拘り

DSC_0023 small


夕食を準備していると時々思うことがある。それは私は単純で、そして案外幸運な人間だということだ。誰にでも拘りのひとつはあるだろう。例えばコートの肩のラインはこうでなくてはいけないとか、革のベルトの縫い目とか、絹のスカーフの発色や手触りとか。私の拘りはそんな立派なものではない。大変身近なもので、笑ってしまうほど単純だ。ひとつはアスパラガスの茹で加減。絶妙なタイミングで茹で上がった日は、何という幸運、とまで思う。簡単そうで簡単ではない。そんな拘りを持っているから、相棒も茹で上がったアスパラガスを黙々と堪能しながら食してくれる。もうひとつも似たようなものだ。パスタ。パスタの茹で具合に非常にうるさい。うるさいのは相棒ではなく、私の方で、一瞬でも湯から引き上げるのが遅れてしまってはならぬ。茹で具合を試しながら、うーん、あと20秒、などというと居合わせた友人達はお腹を抱えて笑うけれど、それ程パスタの茹で具合は大切だ。30秒ではいけない。20秒きっかり。そうしてうまい具合に茹で上がったパスタを食する喜び。幸せだと思う。そういう訳で私はほぼ毎日幸せを感じることができるのである。単純であるがために幸せを人より多く感じることができる、というと丁度良いかもしれない。

ところでこんな風に茹で具合にひどく拘るようになったのはイタリアに暮らし始めて、数年経ってからのことだ。私と相棒は山の友人ジーノと頻繁に交流していた。時には私達が山へ行き、時には彼がボローニャの私達のアパートメントに来て、昼食や夕食を共にした。そのうち彼の弟夫婦がナポリからボローニャに移り住み、時々一緒に食事を共にするようになった。若い夫婦で、ボローニャでの新しい生活に希望をたくさん持っているようだった。ある日、弟夫婦が自分たちの家に来ないか、夕食をご馳走するよ、というので行ってみた。ふたりはボローニャ郊外の山の、小さな村に小さなアパートメントを借りていた。本当に小さなアパートメントだった。太陽が降り注ぐナポリからやってきた夫婦は、昼間でもあまり太陽の光が入らない此のアパートメントは湿気だらけで嫌いだと言った。湿度は、建物が岩に張り付くようにして建てられているからで、ふたりが借りていた住まいは丁度岩に接する部分だったからだ。太陽の光が当たらないのは、この家に限ったことではなく、村全体が太陽の光から逃げるようにして存在していた。皆、悪くない、なかなかいいじゃないかと言うけれど。唯一の救いは兄さんの家が近い。だから僕らはここにいるけれど、君はどう思う、と私に訊いた。どうやら第三者の、外国人の意見を知りたいらしかった。私は太陽の光の入らぬ家も、湿っぽい家も気分が塞ぐから嫌だ、いくら兄弟が近くに住んでいたとしても、と言うと、ほら!ほら!やっぱりそうなのよ! と弟の嫁が言った。周囲の人は皆、私が我儘だというのだけれど、と言って私を抱きしめた。ありがとう、ありがとう、まだこの家に居なくてはいけないにしても、誰かが分かってくれただけで私は何とか我慢できる、と言って。私からすればナポリ出身の彼女はれっきとしたイタリア人だが、こんな村に住んでいると外国人並みの扱いを受けるのかもしれない。それに彼女は若かったから。あなたは我慢が足りないだの、あなたは何もわかっていないだの、私にも覚えのある言葉だった。私がボローニャに引っ越してきた時に言われた言葉に通じるものがあって、彼女に抱きしめられながら、心がチクンと痛んだ。忘れかけていたこと。あまり思い出したくないことでもだった。元気を取り戻した彼女は、さあ、パスタを茹でるわよ、と腕まくりをして湯が沸騰する大きな鍋にパスタを投げ入れた。パスタはナポリから持ってきた特別なパスタらしく、ボローニャ辺りでは手に入らない、とのことだった。彼女は一度茹で具合を試し、あと2分と言い、そのあと試して、あと30秒と言い、そうして何か別のことをしたが為に30秒の予定時間より10秒か15秒ほど過ぎてしまい、ベストの茹で具合を逃してしまった、と大騒ぎになった。わーわー、きゃーきゃー言いながらテーブルに出されたパスタはお世辞抜きに大変美味しかった。なのに彼女は残念でならぬと言った風で、あなた達に本当に美味しい、ベストの茹で具合のパスタを食べてほしかったのに、とパスタを全部食べ切るまで残念がった。彼女の夫はと言えば、やはりベストの茹で具合を一瞬過ぎてしまったと、一瞬彼女がテーブルを離れた時にこっそりと小声で零した。こんなに湯で具合に拘りのある人達に会ったのは初めてだったから、大変印象的だった。それからうちでは茹で具合に厳しくなった。あ、茹で過ぎだね。あ、絶妙のタイミングで湯から上げたね、とそんな感じに。それがパスタであり、アスパラガスなのである。

帰りにパンを買ってきた。弾力があって、ほんの少し酸っぱい。サンフランシスコのサワードゥブレッドに良く似たパンで、思い切りサンフランシスコに居た頃のことを思いだした。このパンをテーブルに出したら、相棒も思いだすだろうか、サンフランシスコに暮らしていた頃のこと、あの水色のフラットに住んでいた頃のことを。




人気ブログランキングへ 

旅に出たくなった理由

DSC_0043.jpg


ところで昨日の花市には数軒の食料品店が参加していて、その中でも際立っていた光っていたのがチーズ屋さん。私はチーズが大好き。子供の頃は四角い箱入りのプロセスチーズなんてものしかなかったし、やはり子供の頃に土産か何かで貰ったオランダの堅いチーズは好みではなかった。好きになり始めたのは恐らく10代の終わりで、何処かでフランスのチーズを食した時から始まったと覚えている。今はワインを嗜むようになったせいで、それに拍車がかかった。兎に角、そういう背景があって、だからチーズの店を見つけると足を止めずにはいられない。美味しいフランスのチーズを求めて、急に旅に出たくなった。




人気ブログランキングへ 

苺、甘い苺。

DSC_0040 small


夕方が長くなると、家にまっすぐ帰るなんて残念過ぎる。だから、あれこれ用事を作っては短い散歩を楽しむのだ。数日前の散歩途中、青果店で苺を購入。そんなつもりはなかったのに、いい匂いにつられて店の人に訊いてみたのだ。苺はもう甘いかしら。すると売り物の中から赤くておいしそうなのをひとつつまんで、さあ、食べてごらんよ、と手渡してくれた。いつもなら、水で濯がずに苺を食べるなんて考えられないのに、思わずかぶりついてみたら、うーん、甘くて美味しい。それで山盛り買い込んできた。春は苺から始まる、なんて誰か言っただろうか。でも、そんな感じ。苺、苺。苺のない春なんて。




人気ブログランキングへ 

小さな地図

DSC_0011 small


近頃天気が不安定だ。晴れているかと思えば急に大風が襲い、やっと風がやんで穏やかになったと思えば雨が降る。随分温かくなったと思っていたが再び気温が下がってしまった。帰り道はコートの襟元をしっかり閉めて、帽子を目深に被らねばならなかった。夜空に輝いていた銀色の月が忘れられない。昨夜、見た月のことだ。美しいお月様。きっと素晴らしい天気の土曜日になるに違いない、と思っていたのに知らないうちに雨が降り始めた。静かに、人に知られないように息を潜めて降るような雨。これが春になる手順なのかと外の様子を眺めながら思った。もしそうならば、もう少しで私たちの春がやってくると言うことになる。
今朝、遅く目を覚ました。どうやら風邪をぶり返したらしい。それとも単なる疲れなのか。前者ならば性質が悪いが、後者ならば何とかなる。ゆっくりすれば直ぐに元気になるだろう。今日は家でゆっくりしようと決め込む。そうだ、先延ばしにしていた本棚の整理整頓でもしてみようか。整理整頓と言うのは簡単そうで時間が掛かる。大抵何かの紐を解いてうっかり出てきた古い手紙や写真に釘付けになってしまうからだ。案の定、と言ってよいだろう。うっかり出てきた小さな地図。使い込んだもので折り目の部分が擦り切れていた。私は何処か別の街に行くと大抵地図を手に入れる。ネットで街の概要や現在地点を確認できるようになった今でも、地図を手に入れて街を歩く習慣は変わらない。うっかり出てきたのはリスボンの地図。5年前の夏に手に入れたものだ。

真夏のボローニャからリスボンに降り立って驚いたのは陽射しの強さ。しかし風が吹くと何ともいえぬ気持ちよさに、此処が確かに海に近い街であることを感じたものだ。私が16日間借りたアパートメントは古い建物の5階だか6階だかで、聞いてはいたけれどエレベーターが無く、重い荷物を引きずって黙々と上にあがらねばならなかった。此処があなたのアパートメント、と家主がドアを開けたときの開放感。明るくて必要以上のものは取り払われた、私好みの部屋だった。16日間、何の約束もなければ、しなければならぬこともなく、朝起きて、さあ、今日は何処へ行こうと考えればよかった。真夏特有の照りつける日差しを除ける為に、路地を好んで歩いた。入り組んだ道には大抵影が落ちていて、そして大通りにはない、この街特有の色や形、雰囲気を見つけることが出来たから。こんな素敵な街だから旅人が放っておく筈が無く、何処へ行っても気軽な装いの旅人に出会ったが、時には路地に自分のほかには誰も居なくて、自分だけの宝の場所を見つけたような気分になった。こんな場所に何をしているのだと、上階の窓から住人が覗き込んでいたりして、私が無邪気に手を振って挨拶をすると、おや、まあ、いったいこの人は、とでもいう表情をして、それでも機嫌の良い声で挨拶を返してくれた。この街に住めば住んだで色んな不都合なことや困ったこともあるだろう。例えばイタリアに憧れて住み始めたとしても、何かしらの困ったことに出くわすように。外側から見るのと内側で感じることは必ずしも同じではないと言うことだ。いや、住んでみて初めて分かることがあると言うほうが正しいかもしれない。それでも私は、いつかこの街に腰を下ろしてみたい希望が湧き始めていた。坂が多いと言うのも私好みだった。坂を歩いていると、悩み事なんか消えてしまう。言葉を変えれば、悩んでいても歩いているうちに、坂の面白さのほうが心を支配してしまう、とでも言おうか。坂道を上り下りしているうちに辿り着いたのは食料品市場界隈。昼下がりと言う、活気のある時間ではなかった。私はその辺りを歩き回って、一軒の店に入った。カフェは外見こそガラス張りで今風だが、中は昔のつくりをそのまま生かしていて、カフェと過去が共存していて素晴らしかった。客層はいたって風変わり。その昔はヒッピーだったに違いないような初老の男性や、自由な発想を愛する夫婦と自由のびのびの小さな子供。時間が時間だけに込み合うことはなく、それぞれが他人を干渉しないような感じで、良い空気が流れていた。わたしは店の人の勧めで注文した爽やかな冷たい白ワインと、オーブンで焼いた地元のチーズと黒パン数枚がテーブルに並ぶと、忘れていた空腹にスイッチが入って、あっという間に平らげてしまった。どの街にも自分に合った空間がある。どの街でも口に合う食べ物にめぐり合える。こういうことを偶然の一言で片付けても良いけれど、私はそんな時至極の幸せを感じるのだ。此処に来るべくして来たのだ、と。まだ行ったことの無い街へと足を運ぶのが旅人ならば、私は旅人にはなれないと言うことになる。気に入れば何度でもいく。気が済むまで、飽き飽きしてしまうまで、何度だって足を運ぶから、行ったことのない街はずっと行かないまま。価値観の違いだ。良いとか悪いとか、決める必要は無い。大体人は皆違って当たり前。私が別の人と同じだったら、何とつまらないことだろう。

リスボンの地図を丁寧に畳んで束に戻す。此れをもう一度開くのは、何時のことだろう。それは誰にも分からないと言葉にしてみたら、案外早くやってくるような気がした。

3月。私たちの3月が愉しくご機嫌なものになればいい。




人気ブログランキングへ 

てんとう虫見つけた

DSC_0016 (640x428)


鳥の囀りを耳にするようになった。まだまだ朝晩は冷えるけど、そんな鳥の囀りを耳すると春が其処まで来ていることを感じる。もうすぐ、もうすぐだから。そんな風に歌っているようだ。まだ芽の出ぬ裸の木の枝につかまるようにして止まっている鳥はメルロだろうか。見た目はそれ程格好良くないけれど、声の美しさは飛び切りだ。
風邪を引いたのが長引いている。うっかりした、と言うのが私の感想で、こんなに気をつけていたのにと、己の不注意にがっくりしている。こういう時は様々なことが連鎖的に上手くいかないもので、例えば愛用しているパソコンが起動しなくなったり、恐ろしく高額の光熱費の請求書が届いたり、がっくりに輪がかかる。なかなか上手くいかないものだ、と猫に話しかけてみるも、何のことかさっぱり、とでも言うように大きな欠伸をして見せてくれる。そんな様子を見ていると、まあ、そのうち何とかなるさ、などと思えてくるのだから不思議なものだ。いや、もともとそんな暢気な性格なのかもしれない。心配したり落ち込んでも、どうしようもないことは沢山ある。そんなときは楽しい事を考えて鼻歌など歌っていればいい。そのうち運が向いてくる。そんな風に何時の頃からか思うようになった。

夕方、一通のメールが届いた。フランス屋からの誘いだ。時々こんな風にフランス屋から自動通知がある。通知してくれるように頼んだのはもう2年か3年前のことだ。トリュフのブリーチーズが入庫したとの知らせだった。此れは本当に美味しい代物で、あっという間に売切れてしまう。いつもなら、おおっ、と通知を貰ったその足で店に購入しに行くが、今日は何となく気が乗らない。食欲が無いと言うのはなんと淋しいことか、と風邪を恨む。それにしても、ボローニャ旧市街はどうしたことだろう。あちらもこちらもワインを振舞う店ばかりがオープンする。それ程ワイン人口が多いと言うことなのか、それとも不景気でレストランへ行く足が鈍っているけれど、ワインを飲みながら軽食ならば懐も痛まない、と言うことなのか。私が知る限り、近々新しい2軒がオープンする。夕方にぶらりと店に立ち寄って、立ち飲みワインを楽しむとするか。こんな私の小さな楽しみを、人は変わった趣味だというが、そうだろうか。こんな手頃な楽しみがあっても良い。

今晩、家の中で見つけた小さな春。橙色のてんとう虫。猫がうちに暮らすようになってから、てんとう虫が姿を消して淋しいなあと思っていたところだったので、宝物を見つけたような嬉しさだった。ほら、これがてんとう虫。いじめてはいけないよ。と猫に教えた。分かって貰えただろうか。どうかなあ。




人気ブログランキングへ