粒の雹が降りだした。大粒の雹が日除け戸や雨戸を叩き、私と猫を不安がらせた。まるで空から大きな石が落ちてきたような音だった。怖がりの猫、大きな音が嫌いな猫は、背後から私のコットンセーターの中に潜り込んでじっと息を潜めている。あーあー。セーターが伸びてしまう。と、思いながらも何処よりも私の背中を安全地帯に選んでくれたことを嬉しく思った。




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メッセージが届いた

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ここ数日のボローニャの気候には閉口している。暖かくてコートを脱いで歩けるようになったかと思えば、気温が思うように上がらない。例えば昨日がそうだ。一日中曇り空で底冷えがした。夕方には冷たい風が吹いて、暖かいコートを着てこなかったことを後悔したものだ。数日前はジェラートを買い求める人の列ができていたが、それよりも温かいスープが欲しくなるような夕方だった。油断大敵、というのはこの季節のことだ。うっかりして風邪などひいたら大変。もう少し様子をみなくてはならないと思う。

昨晩、メッセージが届いた。送り主は古い知り合いで、私がローマに居たころ世話になった人である。もう21年も前のこと。知人といっても単なる知人ではない。言うなれば私が働いていた会社の上のポジションの人で、間接的な上司であって、古くからローマに暮らす彼は多くの人から慕われたり頼りにされたりする、私からすれば手の届かないような人だった。忘れられないことがある。何かの名前の綴りを電話口で言われたが、私にはさっぱり分からなかった。ゆっくり言ってくれたにも拘らず。アメリカでは、A apple, B boyなどと綴りを説明するけれど、イタリアではappleだのboyだの言わずに、地名を使って説明する。A ancona, B bologna, C comoといった具合に。当時の私はまだそれを知らず、知人がいきなり電話口で沢山の地名を言い出したことに目を白黒させるばかりだった。全然分からなかったことを白状したのは、それから何日も経ってからのことだ。分からなかったことをすぐに言えなかったのは、当時の私がイタリア語やイタリア文化を全然吸収できなかった劣等感からくるものだったのではないだろうか。私が分からなかったことを知人は怒らず、分からないといわなかったことにも怒らず、恥ずかしがるな、分からないことは恥ずかしいことではないと言ってくれた。ああ、この人は親切な人だ、と思った瞬間だった。ローマに居た頃の私は、誰からも良くして貰った覚えがある。そして、この知人もそのひとりだった。誰か大切な人の接待に、おまけか何かで連れて行って貰ったことがある。いつまでも明るい夏の夕方、ヴェネト通りのレストランのテラス席。冷たい白ワインを頂いたことばかり覚えているのは、そんな雰囲気が私の知っているボローニャにはないからだろう。あれはやはりちょっと素敵で、ちょっと華やかで、やはりローマならではのものなのだ。ローマの仕事を辞めてボローニャに戻った私を、その数年後フィレンツェの仕事に誘ってくれたのもこの知人だった。あまり接点がなく遠い存在と思っていたけれど、なんだかんだ言って、私はこの知人に感謝すべきことが沢山ある。イタリアに来たばかりの頃の私は、自分をツイていない人間と思っていたけれど、そんなことはない。気が付かなかっただけだ。私は様々な人に守られていたのだ。知人から届いたメッセージを読みながら、そんなことを思い出していた。

春物のショーウィンドウを眺めながら心に誓う。数週間のうちに冬の間に蓄積した贅肉解消しようと。モカシンシューズを素足を履くころまでに。春はやはり軽快が似合う。




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新芽

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寒がりの私が冬のコートを止めて、薄いトレンチコートを着るようになった。春になった証拠である。見回せば、周囲の人々はひと足もふた足も先に春の装いになっていたようであるが、遅すぎることはあるまい。私は私のペースで春を感じればよいのだから。居間の窓の前の栃ノ木は、秋に葉がすっかり落ちて以来、丸裸だった。ところが2日前、枝の先っぽに緑色の玉のようなものが着いているのを見つけた。その不思議な様子にどんな展開があるのかと楽しみに観察していたところ、今朝緑色の玉はふっくらと、まるで花弁のように開かせた。新芽だった。春だ、春だと新芽が歌っているようで、見ている私まで嬉しくなった。春はいい。寒い冬が終わった後に訪れる春は誰にとっても嬉しいものに違いない。

一昨日、相棒が地下倉庫からお酒を持って上がってきた。それは細い深緑色の瓶で、2001とラベルが貼られていた。明らかに私が書いた数字だった。ジーノのNocino。相棒と私の古い友達であるジーノが作った胡桃のお酒。木から落ちた胡桃の実を拾い集め、90度のアルコールに浸けて作ったものだ。なかなか手間が掛るそれを、分けて貰えるのは全く有難いことだった。ジーノと知り合ったのは、まだ相棒と私がアメリカに暮らしていたころ。結婚を前にして私が初めてボローニャに訪れた時のこと、1993年のことだ。ジーノは相棒の幼馴染の恋人だった。背がひょろりと高くて何を考えているのかよくわからない、というのが私が得た彼の印象だったが、おそらくジーノも私のことを何を考えているのかよくわからない外国人だと思ったに違いない。私たちがアメリカの生活を引き払ってボローニャに来ると、私たちの交流は深いものになった。ジーノと彼の恋人と私たちは、本当にいつも一緒だった。だからジーノが恋人と別れたとき、私たちは困ってしまった。何故ならどちらも同じくらい好きだったからだ。結局恋人はローマに仕事を得てボローニャから出て行ってしまったから、ジーノとの交流だけが残った。山に暮らしていた彼は週末になるとやってくる私たちを歓迎してくれた。庭で肉を焼いたり、山のお祭りに行ったり。私たちの分もお願いね、と冗談で言った一言を真に受けて、毎年律儀にNocinoを作っては、瓶に詰めて分けてくれた。そして家に帰ると私はラベルを張るのだ。2001というのは2001年のNocinoという訳だ。コルクを抜くといい匂いがした。ジーノのお酒。小さなグラスに注いで舐めてみたら、驚くほど美味しかった。ジーノとは、2010年くらいまで、まるで兄弟のように付き合っていたが、いつの間にか疎遠になってしまった。それを私は寂しいとずっと思っていた。言葉にこそ出さないけれど相棒もまた寂しいと思っているに違いなく、いつか再び昔のように友達付き合いができればいいのにと思いながら、年月だけが過ぎていく。一昨日思いがけずジーノのお酒を頂いて、そんなことを思い出していた。ジーノは。ジーノは私たちのことを思い出すことはあるのだろうか。そうであればいいのに。春になると木の枝に新芽が出るように、私たちの友情にもそんな新芽が出るといいのに。

それにしたって週末はあっという間に過ぎていく。これは世界共通。楽しい時間とはそういうものなのかもしれない。




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彼女と私

雨が静かに降っている。何時から降り始めたのか気が付かぬほど、静かな雨。細く長く降り続けている雨を窓から眺めていると、私は少し複雑な気持ちになる。もしあの時、こうしていたら。もしあの時、私が其処に行かなかったら。後悔とは違う、一種の仮定法みたいなもの。人からすればどうでもよいような小さなことに、心を揺らす。こんな雨の降る晩は、時々そんな気分になる。私だけだろうか。世界の何処に同じような人はいるだろうか。

私が暮らしていたアパートメントは坂に面して建っていた。アメリカに暮らして二軒目のアパートメントのことである。階段を数段上がったところがエントランスで、入って右手に郵便受けが幾つもあって、左手には階段があった。エレベーターも備え付けられていたが、一度も使ったことが無い。最上階といっても4階だったし、私は2階に住んでいたから、若かった私は階段を上ることにまったく苦痛を感じていなかったからだ。25年も前の話なのだ。木製の床で、激しく歩くとぎしぎし言った。大きな出窓があって、天気の良い日は窓に腰掛けて、本を読んだりお喋りを楽しんだ。私は他のふたりと共同生活をしていた。私たちは皆、節約を強いられている身だったが、その中でも私がいちばん切り詰めていたと言ってよい。けれどもそんな生活が少しも苦痛ではなかったのは、やはり若かったからだろう。それから自力で何かをしている実感が、私を強く励ましていたのかもしれない。貯金がもっとあったらどんなに良いかと思いながらも、私はそんな生活を楽しんでいたのかもしれないと今は思う。一緒に暮らしていた友人は、私よりも更に若く、どんなことにも怖気づかなかった。そんな彼女をとても羨ましいと思っていた。どんなことにも真っ直ぐで、思ったことを言葉にする彼女。私には出来ないと思っていた。彼女のような自信は何処を探しても見つからなかった。自信とは面白いもので、自信が無いと思うとあれよあれよと言う間に消滅してしまう。反対に、自信があるときといったら、雪だるま方式で大きく膨れ上がり、いったい何処にそんな自信を隠し持っていたのだろうと自分でも驚いてしまうのである。私は彼女と一緒に居ると益々自信が首をもたげてしまうのだった。そんな自分がとても嫌いで、こういうタイプの人と一緒に住んでしまった自分を、失敗したと責めたこともある。快活な性格の彼女だ。いつも誰かが彼女の部屋に出入りしていた。その中のひとりがシボルだった。香港生まれ香港育ちのシボル。豊かな家のお嬢さんらしく、身につけているものが洗練されていた。そもそも大変美しい姿をしていたので、街を歩いていると誰もが一瞬小さく振り返った。背丈があってスレンダー、腰の位置が大変高くて足がすらりと長かった彼女。スリムなジーンズに飾り気の無い白いシャツ。それに紺のジャケットを着ると、まったくさまになった。無造作に着ていたがそれぞれを良く見れば、どれもが手の出ないような上質なものだった。彼女には一種のポリシーみたいなものがあって、ひと目で何処のブランドと分かるようなロゴの入ったものは決して身に着けなかった。だから何かの拍子に衣類の内側や隠された部分のタグを見て、驚くのだ。シンプルがいいのよ。そう言う彼女のクローゼットは、本当にシンプルなものばかりだった。みんながつまらないと言うんだけど、私は此れでいいの。気に入ったものを何年も着るの。飽きることなんて無いわ。彼女が言った言葉はそのまま私に染み付いて、いつの間にか私もそんな風に考えるようになった。シボルと知り合うことになったきっかけを作ったのは、一緒に居ると益々自信が首をもたげてしまう友人だった。一緒に住んだことを失敗したと思ったこともあったけれど、今振り返ってみれば、実に良い人と住んだと思う。どんなこともそんな具合だ。その時、あーあ、と思っても、何年も経って思い返せば感謝しても足らぬほど幸運だったりする。だから人生は面白い。過ぎてから初めて分かることが沢山あるのだ。もしあの時、私が友人と一緒に暮らしていなかったら。そう考え始めてみたものの、ありえない、ありえないと首を横に振る。私と友人は会うべくして会ったのだ。彼女と私の場合、もし会っていなかったら、と言う仮定法は成り立たない。

降り続く雨。明日は晴れるだろうか。旧市街を散歩したいと、私は心底願っている。




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此れが終わると春がやって来る

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淀んだ空。眺めていると憂鬱になりそうな2月の空。そもそも2月とはそういう月だ。そういうものだと割り切っていれば、落ち込むこともないだろう。そんな曇り空の土曜日。猫は眠ってばかりいるけれど、飽きるということは無いのだろうか。物音にも動じない。起きている時は酷く敏感なくせに。眠っている時は物音など聞こえないとでも言うように、微動することも、ない。

今年もテレビでサンレモ音楽祭.。この名前を聞くだけで、思いだす人がいる。1996年のローマの冬のこと。ローマに住むにあたって、知り合いのいない私を支えてくれたのがルイージだった。ローマ生まれのローマ育ち。相棒がアメリカに住んでいた頃、交流していた人物だ。彼らはまだ30歳にもならず、若くて鉄砲玉のようだった。相棒の何でもありの性格に対して、ルイージは実に真面目腐っていた。どんな時もアイロンがぴしりと掛けられたカッターシャツを着ていたらしく、ルイージのアイロンのかかったカッターシャツは巷手もかなり有名だったらしい。らしいと言うのは、その当時の彼らを私は知らないからだ。ルイージがいよいよアメリカからローマに帰るときめた時、相棒に一枚の紙きれを渡したそうだ。紙きれには彼の名前と電話番号が掛かれていた。ローマに来る時は連絡をおくれよ。そういう願いが込められていたらしい。その紙きれは20年近く相棒の小さな電話帳の中に眠っていたが、私がローマに暮らすことになって、ようやく手帳から引っ張り出された。昔の友達が、若い時代を共に過ごした友達が、まだ忘れずにいてくれたこと、電話をくれたことにルイージは狂喜したらしい。私はローマに暮らすにあたり、アパートメントを借りるまでの数日間住む場所が必要だと知ると快く承知してくれた。それがルイージで、私と同行した相棒の計2人がルイージのところに転がり込んだ理由だった。ルイージは恋人と暮らしていたから、私達は邪魔者だったに違いない。しかしルイージがとても喜んでいるから、恋人も仕方がないと思ったのではあるまいか。食事時に彼らの若い時代の話に耳を傾けるのは楽しかった。ねえ、君、だから君が僕の家に転がり込むのは大歓迎なんだ、とルイージは言った。どうやら相棒は誰かが困っていると知ると何を置いても駆けつける親切な人だったらしく、ルイージもまた相棒に助けて貰ったひとりだったそうだ。楽しい食事時のお喋り。この家での生活は悪くなかったが、所詮居候の身。一日も早くそこから出なくてはと気が焦っていた。ルイージの協力で見つかったのが、ヴィットリオ広場周辺の間借りだった。老女の家に部屋を借りると言う、予想もしていなかった展開に私は酷く慌てていたが、しかしルイージと恋人のところから出るためには、其れも仕方がないことだった。相棒はとっくにボローニャに帰っていたが、気が向くと車でローマにやって来た。相棒の定宿はルイージの家。だから相棒が来るとルイージのところで夕食を楽しんだ。しかしある晩、私達は一言も話をしなかった。サンレモ音楽祭だったからだ。ルイージはサンレモ音楽祭が大好きだったからだ。その為に私達は彼が聞き逃すことが無いようにと、私達は静かに食事をすることにしたのだ。あの当時私には、サンレモ音楽祭の重要さが分からなかった。でも今になってみれば少しは分かる。ある時代の人々にとって、サンレモ音楽祭とは時代の象徴、此れが終わると春がやって来る、そんな存在だったのだろう。
当時働いていた職場では、何時もラジオがかかっていて、サンレモ音楽祭で知れ渡った数々の音楽が流れていた。そのうちのひとつが私は大好きで、それがラジオから流れると嬉しくなった。ローマに独りぼっち。でも、大丈夫。そのうちふたりで暮らせるようになる、と相棒が何時かローマに暮らす決心をしてくれるだろうと願ってやまなかった私は、その音楽を聞くとそれが何時か現実になるように思えたものだ。何時か相棒もローマに暮らす。私と一緒にローマに暮らす。私はローマが好きだったし、其処で得た仕事も好きだった。知り合った人達は皆素敵だったし、此処でなら私は暮らしていける、同じイタリアでも、と思ったから。あれからもう20年が経つ。相棒はローマに暮らす決心はせず、私がボローニャに戻ることを決めた。それが良かったのかどうかは分からない。でも、それはもうどうでも良いことだ。私は今ボローニャに居る。ただそれだけのことなのだ。

先日、ローマに住む人から電話を貰った。昔の上司、みたいな人だ。直属の上司ではないにしても、昔の上司が一番ぴったりくる呼び方だろう。何時も気取った装いをして、とても日本人には見えなかった。長年ローマに暮らすと、こんな風になるものなのだろうかと、イタリアに来てまだ一年も経たなかった当時の私は思ったものだ。君、もっとお洒落をしたらどうだい。そんなことを言われたこともある。お洒落っていったって。若かった私は、そんなことを思ったことがあったことも今思い出した。どれもこれも20年も前の話だ。どんなことも時間が経つと、良い思い出となる。そういうことだ。




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