突風

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樹の枝が揺れている。ジャスミンの細い蔓もゆらゆら揺れる。天気はいいが風が吹く。しかし其れもうちの辺りだけに限ったことかもしれない。2年前の夏、日本へと発った日は風がとても強かった。真夏の真昼間で、いつもなら窓を開け放っておきたいところだったが、遂に家中の窓を閉めなければならなくなった。迎えの車が到着して、乗りこむなり言った。今日は風が強いから飛行機は大丈夫だろうかと。すると運転手が笑いながら、シニョーラ、風がこんなに吹いているのはこの辺りだけですよ、と言った。事実、旧市街へと向かう大通りを走り始めて少しすると街路樹は微動もせず、道を行きかう人達のスカートの裾やシャツすらも風に揺れていなかった。もう20年以上も前に読んだ本の中にスパッツァ・ヴェントという名の土地があると書いてあった。何処にも風は吹いていないのにその土地だけはいつも風が吹いていると書かれていたが、私が暮らすこの界隈もそうした風が良く吹く場所なのかもしれないと思ったものだ。

スパッツァ・ヴェントとは、履き出す風、一掃する風と訳すと良いだろうか。突風みたいなものに近いかもしれない。兎に角いきなり吹いたかと思うと、其処の在ったものを吹き飛ばすような強い風のことだ。私がそんな風の名前を知ったのは、宮本美智子さんと言う女性が綴った本だった。本を購入したのは表紙の絵が美しかったこと、そして、此れからイタリアに引っ越しをするという時期だったから。本の内容はイタリアのトスカーナで休暇を過ごした家族の日記みたいなものだったから、関心を持ったのは言うまでもない。しかし一番の理由は、彼女という怖いもの知らずで鉄砲玉のようで、ひたすら前向きな人が好きだったからだ。子供の頃から本が大好きで、大人になるまで本当に沢山の本を読んだ。ジャンルは様々で、そのひとつが彼女が書いたエッセイだった。彼女がアメリカに飛び出して行った話は面白かったが、こんな突拍子な、奇抜な考えを持つ人、行動ととる人なんて本当に存在するのだろうかと思ったものだ。しかしそれも、十代の頃に読んだ桐嶋洋子さんの話を思えば、そんな人が存在しても決して不思議ではない、そうだ、人間は異なった考えを持っていて当たり前なのかもしれない、と思うようになった。私がまだ、アメリカへ行きたいと思い始める何年も前の頃のことだった。私が彼女に影響されたのかどうかは、実のところ自分でもわからない。ただ、確実なのは、自分が周囲の人と同じでなくてもよいのだ、足並みそろえて生活する必要などないのだということに気付くきっかけになったことだ。それは自分の解放であり、自由を手にした鳥のような気分だった。それから私は怖いものが少なくなった。人と考えが異なっていることで、周囲の人達がどう思うかを気にしなくなったからだ。ひとりが好きな当時の私の怖いものとは、周囲の目だったから。そして怖いものが無くなって自由を手にした鳥のような気分になっても更に窮屈に感じ始めた時、丁度見つけた居心地の良さそうな場所、アメリカへと飛び出した。逃避だったかもしれない。でもそれでも構わなかった。彼女の本を初めて読んでから何年も経った頃、美しい表紙の彼女の本を本屋で見つけた。鉄砲玉だったような若い頃の彼女とは違う、豊熟な文章だった。それを私は残念とは思わず、人間は少しづつ変化していくもの、成長、と前とは異なったことを教えて貰った気分だった。突き進むばかりでなくて、受け止めることも勇気のひとつ、と。本には突風の話が書かれていて、その突風は若い頃の彼女のようだと思った。それにしても、そんな風が吹く場所なんてあるのかしらと思っていたが、私が住む界隈も、一種そんな場所ではないか。なんだ、なんだ、ボローニャのスパッツァ・ヴェントだな、と。

突き進むばかりでなく、立ち止まってみることも、振り返ってみることも悪くない。目の前にある好ましくないことを一時的に受け入れることにしても。色んなことをしてみて初めて解ることもある。長い年月をかけてようやく解り始めた。




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自分を大切にする日

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何か特別なことをしたでもないのに、昨晩食事を終える早々酷い疲れに襲われた。ベッドに潜りこむなり身体の芯から痺れるような眠気がやってきて、知らないうちに深い眠りについた。そんな私を見た相棒は、私がとても疲れている、私がここで生活していることで想像を超える苦労をしていると思ったらしい。今朝目を覚ますと相棒はとても優しく、今日は一日自分を大切にする日にするといい、みたいなことを言って外に出ていった。土曜日だというのに仕事のアポがあるらしく、そんな彼の方が私にはずっと不憫だったけれど。それに自分を大切にする一日なんて。実を言えば毎日がそうなので、そんな優しい言葉をかけて貰って逆に申し訳ないくらいだった。しかし、彼がそんな風に思ったのはどうしてだっただろう。近頃急激に体力が低下した相棒が、今更ながら自分の年齢を自覚するようになったからか。それとも先日ふとした拍子に、もうじきボローニャに引っ越してきて丸23年が経つ話に至ったからだろうか。その23年の間に私達が通過した様々なことを、彼なりに記憶をたどってみたのかもしれない。

23年前の5月下旬。ボローニャに降り立った私達を迎えたのは明るい太陽だった。明るい夕方で、空港から乗ったタクシーの窓から旧市街に暮らす友人のアパートメントまでの様子を私は黙って眺めていた。此処がこれから私達が暮らす街。相棒が生まれ育った街ではあるが、20年も留守にしていたから、此処にはこれから生活していく為の根も生えていなければ種すらも植わっていなかった。相棒の家族は居たが、彼らのところには行かずに友人のところに行ったのは、相棒なりに色々考えてのことだった。それが幸運だったか否かは当時の私には分からなかったが、今となっては全くの幸運だったと思える。私達が家族に頼らずに始めたこと。それが私達の力となり、勇気となったから。相棒の友人のアパートメントは外見こそ古くて手入れがされていず、こんな所に住めるのかと驚いたものだけど、階段を上がって家の中に入ると古い作りを大いに利用した、素朴で気持ちの良い空間だった。磨き上げられた大理石の床。裸足で歩いてはいけない、初めは冷たくて気持ちがいいけれど、そのうち膝が、腰が痛くなってお腹まで冷えて痛くなる。絶対だめよ。と言ったのは友人のクリスティーナだった。弁護士の卵で良家のお嬢さん。旧市街のすぐ外に家族の広い家があるけれど、もう大人だから自立したいと思って旧市街の此処にアパートメントを借りたと言っていた彼女は、若いけれど地に足がついて素敵だった。そこにはもうひとり住んでいる人が居て、それがチンツィアだった。彼女は見本市関係の広告代理店でデザインをしていて、美しい顔と姿の彼女はどんなものを身に着けても大変素敵で輝いていた。何も分からない私。当時のボローニャでは珍しかった異なる生活習慣を持つ東洋人の私を受け入れて生活するのは大変だっただろうに、遂に誰も、一度も、不平不満を漏らすことがなかった。それどころか、此れから私がこの街でうまくやっていけるように色んな人に会わせたり、様々な場所に招いてくれた。あれが私のボローニャの出発地点だった。もう会うこともないし、彼女たちが何をしているのかすらわからないのは、私達に、そして彼女たちにも、あれから沢山の変化があって連絡先が分からなくなったからだ。街ですれ違っても分からないだろう。昔は少ない東洋人のひとりだった私も、今では少しも珍しくないと東洋人のひとりとなった。相棒は年こそ加算されたが、基本的なところは昔と同じ。だから彼女たちが相棒を街の雑踏の中で見つけ出すことは出来るかもしれないけれど。

明るい夕方。こんな素敵な夕方をのんびり過ごせるのは嬉しいことだ。近所のジャスミンの花は満開だけど、うちのはまだ堅い蕾。冬の終わりに枯れてしまい、もう駄目かもしれないと思っていたのに、いつの間にか葉が生い茂り蕾をつけてくれたのだから、若干開花が遅いくらいは何の問題でもない。のんびり、ゆっくり。ちょうど私や相棒と同じ。深呼吸しながら一歩づつ前に進んでいけばいい。




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贅沢なこと

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毎日夕方に雨が降る。それも私が職場を出る時間をめがけて雨が降る。何故だ。と空に問うが返事はない。明日もこんなならば折角の金曜日の夕方が台無しだ、と空に文句を言っておいたから、多分大丈夫だろう。そうであって欲しいと思う。

相棒と出会ったのはサンフランシスコ。私は一生この街に暮らしたいと思っていたというのに、相棒に遭遇したことで人生の方向が変わってしまった。それが良いか悪いかは、私には分からない。ずっとあの街に居たかったことは確かだけど、今思えばボローニャと言う違う世界を覗くことが出来たのは案外幸運だったのかもしれないと思う。
相棒との時間は楽しかったけれど、しかし一番楽しかったのは、そして忘れようにも忘れられないのは、私がまだシングルで、生きることに夢中だった頃のことだ。27年前ほどのこと。私はそれを私の遅い青春時代と呼んでいるのだけど。何でも自分でしなければ先に進まなかった。一握りの友人と一握りの知人が居て、しかし誰に助けを求めるでもなく、ぎりぎりまで自分ですべてをしたかった。そう言う私に周囲の人達は、もっと人に頼ってもよいのだよと助言してくれたけれど、私は若くて元気だったから、何処までも突っ張って、何時も自分を奮い立たせていた。自分の力を過信していたのかもしれないと今は思う。そのために酷い貧乏生活もしたり、過労で倒れたりもしたけれど、そういうことまでもが楽しくて尊くて堪らなかった。生きている実感。多分そんな風に感じていた筈だ。相棒と結婚しても、私はやはり私だったから、今までのように生きることに夢中で居られなくなったことを少し残念に思ったことがある。それが互いを尊重しあうこと、共に歩むことのパズルのひとつみたいなものだと自分で気付くことが出来た私は、運が良かったのかもしれない。もし他人にそれを示唆されていたら、私は結婚というものを疎ましく思って、早いうちに放棄してしまったかもしれないから。
イタリアに来ると相棒は変わった。以前のように互いが外国人の立場では無くなり、相棒だけが水を得た魚のように自由に泳ぎだした。そんなことはないと彼は言ったけれど、少なくとも私にはそんな風に見えた。それを私は少し不公平だと長いこと思っていたけれど、実は本当に自由に泳いでいたのは私の方で、彼は家族のしきたりやら自国の風習に括り付けられて、身動きが出来なかったのかもしれない。それに気づいたのは、実につい最近のことだ。あなたは自由でいいわね、と人から言われて。そんなことはない、私はいつも窮屈な箱の中に詰め込まれているようなもので、と言い返そうと思ったところ、いいや、そんなことは一度だってなかった、私にはいつも選択肢があって、何時も自由に選ぶことが出来たのだ、と気付いたのだ。自分で感じていたよりも私は幸せだったのだろう。ただ、私がそれに気づけなかっただけで。それでいてシングルだった頃のことが眩しく思えるのだから、自分の贅沢加減に溜息が出る。

氷色と言うのが存在する。私の好きな色のひとつだ。クローゼットの中にある、夏場の薄手のコットンパンツは氷色。素材が涼しいばかりでなく、色も見ているだけで涼しくなる。今年の夏は暑くなるそうだから、涼しげなシャツを新調したい。氷色のパンツに良く似合うような。麻か綿の白いシャツを。




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5月は行ったり来たり

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職場を出たところで雨が降り始めた。小粒の雹も一緒に。なのに少し先まで行ってみたら、どこを探しても雨跡などなかった。濡れた傘を持っていたらバスの停留所に居合わせた老女に何処で雨が降っていたのかと訊ねられて苦笑した。少し先のところで。結構降っていたのよ、と言う私に彼女は不思議なこともあるものねえ、と言って空を見上げた。旧市街の方の空が真っ黒なのを見つけて、シニョーラ、ほら、旧市街の方は雨は降っているに違いない、と私が囁くと、老女はこれから旧市街へ向かうらしく困った顔をした。そのうち彼女の乗るバスが来てさようならをしたけれど、彼女は雨に降られてしまっただろうか。うまくいったならいいけれど。

ワイン農家から樽で購入したワインを相棒が瓶詰したのはいいけれど、きつく栓をしてあるので私の力ではかなわない。コルク栓ではなくプラスティックの栓で、栓抜きなんてものではなくて手で、エイ!と抜くのである。近年、力が全然でない私は、この種類の栓を抜くことが出来ず、遂に諦めることにした。相棒が遅く帰ってくるために、ひとりで食事をする晩のことだった。ワインなしの夕食なんて。そう思って居間に行ってみたら、飛び切り美味しいハンガリーワインと、相棒が大切にしているカリフォルニアワインの最後の一本があった。双方ともコルク栓だ。これなら簡単に開けられると手に取ってみたが、どちらも相棒が特別な日にと言って栓を抜くのをずっと先送りにしているから、何でもない日に勝手に開けてひとりワインなどしたら喧嘩になるであろうことが安易に想像ができた。私は手にした2本のワインをそっと元の場所に戻し、珍しくワインのない晩を過ごした。などと言うと、大変な酒飲みのように聞こえるだろうか。正直言ってワインは好きだが、何杯も頂くことは滅多にない。グラスに一杯。それが私と相棒の適量で、気分を盛り上げ食欲を増進する美味しいワインをちょっとが、いつの頃からか決まった私達のルールだ。酔うほど飲む必要はないということだ。夕食を終えてひょいと棚の上を見たところ目に留まった黒いボトル。手に取ってみたら、2001年と記されていて、手描きの小さなラベルは私が書いたものだった。ああ、これはジーノの胡桃酒だ。相棒が地下倉庫から持ってきたに違い、17年も前に彼の庭の胡桃の樹に実った胡桃を使って丁寧に作った、ジーノ特製の胡桃酒だった。ジーノと言うのは私達の友人で、私達がイタリアに引っ越して来る前から知っていた、古い友人と言っていい。元をただせば相棒の幼馴染の恋人だったジーノ。それがいつの間にかジーノだけが私達の周囲に残り、何かあれば彼が暮らす山の家に行くのが習慣になった。一頃は週末ごとに彼の家を訪ね、一緒に食事をしたものだが、それも5年ほど前に何となく交流が無くなり、今では声を聞くこともない。何だか残念ではないか、と時々相棒を促すけれど、そのままにしておく方が良い時もある、とのことで一向に電話を掛けようとしない。喧嘩をしたでもないし、いったい何が何だかわからないけれど、相棒の方が仲が良かったから、彼の言う通りそのままにしておくことにした。そして1年に2度ほど言うのだ。ジーノに電話をしてみようよ、と。もう数年経ったら、相棒はうんと言うかもしれない。兎に角そのジーノが作った胡桃酒の美味しいことと言ったら。一頃毎年ジーノが胡桃酒を作って、そのうちの数本を分けてくれた。この2001年物の胡桃酒はそのうちのひとつで、もしかしたら最後の一本かもしれなかった。栓を開けるといい匂い。強い酒なので小さなグラスに少しだけ。口に含むと胡桃酒はとろりと口当たりが良く、それでいて強くて鼻につーんときて、その後に何とも言えぬ匂いと旨みが広がって、うーんと唸らずにはいられなかった。其処に相棒が帰ってきて、あっ、独りでそんなものを飲んで、と言うので、隠れて飲んでいるところを見つけられたようで気まずい思いをしたが、いや、なに、彼も欲しかっただけだ。胡桃酒を彼の小さなグラスに注いで、そして私のグラスにも少し。乾杯をして胡桃酒を頂きながら、ジーノはどうしているだろうと思った。多分うまくやっているのだろう。そうであって欲しいと思った。会うことはなくとも、話すこともなくも、やはり彼は私達の大切な友人だと思うから。

暖かかったり涼しかったり。ボローニャの5月とはこんなものだっただろうか。クリーニング屋さんの女主人曰く、今年は全く妙な気候だ、とのこと。夜は冷え込むので春先のジャケットはまだ手元に置いておく方がいいらしい。明日は今日ほど気温が上がらない予感がする。春と初夏が行ったり来たりで5月は本当に忙しい。




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有難くて嬉しいこと

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母の日を迎えて、海の向こうに居る母を想う。こんなに大きな大人になった今も、母にとっては私は子供のままであろう。勿論一人前の大人扱いをしてくれはするけれど、心配ばかりかけている、いつも心細くて母の後ろに隠れている女の子の印象が母の脳裏に染みついているに違いない。その証拠に母からの便りには、私が元気にしているのか、無理はしていないか、相棒と仲良くしているか、と、文面の裏側に、大丈夫かなあ、といった気持ちが含まれている。それがこの頃の私には有難くて嬉しい。母がまだ元気な証拠なのだと思っている。

窓の外の菩提樹が花をつけた。目を凝らさないと見えないほどの小さな花。思うに菩提樹は私の元気の象徴みたいなもの。濃い緑の葉をふさふさとつけるその様子を見ていると、私はぐんぐん元気になる。いや、それまでだって元気だったけれど、しかし菩提樹のそのエネルギッシュな様子が、私に新たな力と勇気をもたらせると言うと良いかもしれない。そして枝に茂った葉が風に揺れるその音はさざ波のようで、心癒されてふーっと胸の底から息を吐き出したくなる。暑い季節も菩提樹のさざ波があれば何とかやっていけると気付いたのは一昨年前のことだ。
ローマに暮らしていた頃、プラティ界隈にアパートメントを借りていた。イタリア人4人との共同生活で賑やかで楽しい生活だった。プラティと言う界隈自体も気に入っていたし、アパートメント自体もよかったけれど、ひとつ残念なことがあった。私の部屋は建物の中側に面していて、窓を開けると住人たちの窓に囲まれた空間しか見えなかった。窓を全開すれば他所の家から見えてしまうし、反対に他所の家の中が見えてしまう。この辺りの人達はそうしたことを気にしないようで、皆潔く窓を開け放っていたけれど、私はなかなか慣れることが出来なかった。そもそも私は窓を開けたら樹が存在する、そうした状況を好んでいたから、開ける必要もなかった。それに建物は古くて壁が分厚く、天井がいやに高く、床が大理石だったから、窓を閉めていてもひんやりとして夏場も苦痛ではなかった。窓を開けても樹がないから、時間を見つけては外を歩いた。この辺りには安易に樹が植わっていたから、歩きながら不足していた喜びを補充した。喜びを補充しながら街を歩くと表情が自然と明るくなって、すれ違う見知らぬ住人たちに声を掛けられたものだ。やあ、楽しそうだね、何処へ行くんだい。良いことでもあったの?とても嬉しそうよ。と、そんな感じに。確かに私は嬉しかった。何故ならボローニャに相棒を残してローマにやって来てしまった私を、周囲の人達が良くしてくれたし、ボローニャの田舎でぐずぐずしている生活から脱出して自分の友人知人、同僚を手に入れて、自分の足で立って生活している実感を再び取り戻したからだ。これで相棒がローマに引っ越して来れば完璧だったが、世の中そうはうまくいかないもので、私が手に入れた生活を折りたたんでポケットにしまってボローニャに帰ってしまったけれど。でも、と思う。私があの頃ローマに行ってあの生活をしなかったらば、恐らくとっくの昔にしっぽを巻いてアメリカか日本へ逃げていったことだろう。何故ならボローニャの田舎でのぐずぐずした生活はそれほど長く続けられるようなものではなかったから。受け入れなければならぬことばかりで、自分がしたいことも求めていることも認められることはなかっただろうから。
と、そこまで考えて、思う。今が何と幸せなことか。ああだ、こうだと文句を言いながらも、自分の居所があり、自分の意思で色んなことを決めることが出来て。随分と贅沢になったものだ。窓の外の揺れる菩提樹の葉を眺めながら、今手元にある普通の生活の幸せを噛み締め、そして自分に言い聞かせるのだ。もう少し感謝しなくてはいけない。

猫は随分と気持ちが落ち着いたらしく、いつものような機嫌のよい猫に戻った。歩く私の背後について歩き、時々、ねえ、ねえ、と言うかのようにグイッと膝っ小僧に頭を押し付ける。はいはい。機嫌が良くてよろしい。人間も猫も元気で機嫌がいいのが一番だ。




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