土曜日の早起き

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暑い週末になるだろうと囁かれていた。だから目を覚まして外が涼しいのには、意表を突かれた、という言葉がぴったりだった。毎朝簡単な柔軟体操をしている。起き抜けの体をほぐすため、そして朝でもなければ暑くて体操などできないからだ。そんなこともあって、土曜日だと言うのに早めに起きた。それでなくとも体調が優れない今日この頃だ、静かな朝の柔軟体操は私に必要だと思って。この柔軟体操、しなくなると直ぐに億劫になる。しかし毎日習慣的にしていると少しも面倒臭くない。案外何事もそんな物なのかもしれない、と毎朝体操をしながら思う。だから私はこの習慣を乱すことなく続けるのだ。それで土曜日だと言うのに早めに起きてみたら、この涼しさ。今日は家に閉じ籠もって静かに過ごそうと思っていたけれど、急に外に出たくなった。こんな涼しい土曜日は、もう暫くないに違いないからと。

旧市街は、しかし少しも涼しくなかった。どうやらあの涼しさは私が暮らす辺りに限ったことらしく、実際、旧市街を行きかう人々ときたら、肩や背中をむき出しにした真夏の装いだった。バスを旧市街に入ったところで下車して歩き始めると直ぐに額に汗が噴き出した。さて、しかし来てしまったのだから楽しもうではないか。そのまま真っ直ぐ歩いて行けば街の中心。今日はその道を取らずに左に折れてみた。古い、昔から住む人が多い界隈。ポルティコの下で大きな扉から出てきた男性と犬に出会った。男性は年の頃は40代。優しそうな顔をした、素朴なボローニャ人と言った感じ。犬は小型で品種は分からない。毛並みの短いタイプの犬だ。首にパラボラアンテナのようなもの、そうだ、エリザベスカラーと呼ばれるものを着装していてそして肩から腕、胴体にぐるぐると包帯を巻いていた。あらら、どうしたの。私が犬に話しかけると、飼い主がぼそぼそした声で教えてくれた。犬に噛まれたんだ。よく見ると飼い主もまた後頭部から首の後ろにかけて大きなガーゼを張り付けていた。え、犬に噛まれたんですか。私が訊き返すと飼い主がまたぼそぼそと答えた。うん、犬と僕は他所の大きな犬に噛まれてね。あらまあ。私が答えられたのは、この一言だけだった。良い週末になるようにと互いに言葉をかけあって、それぞれの道を歩き始めた。少し行くと昔よく歩いた道に辿り着いた。まだボローニャに暮らし始めて間もない頃、友人の両親が営む花屋へ子供たちの面倒を見に行った時に歩いた道だ。花屋へ行く時は、大抵友人は夫婦で外国旅行中で、2週間ほど両親に預けるのはいいが、何しろ花屋を営んでいるから、ということで昼間の数時間子供たちの面倒を見てくれないか、というのがこの道を歩いた背景だ。この界隈には昔から長く住んでいる人が沢山居るらしく、花屋にはそんな古い住民たちが足しげく通った。そうしては、彼女はね、娘の友人でね、まだイタリア語はあまりわからなくてね、と紹介してくれたものだった。近所に住むエルコレとテレーザの夫婦は私に大変親切で、時には彼らの家に子供たちと私を招いて冷たいものをご馳走してくれたものだった。だから、ある日エルコレが心臓発作であっという間に他界すると、私も子供たちも涙が止まらなかった。テレーザは独りぼっちになってしまったの? 子供たちにそう訊かれて、胸がぎゅーと苦しくなった。その子供たちも今はロンドンに暮らし、もう20代になった。随分昔のことを思いだして、花屋に通ったこと、子供たちと過ごしたこと、エルコレとテレーザに出会ったことは、私には宝物のような思い出なのだと今頃分かった。あの頃辛いことばかりで良いことなんて何も無かったと思っていたけれど、そんなことはない。ただ、あの頃には良いことが見えなかっただけなのだろう。私が心を塞いでいたために。
涼しいと思っていたから薄手とはいえジーンズを履いてきたが、失敗だった。一刻も早くジーンズを脱いでしまいたい衝動にかられて、気持ちを抑えるのが大変だった。

土曜日なのに早く目を覚ましたからなのか、今日は昼寝をしたくなった。昼寝なんて子供の時だって嫌いでしたことがなかった。私の昼寝嫌いは有名で、大人になっても昼寝なんてしたことがなかった。昼寝をしたくなるなんてねえ、と思いながら体を横たえると直ぐに眠りに落ちたらしい。目を覚ましたら夕方になっていて、ベッドの上に小さな紙きれがあった。君がよく眠っているからそのままにしていくよ。相棒が読みづらい字で残していったメッセージだった。




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余裕

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金曜日。今朝はゆっくり目を覚ました。昨日どうも調子がおかしいと思っていたが、晩になってそれが頂点に達したらしい。もうすぐ零時という頃に相棒に激しく揺すられて目を覚ました。どうやら私は何かをしている間にベッドの上に倒れ込み、そのままになっていたらしい。らしい、と言うのは自覚が全くないからだ。何も覚えていないからだ。気絶、というやつだろう。相棒が見つけてくれたのは幸運だった。しかし怖いことだ。冬季休暇から夏季休暇の間はとても長く、心身ともに少し参っていたのだろう。それからこの暑さ。大人になってから暑さが苦手になったけれど、まだ、この暑さとうまく付き合う術を身に着けていない。これは誰にでもあり得ること。海の向こうに暮らす家族は私よりも賢く生活しているだろうか。私の友人達は元気にしているだろうか。兎に角、休暇までの残り3週間を心に余裕を持って元気に過す、これが暫くの間の目標だ。

少しフランス屋から遠のいている。春まではフランス屋に通う人達や店の人とお喋りしながらフランスのワインを楽しむために、仕事帰りにふらりと店に立ち寄ったものだけど。それが少しずつ変化しつつある。別にフランス屋を嫌いになったわけじゃない。ただ、家で相棒と夕食時にワインを楽しみたいだけだ。いつの頃からかワインの量が減った。それも別にワインが嫌いになったわけじゃない。自分の適量がようやくわかったからだろうと私は思っている。それでフランス屋に足が遠のいた分、時々バスを途中下車してジェラート屋に出向いている。旧市街の片隅にあって、古い店構えの、地味な雰囲気の店だ。同じ通りの少し先にもBIOの美味しいジェラート屋があるけれど、私がここが好きだ。素朴な味のジェラート、素朴な客層、それから素朴な感じの店主。店の奥でジェラートを作って顔を見せないことが多い店主だが、このところ人手不足なのかカウンターの中に姿を見せている。この店に初めて入ったのは11年程前の今頃だった。夏のセールの買い物につきあって欲しいと友人に声を掛けられて、土曜日の昼前に重い腰を上げて旧市街に行き、買い物を終えると友人がこの店に行こうと言いだしたのだ。え、どの店? 私がそれまで店の存在すら知らなかったのは、ポルティコの下にある店の外観があまりに地味で気が付かなかったからだ。夏の昼下がりの旧市街はまるで砂漠のように暑く、人の姿もまばらだった。ポルティコの下を歩きながら、私達がどんな話をしたかはもう覚えていない。ただ、友人が名のあるブランドの店で襟のラインが美しい白いシャツを購入してご機嫌だったことだけは覚えている。店に到着すると、ああ、こんな店があったのか、と私は開いた口が塞がらなかった。店の前を幾度も歩いていながら気付きさえしなかったことに、多少ながらショックを受けたと言ったらいいだろうか。店の中は客ひとり居ず、まるで店が開いていることすら忘れていたかのように、奥から店主が出てきた。私達は淹れたてのカッフェに好みのジェラートをふたつ落としたフラッペと呼ばれるものを注文した。それを友人が薦めたからだった。壁に沿って並ぶ小さなテーブル席に着いて店内をぐるりと見まわすと店主の好みがよく分かった。古いものが好きなのだ。由緒あるアンティークというよりも、古道具屋にあるような素朴な古い物。そういうものを私と相棒はアメリカに居た頃に沢山買い集めたものだ。だから私が店主に親しみを感じたのは当然と言えば当然だった。私達は時々店主と言葉を交わしながら一時間ほど店に居ただろうか。後にも先にも客はいなくて、今日は商売あがったりだ、みたいなことを言って店主が私達を笑わせたのを覚えている。あれが始まりで、私は時々仕事帰りにこの店に立ち寄るようになった。夏ばかりでなく秋も冬も、そして春も。時には店の奥で作っているチョコレートを買い求め、時には外は冷たい木枯らしが吹いているのにジェラートを注文したり。そのうち店主が顔を覚えてくれてくれるようになった。顔を覚えもらって得することは特にないが、店に入った瞬間に飛び切り機嫌の良い声で挨拶してもらえるのは、大変気持ちが良いものだ。やあ、元気かい。やあ、今日は暑いねえ。そんな程度だけれど。数日前もそうだった。注文したジェラートを小さなスプーンですくっては口に運び、それが口の中で溶けて広がるのを堪能していたら、店主が話しかけてきた。美味そうに食べるねえ。そうよ、だって美味しいんだもの。私がそう答えると、嬉しいねえ、そういう言葉は嬉しいねえ、と言って店主は顔いっぱいに笑みを広げた。世間話もしなければ、人の噂話もしない。ほんのひと言ふた言だけ。でも、それが一番気持ちいい。この距離感が丁度いい。

今夜は美しい星と月が見える。久しぶりに夜空を仰ぐ余裕ができた。時間ではない。気持ちの余裕だ。これ、実は馬鹿にならない大切なこと。夜空の星や月を眺める心の余裕は、生活の根本につながると私は信じている。




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雨に降られる

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仕事がもう少しで終わる、という時間になると何故か雨が降る。夕立といえば聞こえがいい。季節の風物詩みたいな感じがして。しかしこうも頻繁に夕方雨に降られると、もう、空が意地悪をしているとか、悪い癖がついたとか、後ろ向きな考えが浮かぶというものだ。今日の雨もそんな風だった。小降りになったところで職場を後にして、もうすぐ止みそうだなどと思っていたところ、とんでもない、大雨に遭遇。手持ちの傘は頭を雨から守るのが精一杯らしく、肩といい、背中といい、それから膝下などはお見事と言いたくなるほど強かに濡れた。靴は論外だった。それに酷く冷えて、どうやら20度を下回っているらしかった。ようやく向こうから来たバスに乗りこんで寄り道せずに家に帰って来たけれど、何やら怠く、発熱に見舞われた。ああ、あの雨。あの雨のせいだろう。北向きの窓ガラスは少しも濡れていなかったが、南向きの窓には雨粒。冷たい雨だったが、南からの雨というところが実に夏らしく、しかたがないなあ、と悪戯小僧にちょっかい出されたみたいな気分になった。月曜日からこんなでは先が思いやられる、と空に訴えてみたが、私の声は空の誰かに届いただろうか。

ところで雨に濡れた窓ガラスを拭いてしまうのが勿体なくてそのままにしておいた。雨は嫌いだけれど、ガラス窓についた雨粒の群れは美しくて大好きだから。




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始まり

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昨晩、遅い夕食時に降り始めた雨。降り始めはポツリ、ポツリ、と。そしてあっという間に激しい雨になった。東の空が稲妻で幾度も白く光ったが、猫が1メートルも高く飛び上がって抽斗箪笥の下に潜りこんだ時の稲妻は、人間の私でさえ背筋がザワザワとざわめいた。後にやって来たのは涼しさではなく生温い沢山の湿度を含んだ風。おかげで寝つきがひどく悪くて、夜中に幾度も目が覚めた。こんな風に目覚めた日はしんどい。その上、朝から蝉がしきりに鳴いている。しかし其の蝉が鳴かなければ、夏の情緒も半減するのかもしれない。それでなくとも私が過ごした子供時代の夏らしさが何処を探しても存在しなくなった今、蝉くらい鳴いてもらわねば、という感もあるから、思い存分鳴いてもらうことにしよう。

色んな夏を通過したけれど、思いだすのは1992年の夏。アメリカに渡ってもうじき1年経つころで、手強かった言葉の壁を乗り越えて、知人を通じて得た仕事に就いて、ようやく自分らしく生活できるようになった、そんな時期だ。経済難という難問を抱えていたけれど、私にはそれさえも楽しかったのだと思う。一時はここを去らねばならないかもしれないと思った、その辛さや悲しみ寂しさを思えば、貧乏でも自分の好きな街に暮らせるのは幸せ以外の何物でもなかった。洗いざらしのシャツにジーンズやショートパンツ。若かったからどんなものでも良かったというのもあったけれど、若かったからどんなものでも似合ったと言ったら自信過剰だろうか。それに周囲もそんな風だった。あの時代のあの街の人達は、そんな、さらりとした感じがあったから。私は坂に面したアパートメントで友人3人と共同生活をしていた。扉のない広い部屋は私の部屋だった。あまりにプライヴァシーがないので入り口にカーテンを吊るしたが、しかし部屋の窓とキッチンの扉を開けると、カーテンが大きく膨らんで目隠しになどならなかった。それでも私はその部屋が好きだった。出窓越しに時々挨拶を交わす隣人。彼は病んでいたから、大抵ベッドに横たわっていて、だから窓辺で挨拶を交わせるということは、彼の調子が良い証拠だった。その彼には実は引っ越してきた当初に随分と悩まされたことがある。家に帰ってきたら、入り口に張り紙が残されていた。扉をバタンと閉めないように。そんな張り紙だった。扉をバタンと閉めた覚えはないけれど、しかし、とその日から気を付けるようになった。少しするとまた張り紙があった。それで彼と話をする為に部屋を訪ねたところ、彼が病人で、枕もとで扉の閉じる音が大変煩わしいことを知った。しかし私達はバタンと扉を閉めていないけれど、と話し始めたところで扉を閉じる大きな音がした。私が部屋を飛び出して犯人を捕まえに行くと、それは反対側の部屋の住人だった。私がそう報告すると、彼はすまなかったね、僕はいつも横たわっているのだけど、方向感覚が悪くなっていたのだろう、と詫びた。そういう形で私達は親しくなり、彼が出窓の外に並べた小さな植木鉢に水やりをする時に出くわすと、挨拶を交わすようになったという訳だ。時には窓から腕を長く伸ばして、私の植木鉢にも水をくべてくれた。そうして目が合うと、弱々しく手を振ってくれて、私を嬉しくさせ、そして心配させた。彼のところには時々友人が訪れた。最後に友人が訪れた時は、もう彼は空の星となった後だった。君が彼がよく話していた東洋人の女の子。彼の友人は私にそう言った。彼は私のことを大変気に入っていたらしく、名前は全然覚えていなかったから、東洋人の女のこと呼んでいたらしい。女の子と言ったって私はとっくに成人して、大人だと自覚していたけれど、彼からすればそんな風に見えたのかもしれない。友人は彼の部屋を片付けながら、部屋の片隅から箱を取り上げて言った。これは君宛の箱だよ。単なる隣人なのに彼は私に形見を残していった。でも、私は既に形見を貰っていた。彼が前の日に病院に運ばれたという日の晩、と言っても私はそれを後日知ったのだけど、私は見たのだから、彼の姿を。いつものように窓越しに腕を長く伸ばして私の植木に水をくべて、目が合った私に手を振った。それが彼の形見。最後まで私に手を振ってくれた彼の姿。あれから26年が経ち、様々な記憶が薄れていく中で、こればかりは昨日のことのように鮮明だ。彼は隣に住む気に入りの東洋人の女の子に最後の挨拶をしに来たのだ。財産がないどころかひと月先の生活の予定もつかぬ不安定な生活をしていた私だったけれど、あの頃には沢山の思い出が詰まっている。私の手の中には何もなかったが、周囲の人達がいつも見守っていてくれた。必要な時に手を差し伸べてくれた。悲しい時には必ず誰かがふらりと現れて心を癒してくれた。貧乏生活だったくせに豊かだと感じた時代だった。その豊かさは自分が作り上げたものではなくて、周りの人が与えてくれたものだった。それまで私は自分を運がいい人間だと思ったことはなかったけれど、あの頃から自分の運を信じるようになった。そして助けてくれる周囲の人達を悲しませないためにも、私は正しい人間でいよう、チャレンジ精神を失わないでいよう、そう思うようになった。それに気づいたこと、それが私の新しい生活の始まり。1992年の夏のことだ。

今日も雨が降った。夕立で、南からの強い雨と雹が降った。今日の雨は恵みの雨。気温が8度ほど下がって、剥き出しになった肩と足首が痛いくらいだ。猫は何処かに行ってしまった。多分また抽斗箪笥の下に違いない。あの抽斗箪笥の下。どんな感じなのだろう。一度私も潜りこんでみたいものだ。




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ここに居る

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帰りのバスの窓から見つけた向日葵の群れ。こんな街中に、こんな向日葵の群れを見つけるなんて思ってもいなかった。少し前は、其処は野菜畑のように見えた。何か、そう、鞘いんげんの苗のように見えたのに、気が付いたら私の身長を追い越すほどの高さに成長して、大きな黄色い花をつけた。何処までも続き向日葵の花が、こちらを向いて笑っているように見えた。向日葵の群れを見るとどうしても思いだす。1995年の夏のこと。

私と相棒は沢山の望みを持ってボローニャにやって来た。彼は長年離れていた家族との時間を取り戻そうとしていたし、私は新しい土地、新しい言葉や文化に不安と同じくらいの刺激や希望を抱いていた。けれども、この街での生活の始まりが、私が想像していたように簡単なものではないことにすぐに気付き、そして相棒の両親が、私達がボローニャに引っ越してきたことをあまり快く思っていないことにも気づき、かと言って、アメリカの生活の一切合切を引き払って着てしまったから、戻ることもできぬ。私達は運に試されているように思えてならなかった。友人達のところに居候する生活にピリオドを打つべく、アパートメントを借りようと思って郊外の街に行ったのはボローニャに来てひと月も経たぬ頃だった。随分遠くに位置していて、それだけでもうんざりだったのに、美しい外観のその建物には上階も階下も持ち主の家族親類が住んでいて、何とも息苦しいアパートメントだった。その上家賃が高くて、なんだ、こんな家賃ならボローニャ市内に住んだ方が良いではないか、と相棒と顔を見合わせたものだった。終わらない居候生活。見つからない自分たちの場所。私達の手の中にあるのは中古の小さなフランス車だけで、何もかもうまくいかないように思えた。アパートメントを借りる話を断ると、私達が帰りの車の中で話すことは何もなくなっていた。とその時、目の前に広がった向日葵の群れ。驚きで、そして美しいのが悲しくて、私は声を殺して泣いた。あなたの言っていた美しいイタリア、愛すべき人々、愛すべきイタリアでの生活は、私にはこれっぽっちも見つからない。静かに涙の粒を零しながら、こんなことを思い、何故私を此処に連れてきたのだと相棒に訴えたくてならなかった。ただ、それを言葉にできなかったのは、私も同意してここに来たこと、誰に頼まれて来たわけでもなかったからだ。それにそんなことを言わなくたって、相棒は気付いていたに違いなく、だから、尚更、私は相棒に何も言えなかった。私達の手の中にあるのは一握りの勇気と、それよりも更に少ない希望だけだった。まさかこれほど長くボローニャに住むなど思っていなかった。数年のうちに逃げ出してしまうに違いない、と思っていた。あれ以来、向日葵の群れはあの頃のうまくいっていなかった私達の生活の象徴となり、遭遇すると悲しくなった。今はそれを思いだすことはあっても、あの頃とは違う。私達は安定生活と家を得て、文句を言いながらも仕事を得て、とりあえず生活に不自由することがない。だからあの頃を思いだしたら、今の状況を感謝するのだ。いつの間にか向日葵が、感謝のスイッチにすり替わった。私はまだここに居る。逃げ出すこともなく、ボローニャに居る。それでいい。それでいいと今は思っている。

母国の自然災害を毎日テレビで目にするたびに、心を痛めながら途方に暮れる。西日本豪雨により亡くなられた多くの方たちに心からご冥福をお祈りいたします。そして被災地の方々に国からの特別の配慮があるように願いたい。自然が相手では、どんなテクノロジーも勝てぬと言うことなのか。自然が怒っているのをかもしれない。これからどのようにして自然とうまく付き合うかが、日本ばかりでなく、地球上に暮らす人々すべての課題だ。




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