夢を見た

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                            旧市街にて。昨年の今頃のある日。


昨夜の霙。予期せぬ霙だった。吹き荒れる風に耳を傾けながら、自然界が悲鳴を上げているような気がしてならなかった。夜が明けると驚くほどの寒さが窓の外に横たわっていて、今日が本当に3月最後の日なのだろうかと当惑した。

昔3人で住んでいたフラットの夢を見た。夢で見たことを午前中いっぱいかけて考えた。相棒と私、そしてブリジット。
私は相棒が住む、コールヴァレーと呼ばれる界隈に移り住んだ。1993年2月、まだアメリカに居た頃のことだ。フラットは下に二軒、上に二軒というスタイルで、相棒は上のひとつにイタリア人女性と暮らしていた。それがブリジット。私より少し年上の、手足がひょろりと長い、金髪のショートスタイルがカッコイイ女性だった。相棒が借りていたフラットに、誰か共通の友人を通じてここに部屋を借りることになったらしい。私が彼女を好きだったのは、ミニスカートから長い細い足を出して周囲の目を惹くのが好きだったにも拘らず、彼女の性格が大変淡白で人を干渉しないところだった。だから、私が其処に暮らし始めても、あら、そうなの、よろしく、なんて感じだった。其れに物事をはっきり言うので、彼女のことであれこれ悩む必要が無いのも有難かった。宝彼女とは良い距離感を持ちながら、時には一緒に昼食や夕食を楽しんだ。私達は皆、週末のガレージセールめぐりが大好きだった。私達が暮らす界隈は特にガレージセールが多かったのである。今週末は何処どこでガレージセールがあると情報を持ってくるのは何時も彼女で、その情報を元に相棒と私は遅い朝食を終えるとこちらへ、あちらへと足を延ばしたものである。一度はヴィクトリア調の素晴らしい家の中のものを全て売り払うということで、家の中の隅から隅まで見せて貰ったこともある。家主は50代の女性で、大きな家に独りで住んでいた。その素晴らしい家が最近良い値で売れたらしく、新しい場所に移るにあたり持ち物を処分したいとのことだった。彼女は物書きとのことで、家の中は本棚がありとあらゆるところに在った。食器棚もベッドも肘掛椅子も、ランプだって売るわよ。本以外は何でも売るのよ。彼女がそう言ったので、家を訪問した人達は成程と頷いたものである。この体験は大変面白かった。私が好きだったのは寝室。寝室にはベッドが部屋の角に斜めに置かれていて、良く磨かれた板張りの床の上には趣味の良い絨毯がこれまた斜めに置かれていて、その調和が素晴らしく、全く感嘆したものだ。出窓から差し込む光までもが計算されていて、それは美しい絵のようだった。其処で私達は何を購入したかと言えば、電話機。多分40年代の、コードが布でくるまれている、重くて黒くて勿論ダイヤル式の映画に出てくるような電話機。一時期その電話を使っていたが、回したダイヤルが戻るのに時間があまりにも掛るのと、呼び鈴が鳴るたびに其の音の大きさに心臓がバクバクすることで、3人一致で使うのを止めることにした。あの電話機、確かイタリアに持ってきた筈だけど、今、それが何処にあるかは相棒にも私にも分からない。イタリアに来て25年。でも、未だに開けていない箱が倉庫の中に幾つもある。ブリジットの思い出も、一緒に箱の中に詰め込んだままだ。

自宅待機して15日が経ち、私は深い溜息を吐く。私はやはり外向きの人間らしい。糸の切れた凧のように日本から飛んでいったように、自由に、思いのまま、ふらりふらりとするのがいいらしい。そんなことを思いながら窓の外を眺めている人達は、世界中にどれくらい居るのだろう。空を飛び回る鳥を眺めながら、あんたはいいわねえ、などと呟いている人達はどれくらい居るのだろう。




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友人との付き合いは長い

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家に居る。今日も家に居る。この生活は何時まで続くかというと、当面4月5日まで。本当ならば明日には自宅待機期間を終えて仕事に復帰する予定だったが、想定外というか予想通りだったというか。あっけな延長されてしまった。夏の休暇も長いけど、しかし自由に外に出ることが出来る休暇とはわけが違う。毎日がとんでもなく長く、息苦しい。しかも冬が舞い戻り、鼠色の空に冷たい風が吹きまくる。ああ、なんてこった。そう言って溜息をつきたくなるが、こんな状況の中を走り続ける医療関係者や食料品を供給してくれる人達のことを想い、吐きかけた溜息をぐっと飲みこむ。溜息を吐く代わりに声援を送ろう。頑張れ、頑張れ。そして有難う、と。

夕方、携帯電話が鳴った。私の携帯電話は普段から鳴ることがあまりない。海の向こうに居る家族や友人知人とはメッセージを送り合うことが多い。鳴る電話は大抵相棒からだから、同じ屋根の下で朝から晩まで顔を突き合わせているここ数日は携帯電話は鳴らない、という訳だ。いったい誰? と相棒と顔を見合わせながら電話を見ると、電話は切れてしまった。電話の主を確認すると、古い友人だった。

友人との付き合いは長い。1994年の春、アメリカで出会った。うちにはマルコという名のイタリア人青年が居候していた。彼は相棒の幼馴染。彼らがまだ幼かった頃、同じアパートメントの上下階に暮らしていたらしい。と言ってもマルコはまだ本当に幼かった。相棒のことをよく覚えているのはマルコの姉さんだった。マルコの姉さんのことは私も多少ながら知っていた。私達はその前の年の春にボローニャへ行き、彼女と顔を合わせていたからだ。正確に言えば彼女と彼女の恋人と会い、彼らの延々と続くイタリア語の会話に私は半分うんざりしていた。兎に角彼女はよく喋るのだ。身振り手振りで大変劇的。其れに比べれ恋人は地味な人で、彼女の大き過ぎる声と彼の声を足して2で割ると丁度いいと思ったことを覚えている。兎に角。姉さんの勧めとマルコ自身の好奇心で、遥々ボローニャからうちにやって来た。3か月の予定で、比較的授業料の安い語学に通うことになっていた。彼は英語が点でわからなかったし、家では相棒とイタリア語ばかり話すだろうし、折角来たのに通訳なしでは外に遊びにも行けないのでは勿体ないということで。マルコは学校で人気者だった。言葉の方はてんで駄目だったが、イタリア人特有の陽気さと女性に大変優しいという点で。だから学校に行くのは好きなようだったけど、マルコは結局3か月を全うせずにボローニャに帰ってしまった。残してきた恋人のことが理由だったが、それにしても彼はアメリカで自由に遊び回る当てが外れてがっかりしたのだと思う。相棒という年上の兄貴みたいな人が居るがために。
そんなマルコだが、マルコは私達に友人を残してくれた。友人は同じ時期に語学学校に通っていた青年。週に幾度か学校に通い、週に幾度か職場に行く、日本の企業から送られてきた研修員だった。もしマルコがあの時期学校に通っていなければ、会うことも無かった青年。友人との付き合いは細く長い。相棒や友人の美人の妻も交えて、細く長い付き合いだ。時々声を聞くだけの友人関係。でも、そういうのは案外心地よい。あまり干渉しあわない。互いの問題に足を突っ込まない。良い距離感。ところで、あれほど好きだったアメリカを離れてしまった私に対して、友人夫婦は現在アメリカに暮らしている。何とも皮肉なものだと思いながら、そういうこともあるさと思う。人生とは思い通りにならないことの方が多い。そう思えば、どうということでもない。

友人が訊く。君達は元気にやっているのか、と。うーん、元気なんだけど、一緒の時間が多すぎて、このところ仲違いが多くてねえ。




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坂道と美しい緑と水辺

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外に出ない週末。初めは周囲の目が気になって始まった“外に出ない週末”だけど、こうして出掛けたくとも出ることが出来なくなって、人の目などを気にしていたことを悔やむ。愚かだったなあ。などと今頃思っても遅いわけで、こうして強制的に家の閉じ籠もる週末を過ごしながら心に誓うのだ。二度と人の目を気にしてはならぬ。自己防衛もほどほどにしなければ。疚しいことがないのなら、堂々と胸を張っていればいい。今回の件で私が学んだことは大きく、これからの人生に大いに役立つことだろう。
外は曇り空。天気予報が言っていたように夜中に雨が降ったかは不明だ。私は深い眠りに落ちて、朝まで一度たりとも目を覚まさなかったからだ。窓の外は驚くほどの静寂。時折、遠くから車が走る音が聞こえるのは、周囲があまりに静かだからだろう。行き交う車の量ががくんと減ったイタリアだから、大気汚染も少しは改善されたに違いない。曇り空を眺めながら、紅茶を入れたくなった。湯を沸かしながら紅茶のポットに葉を入れた。紅茶の葉はダージリン。秋の終わりに旧市街のお茶屋さんで購入したものだ。これを購入した時には、まさかこんな事態が起きるなどとは思っても居なかった。まさか外出禁止になって、曇り空を眺めながら紅茶を入れる週末が来るなどと、誰が想像できただろう。

カレンダーを眺めながら、友人が長く暮らしたオスロの街を後にしたことに気付いた。そもそも彼女はブダペストに居たのだが、考えることがあって夫婦でオスロの街に移り住んだ。暮らしているうちに街を気に入ったのだろう、住みやすいと感じたからなのかもしれないし、仕事が好調で楽しかったのかもしれない、兎に角、2,3年の予定が、もう少し、もう少しと延長しているうちに8年という年月が経った。
昨夏急に彼女たちを訪ねることになったのも、最後の夏だからとのことで、誘って貰ったからである。実を言えば8年間、幾度も誘って貰ったのだが、正直言って私はオスロと言う土地に関心を持つことが出来ず、しかも妙に物価の高い街だと知ると、気持ちがが萎えてしまったのだ。友達甲斐が無いといえば全くその通りで、そんな友人を持った彼女は残念だったに違いない。兎に角そんな風に誘われて訪れたオスロは夏だというのに冷え込んでいて、特に到着したのが夜で、雨上がりだったこともあり、剥き出しになった足首がきりきり痛んだものである。彼女と待ち合わせをしたのはオスロの中央駅。私は何とか切符を買って空港駅のホームで電車を待ちながら周囲の観察に忙しかった。イタリアに居ない印象の人々。すらりと背丈のある、妙に手足の長い人々。特に女性が美しく、女女した感じは無く、知的な印象に好感を持った。この辺りの人達には、夏のこの寒さは当たり前のことなのだろう、皆、レインコートやトレンチコートを着込んでいた。私はジャケットを着ているにしても丈が短くて腰回りが寒くてならなかった。傍から見たらひどく寒そうな装いに見えた筈だ。ところで皆冷めた感じの表情をしているのに、とても親切だった。こちらの方が風が当たらないと教えてくれたり。疲れた顔をしていたのだろうか、電車の中に座る場所がなく扉の傍に立っている私を手招いて自分の席を譲ってくれた青年。そんなだったから、私のオスロはとても温かい気持ちで始まった。オスロで覚えているのは、坂道と美しい緑と、水辺の散歩。オスロの街の特別な記憶がないのは、友人と過ごすのが目的だったからだろう。敢えて言えばオペラ座の屋根を歩くという、小さな楽しみがあったくらいで、其れも帰る前の日の夕方に実現すると、私のオスロの旅の蓋が閉まった感じだった。
8年暮らしたということは、それなりに快適だったからだろう。8年も暮らせば随分の人との交流があっただろうし、気に入りの場所も多く存在しただろう。その街を後にして、彼女が飛行機に乗りこんだ時、どんな気持ちだったのかと想像する。自分の街に帰ることに興奮しただろうか。それとも住み慣れた街を離れることに多少なりの寂しさを感じただろうか。此れに関しては、いつか彼女に訊いてみたいと思う。感情のほとぼりが冷めた頃に。

窓の外の栃ノ木の枝に、ぷっくりと丸い芽が。それが開くのは時間の問題で、早ければ明日に出も美しい緑色の葉を望めそうだ。時間は止まらない。私達の行動が停止しても。そして自然もまた止まらない。確実に春へと歩んでいる。




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フランコは元気だ

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昨夕のことだ。私が猫の食料を購入するために店に立ち寄って、買い物を済ませて店から出てきたところ、道の向こう側に車を停めて待っていてくれた相棒が誰かと楽しそうに話をしていた。最近目が頓に悪くなり、少し先の様子が霞んで見える。いくら目を凝らしても相手の顔が見えなないが、場所柄誰かは分かっていた。でも。道を渡って近くに行くと、其処に車の修理工場を構えているフランコだった。やはりそうだったのか、と言う感じであった。なのに、でも、と思ったのは、フランコはもう82歳で、とっくに引退していてもよさそうだと思ったからだった。小さな修理工場。一体何年此処に居座っているのか、私には想像もつかぬ。ただ、修理工場のフランコと言えばこの辺の誰もがすぐにピンとくるところを見ると、かなり長い歴史を持っているに違いなかった。彼には随分世話になった。昔持っていた私の小さな車は中古車で、何故か次から次へと問題を起こす、問題児だった。色んなところで見て貰ったがフランコの腕は抜群で、しかも料金が良心的と来ていたから、何かあると彼のところに駆け込んだ。其れに相棒とフランコは仲良しで、フランコは何か困ったことがあると相棒を呼びつけた。悪いけどこれを手伝ってくれないか。済まないけどこれ買ってきてくれないか。時間がなくていけないから。悪いねえ、いつも。と言った具合に。もともと年配の人に親切な相棒だ。頼まれれば時間がなくても仕事を抜け出して、フランコの為に走り回った。だから時々フランコは、山の家の庭で採れた新鮮な野菜や果物を大きな紙袋に入れて、相棒に持たせた。まあ、そんなこともあり、私達は単なる知り合いでありながらフランコと仲良しなのだ。相棒はどうだか知らないが、私は自分の車を手放して以来、彼とは顔を合わせていない。8年ほど会っていなかったことになるだろうか。だからフランコは、おお、元気そうだねと私の顔を見て大そう喜んだ。元気そうだね、はこちらのセリフで、あなたまだ現役なのねえ、と私が驚くと、フランコはちょっと困った顔をした。昨年長く連れ合った妻が天に昇った。家にひとりでいるよりは、此処で仕事をしている方がいい。色んな人が立ち寄るし、手を使っていると頭も働いていいんだよ。それに、僕は腕の良い修理工だから。と言って最後の方は照れ笑いしたが、彼は寂しいのだろうと思った。確かにここに居れば古い顧客や近所の人が立ち寄って楽しいだろう。しかし82歳。まだ冷たい風が吹いているから風邪などひかないようにと言って、私達は別れた。ああ、フランコ。彼の元気な顔を見ることができて本当に良かった。

ところでフランコの目下の悩みは、イタリア全土に移動制限令が出されたことである。彼は週末に近郊の標高800メートルの町、モンギドーロに在る山の家に行きたいのだが、行く途中に警察などに止められてお叱りなどを受けやしないかと。ねえ、君達、どう思う? えー、どう思って訊かれてもねえ。




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良い人達

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季節の気が狂ったかのように暖かい。ボローニャの17度とは、私が覚えている限り3月の気温である。昔、もう23年ほど前、アパートメントの前の街路樹が2月早々に満開になり住民たちを驚かせたものだが、確かあの年の2月もこんな温暖だった。気が狂った2月、と言ったのは、近所の靴の修理屋のおじいさん。70年近く生きているがこんなことは初めてだと言って、気の狂った2月を嘆いていたものだ。あの後彼は店を閉めて隠居生活に入ったけれど、まだ元気にしているのなら、この暖かい2月を再び嘆いているに違いない。

あの頃、暮らしていたのは案外ごちゃごちゃした界隈だった。ローマの仕事を辞めてボローニャに戻ってくる私の為に相棒が探してくれたのは、狭いながらも広いテラスのある貸しアパートメントだった。当時その界隈には外国人など居なかったから、随分と珍しがられたけれど、別に嫌な思いをしなかったのは住人たちが素朴で親切だったからだ。隣に暮らしていた老夫婦は、相棒のことを息子のように可愛がった。彼らには子供が居なかったから、もし居るならば丁度相棒くらいの年だろうと言うことでとのことだっただろうか。時には食事に招いてくれたり、私が風邪を引いて寝込んでいると聞けば手製のトルテッリーニを持ってきてくれたり、ワイン農家から新しいワインが届けば2本ほど持ってきてくれたり。その代わりに相棒が、重いものを運んであげたり、病院に来るまで連れて行ったりしたものだった。反対側の隣の家も親切だった。タクシーの運転手を長年していると言うお父さんは、植木の手入れが好きだった。手で土を解して、何かを混ぜて。既に沢山の植木が広いテラスに並んでいたが、それでもまだ足らないかというように大きな植木を持ち込んでは、彼の妻を呆れさせた。彼のテラスには、そんな訳で鳥や蝶で賑やかだった。街中のオアシスみたいなものだろうか。おじさんのテラスには蝶や小鳥が沢山来るのねえと羨ましがる私に、彼は嬉しそうに笑うばかりだった。時にはメルロと呼ばれる鳥がやって来て、植木鉢の土を掘り返して彼の頭を悩ませるのだが、メルロはね、土行水するのが好きなんだよ、悪戯しているんじゃないんだよ、と私に説明してくれたものだ。そんな彼も、始めは私が言葉を理解するのかどうかわからず、挨拶くらいしかしてくれなかったけれど、ある日、おじさんの花は咲くのに何故うちの花は咲かないのだろうと話しかけた時から、色んな話をしてくれるようになった。土づくりが大切で、こうするんだよ、とテラスを仕切る柵越しに教えてくれたものだ。夏場になるとちょっと留守にするので水をくべてくれないだろうかと頼まれて、おじさん家族が居ない間に枯れてしまっては大変と、柵越しに並べられた沢山の植木鉢に毎朝毎夕水をくべたものである。地味な界隈で若い人達はあまり住んでいなかったけれど、近所の人には恵まれて、相棒がとても良いアパートメントを見つけてくれたことに長い間感謝した。そんなこともあって、あのアパートメントには10年暮らした。10年後あの場所を出る時は、隣人達から残念がって貰い、頭が下がった。私達が出ていくことを残念がってくれる人達が居ることに驚いたと言い換えればよいだろうか。そして私達は感謝したものだ。良い人達が周囲に居たことを。
長いこと、あの場所には足を運んでいない。用事もなければ足を運ぶ理由がないからだ。あのアパートメントには今もあの住人たちが居るのだろうか。この温暖な2月に、あのアパートメントの前の街路樹は咲いているのだろうか。

夕方空が薔薇色に染まった。あっと驚くほどの薔薇色に。明日も良い天気になるらしい。良い一日になることを心から願いながら、空が暗くなるまで眺めていた。




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