眩しい人達

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外に食事に行くのは嫌いではないが、いつの頃からか家で食事をするのが大好きになった。それまでは、どこかに食事に行くとなるとワクワクしたものだけど、そして自ら提案したりもしたけれど、最近は家でどんな美味しいものを頂こうかと考える方がずっと楽しい。と言っても料理の腕がいい訳でもなければ、多くの料理を知っているでもない私だ。他人が、えっ、と驚くほどシンプルなものばかりで、手の込んだものは大抵相棒が担当する。例えば魚料理などは圧倒的に相棒が上手く、私の出る幕もない。私はこれを幸運と呼ぶ。誰かが作る料理を頂くのは、驚きや感激も伴うから、自分の手料理よりもずっと楽しくて美味しいと思うから。ご馳走でなくたって良い。緩やかな時間、和やかで時間、そして肩の力を抜いてお喋りしながら頂く食事は楽しくないはずがないのだ。其処に美味しいワインがあればこんな嬉しいことは無い、という私の発言が世間に流出したらしく、良いワインが手に入ったからと言って友人知人から貰うことが多くなった。その多くはワイン農家のもの。粗削りなものもあれば実に繊細でよくできたものもある。商品ではなくて作品と呼ぶに相応しく、実際どんな高価なワインよりも有難い。
ワインにしても何にしても物を作りだすこと、生み出すことは素晴らしい。そして、そういうことに携わる人達にしても。生憎自分はそういう類の人間ではない。その分だけ、そうした人達を眩しく思う。

夕方、西の空が燃えるように赤く染まった。夕焼けは翌日の晴天の印。今週は、先週の分まで空が晴れるといいと思う。




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林檎を食べていたら間違いない

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私は林檎が大好きだった。私の林檎好きは幼少時代からのものだ。何しろ私の家族は大の果物好きで、果物が夕食の後に出てこない日などなかったと言いきってよいほどだった。母が食事を終えると果物を切ってくれた。春は苺、夏は桃やメロン、そして梨やテーブルに並び、秋になると林檎や柿だった。そのうち姉がその役割をするようになり、私が当時の姉の年齢になると私の仕事になった。何事も器用な母や姉と違って、私は何をさせても時間が掛る上に不器用だった。だから切り分ける林檎はどれも大きさが異なって、ガラスの大皿に並べられると滑稽でしょうがなかった。それでも家族が喜んでくれる。其れだけが励みだった。日本の林檎は本当に美味しかった。蜜が入っていて甘くて爽やかで。

アメリカへ行くと、そんな素敵な林檎は見つからなかったが、山積みの林檎を幾ら袋に詰め込んでも高くつかず、切り詰めた生活をしていた私には有難い存在だった。だから、朝から晩まで林檎を齧っていた。皮を剥いたり切り分けたりすることも無く、きゅきゅっと拭いて皮ごと齧りついたものだ。
ボローニャに暮らすようになると、舅が大の林檎好きだった。当時、舅と私は馬が合わず、互いに嫌っていた節があったけど、林檎が好きと言う点では互いの賢さを認め合い、ほら、いい林檎があったから君の分も買ってきたぞ、などと言って舅は私に林檎を分けてくれたものだ。林檎を食べていたら間違いない。医者にかかる必要もない。そう言いながら一緒に食卓で林檎を食べたものである。そのうちイタリアで日本の林檎が手に入るようになった。いや、それには語弊がある。日本の種類の林檎、ふじが手に入るようになったのである。当然北イタリアで生産されているイタリアものだが、あの軽やかな歯触りといい、爽やかな味といい、いい匂いといい、確かに日本の林檎、ふじだった。当初、舅はそれが気に食わず、ふん、日本の林檎なんて、と見向きもしなかったのだが、何処かで林檎をご馳走になり、何だ、とんでもなく美味い林檎だが何と言う種類の林檎で? と訊いたところ、私が美味い美味いと騒いでいた日本の林檎ふじだとわかり、ある日袋一杯にふじを買って持ってきた。いやあ、何でも食わず嫌いはいけないね。こんなにうまい林檎があったなんて。舅はばつが悪そうに、そして照れくさそうに言ったものだ。舅が10年以上前に他界すると、少しづつ私の林檎離れが始まった。別に林檎を食べていたのに舅が他界したのが林檎離れの理由ではない。舅のように長く生きていれば色んなことがあるのだから、林檎に罪はない。美味しい林檎が手に入らなかったからだ。昨年は一度も林檎に手が伸びなかったが、今年は毎晩林檎である。この夏、果物を購入する店を替えた。数年通った店から僅か5分ほどの場所に、バングラ人の若い夫婦が営む小さな店があって、此処で思いがけず美味しい、本当に美味しい林檎ふじを手に入れたのである。林檎をあまり好まない相棒ですら、此れは美味いと言って次から次へと手を差し出す。つまり、もっと頂戴、と。
近年元気のない相棒と私だ。この冬は林檎で乗り切ろうと言う作戦である。空の舅も喜んでいることだろう。林檎を食べていれば間違いない。医者にかかる必要もない、と。

今日の午後は散々雨が降った。こんなに降らなくてもいいじゃないかと思うほど。どうやらイタリア全土に渡っての悪天候らしい。あまり降り過ぎて土砂崩れなどが起きなければよいけれど。何事も程々が良いと思う。雨にしても、暑さにしても、寒さにしても。窓辺に佇んで雨降りを眺める猫の様子が淋しそう。雨が降っていたら、リスも鳥もハリネズミも遊びに来ない。




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寄り道

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昔、こうした店に通ったものだ。通い始めたのはアメリカの頃。グラスや皿を手に入れたくて。どんなものでも良かったわけではなかったから、行っても何も買わずに店を出ることも多かった。その代わり気に入るものがあると話しが早く、考える間もなく手に入れた。時には店の人に値段の交渉をせねばならぬこともあったけれど、そもそも当時の私の英語はあまりにつたなくて、交渉は失敗に終わることが多かった。あれから28年が経つが、今もあの頃手に入れたものがうちに在る。食器棚に並んでいて、時々食卓に登場する。そんな時、私は思いだすのだ。あの当時の自分。周囲の人達とうまく話しが出来なかった自分。私が一緒に住んでいた友人は、その点私と正反対で、英語が堪能で、周囲の人と話をする才能のある人だった。私はそんな彼女が羨ましくて、彼女のようになりたいといつも思っていた。あの頃は、いつか自分がこんなにお喋りになるとは想像もできなかった。そうして分かったのは、言葉が出来るとかできないとかが問題なのではなくて、どれだけ人と話をしたいかと言うこと。其れに気付いたのはイタリアに来てからだから、それだけでもここに来たかいがあったというものだ。ポルティコの下の店を外から眺めながら、昔のことを思いだした。次回は中に入ってみよう。もう皿もグラスも必要ないけれど。

日が暮れるのがいきなり早くなり、戸惑っている。帰り道は夜のように暗く、そして随分冷え込んで、季節が駆け足で先に進んでいるのを実感する。仕事帰りの寄り道がしにくい季節。家にまっすぐ帰りたくなる季節。




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美しいスカーフ

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天気予報が的中した。さほど酷い雨ではないが、しかし傘なしでは歩けぬ、そんな雨の一日。こんな日は家にまっすぐ帰えるのが得策と寄り道もせずに帰ってきたが、しかし明日はストライキの一日でバスが動いたり動かなかったりと不自由になるから、出来れば今日は旧市街に寄り道したかったと思いながらの帰宅だった。こうした雨の日は不機嫌な人が多い。バスの中でイライラした人が多くて閉口したが、そんな人達を眺めながらふと思ったのは、自分もまた雨のせいで不機嫌になってはいやしないかと言うことだった。雨の日も楽しめる心の余裕を持ちたいものだ。雨の日も寄り道など楽しめるようになりたいものだ。バスを降りて雨の中を歩きながら、時々アスファルトの水溜りを避けながら、私はそんなことを考えていた。

素敵なジャケットなどと考えていたのに結局手に入れたのはスカーフ。昨夕のことだ。ジャケットを見たくて店に入ったら好みのものが直ぐに見つかったのに店を出てきてしまったのは予算が全然合わなかったからだ。そう言うことがよくある。そんな時、無理して購入してもよくなければ、予算内に納まるものを妥協して購入するのもよくない。こんな時は店を出てしまうのが一番なのだ。それにしてもあのジャケットは格好良かった。しかしあの値段のことだから、冬のサルディの初日まで店にあるに違いない。だから諦めたと言うよりは新たなる期待。手に入れるのを先延ばしにしたと思えばよい。それで手ぶらで歩いているうちにフランス屋に立ち寄りたくなった。店の前まで来たところで隣の店に入ったのは、単なる思い付きだった。
隣の店はスカーフ屋さん。間口の狭い、本当に小さな店だ。何時からあったかは覚えていないが結構前から存在する。ショーウィンドウの飾りつけがぱっとしないからなのか、それともスカーフに関心を持つ人が世間に少ないからなのか、店に客が居るところを見たことはあまりない。私が初めて店に入ったのは確か10年ほど前のことで、小さなシルクの四角いスカーフを購入した時のことだ。其れよりも前から店の存在には気づいていたが、何となく入りにくい、と思っていた。ところがところが店の女主人は結構感じの良い人で、綺麗に畳んで棚に積み上げてあるスカーフを惜しみなく広げて見せてくれた。たった一枚購入するために20枚も30枚も見せてくれた彼女に礼を言ったら、気に入るものが見つかってよかったわ、と言って喜んでくれたのが印象的だった。探していた首に巻く小さなバンダナサイズのシルクのスカーフ。新作の類は置いていないが、その分だけ割引価格で手に入った。もともとシーズンの新作を追うようなタイプではない私である。気に入ることが大切なのである。気に入った物が少しでも安く手に入れば、これ以上良いことはない。と言うことで、時々店に立ち寄るようになった。もっとも毎回気に入るものが見つかる訳でもなく、ただ見せて貰うだけのことも多かったけれど。此処数年は店から足が遠のいていて、隣にあるフランス屋に立ち寄るたびに女主人は元気だろうかと思っていた。
店に入ると彼女の他に上背のある女性がふたりいて、彼女たちは何か仕事上のことを話しているようだった。特に女主人は経理上の何か難しいことをしていたので、手の空いているブロンドのショートカットが印象的な化粧の濃い女性が私の相手をすることになった。シルクのスカーフを、と言う私に彼女は色々見せてくれたが少しも好みのものが見つからない。ほら、これが素敵などと言って差し出されては、私はこれを素敵だという彼女の感覚を疑わんばかりに彼女を見返して、ううん、好みじゃないわ、と答えた。私が何かを言うたびに彼女は、え、分からないわ、と言った。私のイタリア語が分からないと言うことだ。分からないと言うよりは、彼女は分かろうと努めなかったのだ。兎に角、それを数回繰り返されると私は彼女と話をする気が無くなってしまった。彼女は客商売が下手だと思った。客をそんな気持ちにさせるものじゃない。そのうち私は目の前に出された綺麗に畳まれたスカーフの束の中程に驚くほど発色の良い、まさに好みのものを見つけた。あった。此れよ、これが見たいわ。指をさす私にそれまで事の成り行きを黙って眺めていた女主人がにやりと笑って言った。あなたは目がいい。自分に似合うものが良く分かっている。束からそれを引き抜いて私の顔の近くに持っていくと肌や髪の色とよく合った。其れから決めるまでは早かった。ジャケットは予算オーバーだったがスカーフくらいなら手が出るものだ。其れにスカーフは素敵なのだ。暖かいばかりでなく、気分を上げるのにもとても役立つ。だから綺麗な色、発色の良いものがいい。支払いをしながら女主人と話をした。近年店はあまりうまく行っていないらしい。でも、多分また良い時期が来ると思うから、暫くは続けたいと思っていると彼女は言った。スカーフというもの自体、はやりすたりがあるのだろう。私のようなスカーフ好きは今の時代あまり居ないのかもしれない。貴方の好きそうなものがまた入荷すると思うから、時々立ち寄るといいと彼女は言った。私にしても彼女のような感じの良い人が居る店ならば、時々立ち寄りたいと思った。其れにもう一枚くらいスカーフを新調したい。美しい黄色を使ったシルクのスカーフを。但し、ブロンドショートカットの彼女はいただけない。彼女が居ない日に立ち寄るのが良いだろう。

クローゼットに新しく加わったシルクのスカーフ。首に巻いて外に出掛けるのが今から楽しみだ。此れから冬に向かって衣類が兎角ダークカラーになりがちな私だから、この美しい色のスカーフが良く映えることだろう。そういう楽しみ方もある。そういうお洒落も楽しいものだ。




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格好いい秋

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明日は雨が降るそうだから、晴天と10月にしては温暖なこの気候も今日までだろうか。箪笥の奥にしまいこんだ薄手のコットンセーターを再び引っ張り出すほどだったが、再びしまい込む日は近いようだ。それにしてもこのところのマンネリ化した装いに若干飽き飽きしている。気に入って長年使った衣類を処分してしまったから、あまりチョイスが無いのである。そうだ、格好の良いジャケットを手に入れようか。それとも足が綺麗に見えるジーンズ。近年はどちらかと言えば食欲の秋に偏りがちだが、この秋は格好の良い秋にしてみたいと思う。さあ、ショッピングに出掛けよう。




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