北風

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ホリデーシーズンが過ぎると、私にとって一年で一番退屈な時期に突入する。兎に角わくわくするようなことがすぐ先に存在しない。この時期で楽しみと言ったら、少しづつ日が長くなることくらいだろうか。16時半には真っ暗になっていたのが17時近くまで薄明るいと、夕方の空に向かって、頑張れ、頑張れ、と応援したくなる。もう少しすると17時半ごろまで薄明るくなる。そうすると春がやって来るめどがついて、気分が俄然アップするのだ。春がやって来るめど、と書いて、なかなか良い言葉だと思った。春がやって来る。春がやって来る。まだ、あと2か月以上も先のことだけど。

連日風が強い。北風だ。20年も前の冬に、友人がボローニャにやって来てこんなことを言った。東京の冬はボローニャより気温が高くて温暖な筈なのに、風が強いから酷く寒く感じる。対してボローニャの冬は気温が低いが風が吹かないから、寒いには違いないが其れほど辛くない。その頃私はボローニャの寒さに辟易していたものだから、ふーん、そんなもんかしらねえ、などと聞き流したものだけど、この連日の強い冷たい風が身に沁みて、友人が言った言葉を思い出した。確かに風が吹くと寒く感じる。昨日今日の風は特に強い。日除け戸というのか、雨戸というのか、兎に角、窓という窓に備え付けられているシャッターをしっかり下したはいいが、おお風邪に煽られてがたがたうるさい。煩わしい訳ではない。ただ、風に煽られたシャッターの音が、妙に私を不安にさせる。そんな音を聞きながら、アメリカを引き払ってボローニャにやって来た日のことを思い出した。
ボローニャ空港に到着して、其の足で私達は両親のところへは行かなかった。相棒の友人、クリスティーナのアパートメントに居候することになっていたからである。相棒の両親のところに転がり込むのを、相棒が嫌がったからだった。それは私にとっても好都合で、相棒が友人のところに居候すると知って私は喜んでいた。さて、ボローニャ空港からタクシーで友人が暮らすアパートメントの前で降りた時、私は酷く戸惑った。何故なら恐ろしく古びた建物だったからだ。朽ちている。寂れている。後は他にどんな表現があるだろうか。旧市街の隅っこに在ったその建物にはやはりポルティコが備え付けられていたが、中心部でよく見る美しいフレスコ画が施されていたり、柱に彫刻が施されていたり、と言った優雅なものではなく、兎に角古びた木製のポルティコだった。何とも言えぬ不安を掻きたてる建物、界隈だったが、相棒は、何て素敵なんだ、と建物にしても界隈にしても手放しに褒め称えた。相棒の友人と一緒に暮らしている女性が仕事から帰ってきて建物の中に入ると、もう一度驚かねばならなかった。ドアの内側は殺風景で電気をつけても薄暗く、まるで戦時中、又は終戦直後の映画のような雰囲気だった。一番上の階まで階段を上った。壁はコンクリートがむき出しで、昔観たひまわりという映画の中でマストロヤンニがマッチ棒を壁にこすりつけて火をつけたのを思い出させるような壁だった。薄暗くて寂しい感じの階段だった。ガチャガチャと大きな音を立てて鍵を開けて中に入ると思いのほか明るかった。直ぐに目に入ったのが床のタイル。15センチ四方の古い大理石のタイルだった。建物が古いのと同様に床も大変古く、100年は経っているとのことだった。居間は大変明るくて、窓から外を覗くと、広い庭があった。その庭がアパートメントの住人の誰もが楽しめる庭だったのか、それとも地上階に暮らす家の庭だったのか、今となっては思い出せない。ただ、手入れがされていない雑然とした感じの庭に見えるように、庭師が手入れしていると聞いて、驚いたことは覚えている。窓辺に立って驚いたのは壁の厚さだった。外側の壁の厚みは50センチもあっただろうか。部屋と部屋の仕切りにしてもゆうに30センチはあったと覚えている。天井や床も同様に厚みがあるらしく、階下の物音も、隣の家の音も聞こえなかった。この家は、相棒の友人が一目惚れして借りたらしかった。少し先に両親が住んでいて、立派で広々とした両親のアパートメントには彼女のスペースも充分あったのに、彼女は敢えてこの錆びれたアパートメントに住むことを好んだと知って、私には訳が分からなかったが、この家に来る誰もが此の雰囲気を褒め称え、気持ちが分かると頷いた。居間には古い大テーブルや食器棚があったが、彼女の部屋も同様だった。彼女は骨董品が大好きだからだ。真鍮のベッド。とても高くて、ベッドに入るのが大変だった。それから1920年代のマホガニーの大きな机。彼女は弁護士の卵だったから、何時も勉強をしているらしかった。壁には大きな本棚。天井から木製の鳥かごが吊るされていて、窓辺には植物があって。広くない部屋に沢山の骨董品が詰め込まれていて、私に言わせれば骨董品店そのものだった。彼女と同居している女性の部屋は全く対照的で、実に物が少なかった。必要最低限の家具しかなくて、白い麻のカーテンが窓に備え付けられていて、ベッドの上に蚊帳が備え付けられていて、どちらかと言えば私はこうしたものの無い部屋の方が好きだと思ったのを覚えている。このふたりにとってこのアパートメントは、大変暮らしやすいらしい。静かだし、旧市街で便利だし。それから窓から見える庭が好きだし、大理石の古いタイルが好きだし、と言わせておけばいつまでもそんな言葉が続いて出て、結局全部が好きなんでしょう、と私がからかうと、ふたり揃って首を横に振るのだ。嫌いなものがひとつある。窓の外に備え付けられた木製の扉。それは日除けの為であり雨避けの為なのだが、風雨の日や大風の日は、がたがたと音がする、扉が閉まっていると言うのに。その音が耳について眠れない。何となく不安にさせる音だと言った。立て付けが悪いのだと言った。しかしいくら直して貰っても、少しも直らないのだとも言った。これさえなければ完璧なアパートメントだと言った彼女達。私と相棒はあのアパートメントに約ひと月居候したけれど、遂にその音を耳にすることは無かった。夏の良い時期だったからだろう。冬だったらば彼女達が嫌っていた音を頻繁に耳にしたのかもしれない。

この風が、週末までに止んでくれるといいけれど。週末は散歩をしたいから。久しぶりに路地探検でもしようかと思って。




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1月

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目を覚ましたら鼠色の空。曇り空とも呼べるが、其れよりも雪雲と呼んだほうが良いようなそらだった。一昨日の冷たい大風。昨日の驚くべき快晴と冷たい風。そして今日はこんな空で、私達人間は1月の空に大いに振り回されている。特に私。私は天気で気分がアップダウンするから困りものだ。あれは間違いなく雪雲だが、かと言って雪が降るでもなく。雪は降らないのだ、と思い始めた昼過ぎ、遂に雪が降り始めた。初めは目を凝らさなければ見えないような小さな雪の欠片で、そのうち窓越しに雪と分かるような雪が降り落ちてきた。積もらねば良いけれど、と心の隅っこで願いながら、窓辺に佇んで雪が舞う様子を眺めていた。

1月。忘れもしない1月のこと。私は相棒の車でローマを目指した。ボローニャで安定した仕事に就くことを諦めた私は、ローマに就職先を見つけた。普通の人ならば、配偶者を置いて別の街にひとりで引っ越しするなんて考えもしないだろう。だから私がローマで仕事を得て、独りローマに移り住もうとするのを周囲の人達は決して快く思っていなかったと思う。でも、私にとって周囲の人達がどう思うとかはあまり大きな問題ではなかった。私は、相棒が同意してくれていればそれで十分だった。相棒は、恐らく寂しかったに違いない。その証拠にローマの仕事の誘いがあった後、酷く慌ててボローニャで私がしたいと思うような仕事が無いかと探し回っていたから。21年も前のことである。あの頃のボローニャと言ったら、外国人が定職に就くなんて夢のような話だった。私がローマの仕事に就くことを相棒が了解してくれたのは、相棒がボローニャでの現実を知ったからと言っても良かった。私は自分の足で立って生活するのが好きだった。結婚しているからと言って相棒に頼って生活することが出来ないタイプの人間だった。もし私が違うタイプの性格だったら、どんなに楽だっただろう。兎に角そんなだから、相棒も引き留めることをせずに、思い切り頑張ってくるといい、と送り出してくれた。
ローマへ行けばすべてがうまくいく、なんて思っていなかった。でも、少なくとも自分の力で生活を切り開いていかねばならぬことで、失いかけていた自分を取り戻すきっかけとなった。好きだったアメリカの生活を引き払ってボローニャに暮らし始めてから、私は日に日に元気を失っていったから。外国人というのは、と言われるばかりで、肩身が狭くて仕方なかった。自分が外国人であることを始めて実感したのもそのころである。私がアメリカに暮らしていた頃は、自分を外国人と感じたことがあまりなかったからである。ローマの何がよかったかと言えば、例えば空が広いこと。大観光地であるが為に外国人であることで周囲に注目されないで済んだこと。もっとも知らない土地で生活するのは簡単とは言い難かったが、しかしいつもどの国のどの町でも始めはそんな風だったから、別に辛いとは思わなかった。
今思えば、随分勇気があったと思う。同じことを今の自分が出来るかと言えば、それはちょっとわからない。若かったからできたことなのかもしれない。いいや、それとも人間切羽詰れば火事場の底力みたいに。なんとかしなければ、と行動に移すことが出来るのかもしれない。そして今思うことは、あの時の世間的には突拍子もない行動が今の自分を支えていると言うこと。くじけそうになった時に思いだすのは、何時も21年前の1月のことだ。出来ない事なんてない。不可能なことなんてない。やってみればいいだけなのだ、と。
最近知ったことなのだが、そんな突拍子もない行動をとって周囲を驚かせて、随分と後ろ指を刺されたというのに、あの頃のそんな私のことを相棒は誇りに思っていてくれたことだ。私を強い人間だと、諦めない人間だと、周囲の評判を気にしないで前に進んで行ける女性だと。確かに彼は寂しかっただろうけれど、そんな風に思ってくれていたのだ、やはり応援してくれていたのだと21年も経ってから知って、私は相棒に頭が上がらない。私が自分を取り戻せたのは、私がローマで仕事をすることが出来たのは、結局自分の力ではなくて、そうした見えない相棒の支えがあったからなのだと。
1月というのはそういう月だ。一年に一度くらい思い出して、それらの全てに感謝するのも悪くない。

それにしても雪はあっという間に止んでしまった。これでいい。積もったりしたら後が厄介だからという私を、ロマンティックでないと人は言う。ロマンティックねえ。勿論私もロマンティックは好きだけど、出来れば雪は避けておきたい。その代わりにこんなのはどうだろう。月を眺めながら相棒と旧市街の広場を一緒に散歩する。寒いから腕をぎゅっと組んで、寄り添って。恋人時代にそうしたように。




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嬉しい土曜日

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夜が明けてみれば天候は一転して快晴。嬉しい。てっきり雪でも降るかと思っていたものだから、朝から気分は爽やか。家の中の空気を入れ替えようと思って窓を開けたら、途端に冷たい空気が流れ込んだ。風は止んでいないらしい。それから寒さも。窓を閉めて外を眺める。下の家のテラスはとても広い。広いって50平米ほどあって素晴らしいのだ。自分のテラスではないけれど、こうして外を眺めるとテラスの樹木が私の目を楽しませてくれる仕組みである。それにしてもテラスが凍り付いている。木の枝には氷柱のようなものも。昨日降ったほんの少しの雨が乾かないうちに凍り付いてしまったらしい。今日の冷たい風では、氷は解けることが無いだろう。きっと下の住人も、同じようなことを思っているに違いない。

数日前、仕事帰りに旧市街の小さな店に立ち寄った。何時も帰りのバスの窓から眺めていた、数年前に店を開けた仕立て屋さん。それまで仕立て業は店を持たずに自宅でする人が多かった。ところがここ数年、仕立て屋さんが店を持つようになったのは、需要が多くなったと言うことなのだろう。この小さな店は案外客が多いらしい。何時も客の出入りがある。腕が良いのだろうか。それとも料金が他より安いのだろうか。そんなことを思っていたところ、ある日、旧市街の衣料品店から、この仕立て屋さんを勧められた。旧市街の多くの衣料品店と契約をしているらしい。此処に持っていけば間違いない、と言うことらしかった。私は手持ちのパンツが何となくしっくりこなくて困っていたのだ。何となくゆるくて良くなかったのだ。しかし直せるのだろうか。そんなことを思いながら、店に入ったと言う訳だった。店は夫婦らしき男女で営まれていて、彼がお金の管理と伝票を、彼女が仕立て業をしていた。頼めば服も縫ってくれるらしい。パンツを穿いて見せると、あなたは腰が張っていないから、と言って私を笑わせながら、ピンであっという間に数か所を摘まんだ。ほら、こうすればいい。と言う彼女には全く驚きだった。彼女いわく、自分の体の寸法に合っていないものは、何となく格好良く見えない。それからそういうものを着ていると、体のラインも崩れるのだそうだ。だから1センチくらい、と思わずに、1センチを直すべきなのだと。こんなに若いのにずいぶん経験が豊富らしい。衣料品店の店主が言った通りだ。此処に持っていけば間違いない。旧市街の多くの衣料店が丈詰めや幅調整に商品を持ち込むと言うのも納得だった。彼が伝票を書いている間、彼女が私に訊ねた。あなた、何処の人なの? こういう質問はよくあることだ。何処へ行っても必ず訊かれる。日本人だと答えると、彼女は自分はブラジル人だと言った。それには私は驚いた。何故なら彼女はボローニャの人ではないと思っていたけれど、他の州から来たイタリア人だと思っていたからだ。完璧なイタリア語。だけどボローニャのアクセントではない、と。イタリア人だとばかり思っていたと驚くと、彼女は嬉しそうに笑った。多分そうでもないと、ここで店をやっていけないのかもしれない。引き取りは一週間後。今はサルディで契約店から山ほどの衣服がお直しに流れ込んでいるから、直ぐに作業に取り掛かることが出来ないそうだ。上等である。忙しいのは腕が良い証拠。良い店を教えて貰った。

土曜日は駆け足。楽しい時間はあっという間に経ってしまう。そんな土曜日に、相棒から小さなプレゼントを貰った。2か月遅れの誕生日プレゼントらしい。銀の器。15センチ四方の、少し深みのある器。小振りだがずしりと重い。角という角が丸み帯びていて、柔らかい印象だ。縁は緩やかな曲線。器の内側には野に咲く草花や樹木、そして蝶が飛び幸福の白いハトが二羽彫り込まれていた。丹念に磨いて美しい銀の輝きを取り戻したが、時代ものなので新品では得ることの出来ない柔らかい輝きが嬉しかった。嬉しそうな顔で銀の器を布で磨く。柔らかく、丁寧に、優しく。猫は先ほどから銀の器に八つ当たりばかりしている。ライバル登場と言うところだろうか。そんな平和な土曜日。




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坂の多い街

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寒い日が続いている。今日はボローニャ郊外の山の町、モンギドーロで雪が降ったらしい。あの辺りは標高800m級だから、そろそろ雪は降るだろうと思っていたところだ。その山からの冷たい風が下りてくるのか、ボローニャの街中は恐ろしいほど冷え込んでいる。寒い、寒い、寒いと10回言っても言い足らぬほど寒い。それにこんな強い風が吹くのは久しぶりだ。しかも其れが酷く冷たいものだから、仕事を終えて停留所でバスを待っている間にすっかり体が冷えてしまった。帽子を被っている頭から、ショートブーツで包んでいる足の先まで。もうこれ以上、待っていられないよう、と悲鳴を上げそうになったところでようやくバスが来た。救われた気分だった。
寒さばかりではない。長い冬の休暇を楽しんだ後の仕事はきつい。多分誰にとってもそうに違いなく、自分を励ましながらの毎日だった。頑張れ。頑張れ。そうしてやっと金曜日の晩を迎えて、喜びの大きな安堵の溜息をつく。温かい家の中で好きな音楽を聞きながら、赤ワインでも頂いて。そんな小さな幸せもある。

昔、私が暮らしていたアメリカの街はサンフランシスコ。あの街の何がよかったかを一言で言い表すのは、ちょっと難しい。例えば空がご機嫌に青くて高いからとか、海があるからとか、色んな言い方があるにしても。そうだ、街の空気と気が合ったと言うのが一番の理由かもしれない。それからもうひとつ、坂だ。其処に住んで初めて気が付いたのだ、私は坂の多い街が好きなのだと。急な上り坂はちょっと辛い。けれどもその先にある何かを期待しながら歩くのは楽しかった。だからひたすら歩いた。時間の有る日はいつも歩いていた。太平洋の方へ、湾の方へ、丘の方へ、それから、それから。私は幸せだった、自分の足で歩けることが、自分の目で確かめられることが。
ところで少し前から好きなテレビ番組がある。フランスの刑事シリーズものである。起用している音楽や、媚びの無いクールな女刑事の性格や素晴らしくすらりとした美しい姿が大変好みで、毎週楽しみにするようになった。そして、その舞台となる街の魅力的なことと言ったら。なんと坂の多いことか。丘の上から眺めると街の様子が赤くて、ちょっとボローニャに通じるようなものを感じていた。街の名前はリヨン。知らなかった、リヨンがこんなに魅力的な街だったなんて。嬉しいショックだった。一度訪れたら、幾度も通いたくなるような街。そんな予感がする。サンフランシスコがそうだったように。

イタリアに訪れた寒波。東ヨーロッパの方から来たらしい。イタリアに来るまで知らなかった、冬がこんなに寒いなんて。何しろ南欧などと呼ばれているから。まさか昼間の温度が1度だなんて。




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凍える夜

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休暇最期の日。明日からいつもの生活が始まるから、出来る限りのことをしておきたくて、朝からあれもこれもと忙しい。でも、ストレスはない。何しろ16日間も休養したのだから、これでストレスがあるなどと言ったら罰が当たるというものだ。
それにしても寒い。今朝起きたら零下5度だった。昼になって太陽が出たが、やっと零度になっただけ。久しぶりにこんな寒さを体験して、しかしながら何処へ出掛けなくてはいけないこともなく、ぬくぬくと家の中に居ることが出来るのだから感謝である。昨晩テレビの報道で、イタリアの多くの地方で雪が降ったことを知った。北イタリアの山沿い地方は当たり前としても、南イタリアのプーリア州やシチリアで。それから数か月前に地震で大きな被害があった一帯でも。夜中には氷点下18度にも下がるらしく、簡易住宅の充分な暖房設備がない中で生活する人々のことを思うと、辛い気持ちになった。それから家の無い人々。つまり何かの理由で都市の路上で生活する人々のことである。法王の提案で国、又は市が用意した車の中で寒さをしのげるようにしたそうである。なかなか良い案だと思うけれど、どれだけの人達がその恩恵にあずかれるのだろう。これを機会に彼らが路上での生活に見切りをつけて普通の生活に戻ろうと、そして戻れる状況を周囲が作れたらよいのにと思ったけれど、口で言うのは何と容易いことか。少しづつ、少しづつ良い方向に動いていくこと。それが私の小さな願いである。

アメリカに暮らして2年目になるかならぬかの頃のことだ。ありったけの貯金を携えて始めたアメリカ生活だったが、生活費や学費、それから時には小旅行もしているうちに貯金が殆ど底をついてしまった。特別贅沢した覚えはなかったけれど、要するに貯金が充分でなかったのであろう。それとも経済観念が無かったせいかもしれない。しかし、出ていく一方で入ってくるものが無かったのだから、当然と言えば当然だった。そんな時、知人の紹介で運よく職を得て、生活費と学費に困ることなく、食費だけ節約すれば何とかなるところまでこぎつけた。このままいけば直に食費も充分確保できるようになるだろう、と安堵の溜息をついたころ、私は病気になった。酷い高熱で、頭が割れるように痛かった。立っているのも辛いほど弱っていて、医者に行こうと思ったところで気が付いた。日本で掛けてきた医療保険の期限が切れていたのだ。私は途方に暮れて、何とかならぬかと祈りながら、感じが良いので評判の日系アメリカ人の医者に電話をした。医者は親身になって話を聞いてくれたが、保険が切れていたらどうにもならない。まともに診療を受けたら高額請求書を受け取ることになると言って、無料の診療所を薦めてくれた。それはミッション地区の、元気な時でも出来れば行きたくない界隈だった。医者は其れも承知だったが、しかしその高熱と頭痛を放置しておくよりは良いから、と言って私に住所と電話番号を渡して静かに電話を切った。私はあの医者を恨んではいない。寧ろ、大変親身に話を聞いてくれて有難かったし、無料診療所を教えてくれたことにも感謝していた。実際私はその後、無料診療所に電話をしてみたのだから。ただ、電話の第一声が、ヒスパニック系の強いアクセントの英語だったこと、私自身が話をうまく出来なかったことで、結局そこへ行く勇気が無くて諦めてしまったけれど。私が運が良かったのは、私の様子を見かねた職場のひとりが、カトリック教会が営む診療所に連れて行ってくれたことだった。初めの10人だけ無料で診てもらえるそうで、早朝だるい体に鞭を打って列に並ぶべく診療所へ行った。診療所があるのは低所得者が住んでいると呼ばれる、旅行者は近づかないほうが良いと言われる危険な地区だった。ミッション地区も其処も似たようなものだった。だから同僚が同行してくれたことは全く心強いことだった。結果から言えば私は10人に入っていなかったが、同僚のおかげで無料で診療を受け、検査をして、必要な薬を得ることが出来た。その後も幾度か通って完治することが出来たのだから、私は本当に運が良かった。もう25年くらい前のことである。そんな昔のことなのに、私が今でもよく覚えているのは、早朝に診察を受けるために並んでいた人々の様子があまりに印象的だったからだ。私の前には日本人の、年の頃は25歳ほどの女性が居た。何時から並んでいたのか、古い毛布にくるまって眠っていた。彼女が着ていたのは、その当時よりも何年か前に日本で大変流行した紺のダブルのマリンジャケットでだったから、彼女がその頃アメリカにやって来たことが想像された。彼女は薬物を常用しているらしく、目の周りは黒いくまでまるで死人のようだったが、時々悪い咳をすることでまだ息をしていることが分かった。彼女の前に居るのはどろりとした装いの男性。アルコール中毒だろうか。その前に居る人は。それから、その前の人は。恐らく皆、路上で生活する人達。今までの私の生活には存在しない人達が前後に並んでいた。そして私はその列の中のひとりだった。傍から見たら私は異質な存在だっただろう。そして私は周囲の人達を異質な存在として怯えた。でも、誰にもわからない。どうして彼らそんな風になったかなんて。もしかしたら裕福な人達だったかもしれない。何かが起きて転がり落ちるようにして家を持たない路上の人となったのかもしれない。それは其の人にしか分からない。そしてそれを訊こうとする人もいない。私は必要なものは皆与えられ、守られて育った温室育ち。初めて見た現実だった。これはアメリカ生活の中でも忘れがたいことのひとつ。そして忘れたくない事でもある。かけがえの無い経験と言っても良かった。
その2年後だっただろうか、ノードストロームの前の横断歩道の向こう側から、お洒落をした日本人女性がアメリカ人の男性と腕を組んで歩いて来るのを見て驚いた。紛れもなく、私の前に丸くなって眠っていた、時々悪い咳をしていた彼女だった。健康そうな顔色で、もう目の周りのくまは無かった。崩れたところはひとつもなく、幸せそうな彼女。あれから人生を立て直したのだろう。良かった。色んな人生がある。どれが良くてどれが悪いなんて他人が決めることではない。誰にとってもたったひとつの人生。苦しんだり試行錯誤しながら進んでいく。苦労した分だけ、望んでいた生活を手に入れた喜びは大きい。私は知っている。それから、横断歩道で再会した彼女も。

外は氷点下の世界。月が驚くほど輝いて見える。こんな晩は旧市街の広場はさぞかし美しいことだろう。ポデスタ宮殿の橙色の灯り。重圧なサン・ペトロニオ教会。空高く輝く月を眺めながら歩いたら、美しい詩でも書けるだろう。いいや、こんな凍えるような寒さでは、尻尾を巻いて逃げるだろう。




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