ひとり暮らしをしていた

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今日は午後から雨が降るらしい。この雨の後は、きっと気温が急降下して秋がさらに深まるのだろう。窓から眺める菩提樹の枝は、そろそろ葉が落ちだした。窓辺にたたずむ習慣があるのは猫も同じ。猫が眺めているのは窓から見えたプールの跡地。階下の家の庭のプールが在ったころは良かった。夏には子供たちが賑やかに集い、誰も居ない時は水面が風に揺れて、落ちた木の葉が波に揺れて、天気の具合によって水の色を変え、美しくて溜息すら出た。それが私と猫の小さな楽しみだったけれど、ある日プールが取り去られて、大きな空間になった。芝を植えたり木製のベンチを置いたり、花を植えたりしたけれど、誰がベンチに座って本を読んだりお喋りをするでもない。単なる空間、プールの跡地の感がぬぐわれない。まあ、それも隣人の庭だからどうしようもないことで、しかし、あのプールの存在がどれほど素敵だったかを思いだしては淋しく思う。もう、プールはないんだから、と猫に言って聞かせるけれど、いつかまた戻ってくると彼女は思っているに違いない。

ここ数日眠ってばかりいる。そして沢山の夢を見た。そのうちのひとつは懐かしくて、目を覚ました後もずっと心に残った。
アメリカに暮らし始めた頃、私はひとり暮らしをしていた。ダウンタウンの端の方で、坂道の途中にあった。赤く塗られたレンガの壁、白く塗られた窓枠。5、6階建ての建物には旧式のエレベーターがついていて、蛇腹のようなドアを手で閉めてボタンを押すと、一瞬がくんと下がってから、ギシギシ音を立てて上がっていく。私の部屋は上から二番目の階で、Studioだった。ドアを開けると奥にキッチンがあり、右手奥にはバスルーム、左手奥には部屋があり大きな窓があった。知人が用意してくれた部屋で、知人がこの建物の主だった。知人が住人に紹介してくれたから、入り口などですれ違うと誰もが感じの良い挨拶を投げかけてくれた。地上階に住む大工のロバート。その向かいに住むのはコンピュータ技師の夫と妻のリーナという名のフィリピン人女性。私の上の階には日本人の男性が居て、レストランで働く料理人だった。他にもいろんな人が居たけれど、思いだすことはあまりない。名前すら覚えていないのだから、共に通じるようなものは無かったのだろう。坂を下りると道の向こう角にコーヒーショップがあった。中国系アメリカ人夫婦が営んでいた。わりと寂れていて、それでもこの辺りでは人気があるらしく、いつも客が入っていた。店に行くことはあまりなかった。理由は代金を受け取ってくれないからだった。私が東洋人であるからなのか、いいのよ、あなたは特別だから、と店の女主人は言うけれど、それが私を店に足を向けさせぬ理由だったとは彼女は知るまい。だから私はいつだって店の前を通り過ぎながら、ガラス越しに手を振って挨拶するばかりだった。ある週末、近所に住む英語学校の先生と生徒のイタリア人と3人で店に行った。イタリア人の生徒は私のクラスメートで、しかし私達は互いにあまり好いていなかった。彼女はプライドが高く、いつもつんとしていたし、イタリア語なまりの激しい英語で、何を言っているのかわからなかったからだ。彼女の方にだって言い分があったに違いない。何しろその頃の私は、英語が話せなかったから、話し相手にもならなかったに違いない。そんなことを知ってかどうか知らないけれど、ある日3人で週末の朝食を楽しむために店に行ったのだ。話によればこの店は大変評判の店で、特にパンケーキが旨いらしい。へええ、そうなんだ。と初めて知ったその店の評判が、まるで自分の店のように嬉しかった。朝食を3人で堪能しながら、初めてイタリア人の彼女とゆっくり話をした。別に悪い娘ではなかった。ただ、私の語学力が低すぎただけだと思った。彼女はいつも地味な装いをしていた。何時だか皆で夕食に出掛けた時、彼女はグレーのジャケットに同じ生地のパンツという装いだった。当時のアメリカで、その装いはしっくりこなくて、皆にどうしてそんな装いなのかと訊かれていた。彼女は、これが彼女の持っている一番良い服で、一番自分に似合っていると思うからだと答えていたけれど、あなたのように若い人はもっとラフで良いのではないかと言うのがみんなの意見だった。でも、今ならわかる。イタリアに暮らすようになってやっとわかった。あれは確かに美しいパンツスーツだった。無駄な飾りがないのは、ラインが美しい証拠。シンプルなグレーだったのも、上質な生地だったからだ。そういう素材の良さや、形の美しさにイタリア人はとてもうるさくて厳しい。母親が衣服のデザイナーだと言っていた彼女ならではの一番良い装いで、スタイルの良い彼女が一番美しく自分を見せることが出来る装いだったのだと思う。26年も経ってそんな夢を見て、そういうことに気が付いた。今の私ならば、彼女ともっと楽しい話が出来るのかもしれないと思った。26年前。私が日本を飛び出した年で、あれから私の冒険が始まった。何時まで経っても安定しなくて手探りばかり。それはこれからも続くのだろう。

数日前購入した南瓜。いい感じなので暫くキッチンに飾っておきたいけれど、美味しいうちに食べてしまおうと思う。さて、どうする。南瓜のパウンドケーキを作ろうか。いや、やはり天婦羅だろう。




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床屋とサヴォイア

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ちょっぴり自信喪失。消沈と言う方がぴったりくるのかもしれない。今週末は何処かへ散策に出掛けようとと楽しみにしていたから、尚更残念感が大きい。また扁桃腺を腫らせて、小さな子供のように熱も出した。感謝すべきは相棒が、抗生物質をもらいに走ってくれたこと、食事の準備をしてくれたこと。悪いことばかりではないと思いながらも、窓の外の美しい黄色い木の葉を眺めると、こんな美しい秋の日に家でぐずぐずしている自分が残念過ぎて泣きたくなる。子供のようだ。そうだ、子供の頃、遠足の日になると高熱を出したものだ。それから夏祭りの晩もそうだった。何か楽しみなことがあると決まって熱を出して、それでも行きたいと言って両親を困らせた。あの頃から少しも成長していないことに気がついて、ちょっぴり恥ずかしくもある。週末のうちに完治させてしまうからと、窓辺に座る猫に話しかけた。

少し前に相棒が5リットルの大瓶を持って帰って来た。中には赤ワインが入っていることが一目でわかり、どこかのワイン農家で小売りして貰ったのかと思えば、床屋からもらったのだと言う。この床屋と言うのはエンツォのことだった。エンツォは旧市街の、その中でも本当に中心の、マッジョーレ広場から歩いて1分とかからぬ場所、サン・ペトロニオ教会のすぐ脇の建物で床屋を営んでいた。10年ほど前に引退して今は隠居の身であるが、髪を切る習慣はなかなか抜けず、趣味のひとつのようにして残っている。そうして知り合いに電話をかけては、そろそろ髪を切った方がいいんじゃないかと自分の家の庭に招くのだ。相棒も招かれる知り合いのひとりで、もう何年も続いている。だいたい相棒は床屋の客ではなかった。20年ほど前にエンツォに頼まれて骨董家具を修復したことから始まった関係で、あの日以来相棒は毎月エンツォの家に呼ばれて髪を切ってもらうようになった。他の店に行ったら裏切りになるとのことで、それから代金を払おうとすれば自分たちは友達なのだから代金などいらないと言い、無理に渡せばヘソを曲げる。兎に角こんな風にしてエンツォは自宅で無料の床屋を続け、私達は彼のことを床屋と呼んでいる訳なのである。ところで床屋は恐らくは70代後半で、大きな息子が存在するが、息子は当てにならぬと言ってしょっちゅう相棒に電話を掛けてくる。水漏れで困っているからとか、大きな家具を動かしたいとか、鍵を持たずに外に出てしまって家の中に入れないとか。その度に相棒は仕事を中断して床屋の家に飛んでいかねばならぬ。しかし相棒はそんな床屋のことを無下にできず、年を取っているからな、彼も、と大きな溜息をつきながらも、でも、これでいいんだよ、助けが必要だったんだからと言う。こうした寛大さを相棒のすごいところだと私はいつも感心するのだが、この寛大さは妻に向けられることはあまりなくて実に残念なのである。年上の、困っている人限定の寛大らしい。さて、その床屋は、時には良いことでも電話を掛けてくる。例えば、農家からうまい手作りサラミを分けて貰ったからとか、庭のザクロの木が沢山実をつけたからとか、いいワインを購入したからとか。それで相棒が持ち帰ったのは、床屋が購入したいいワインのおすそ分けとのことだった。早速ワイングラスに注いで頂いてみた。あっ、これは知っている、サヴォイアのワインだ。声を上げて喜ぶ私に、そうだよ、君の好きなサヴォイアのワインだ、と相棒が目を輝かして言った。ボローニャから南東に車を走らせた、イモラの少し手前のワイン農家サヴォイアのワインは、店に並ぶことはなく、地元の人達が足を運んで買いに行く。大抵が老人だ。老人のいうことを聞いていれば、美味しい場所に辿り着くと言ったのは今は亡き舅の言葉だが、本当にそうだ。20年ほど前に私達がこのワインを知ったのは、隣に住んでいた老夫婦から分けて貰ったからだ。毎年彼らを車に乗せてワインを買いに行ったものだけど、老夫婦が遠くに引っ越してしまってからは、そんなこともなくなってしまった。しかしサヴォイアのワインには時々思いがけぬ場所で遭遇する。そのひとつが床屋からもらったワインで、成程、床屋もサヴォイアだったのか、と思ったら何か小さな共通点を見出したような気分になって楽しくなった。5リットルなどすぐに終えてしまうだろう、ということで久しぶりにサヴォイアへ足を運ぶことになった。秋を堪能する小さな旅と称してサヴォイアまで車を走らせるのだ。黄色い木の葉が美しいに違いない。だから早く扁桃腺を治さなくては。完治させて、もう戻ってこないようにしなければならない。

数日前に購入した柿がとんでもなく美味しい。月曜日に青果店に立ち寄って、見繕ってくれた店主に礼を言わねば。そうしてまた美味しいのを幾つか見繕って貰うのだ。私がいつも、どんな果物を購入するときも、甘くて美味しいのを選んでほしいと注文するのだが、店主は実に慎重に選んでくれる。有難い話だ。季節の果物を食べることは健康の秘訣。うん。私は確信しているのだ。




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美しい秋

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朝晩の冷え込みは本格的な秋そのものだ。10度。これを10月にしては温暖と呼ぶか、寒いと呼ぶか、いくら考えても分からない。どちらにしても昼間になれば20度にも上がるから、まだ暖房の必要はない。しかしそれだって時間の問題。日曜日に予報通り雨が降れば、一気に冷え込むだろう。

仕事帰りにクリーニング屋さんに立ち寄ったのは昨日のことだ。一昨日店が閉まっていたのを不審に思ってのことだった。女主人にどうしたのかと訊けば、彼女の夫が手術をしたらしい。命にかかわるものでないにしろ、手術室に入ってから7時間もかかるような長いオペレーションだったらしく、そんなに長くかかるとは知らなかったにしろ夫をひとり病院に残すのは可哀そうと思って、店を臨時休業にすることにしたのだそうだ。60歳を過ぎたこの夫婦は世間一般から見ればおしどり夫婦で、毎日仲良く店で働いている。時に天気が良いと夫は釣りに出掛けてしまって不在だけれど、それもあまり健康ではない夫が楽しいならばよいではないかと妻は思っていて、彼女は店の仕事を休んで釣りに出掛けた夫の文句を言いながらも表情は柔らかく愛おしい笑みを湛えるのだ。そういえば先週の金曜日に店に立ち寄ったら、夫が足を引きずっていた。どうやら足の付け根あたりに問題があるらしく、妙に心細い顔をしていた。いつもなら冗談のひとつも飛ばしてお道化る彼だが、もじょもじょしながら店に隅っこに佇んでいた。あの後、急に悪化したのか、それとも手術は既に予約されていたのか、私にはわからない。どちらにしても無事に終わり、そのうち仕事に復帰するそうだ。夫が居ない店は何となく淋しい。女主人が切り盛りしている店だけど、この店はあのふたりが居て成り立っているのだと初めて分かった。早く良くなりますようにと声を掛けて店を出たら、外はもう真っ暗だった。日が暮れるのがすっかり早くなった。あと少しで10月も終わる。急いで過ぎ去ろうとする10月に、その理由を聞いてみたいと思った。地面に落ちたプラタナスの葉。美しいから、葉を踏まぬように気を付けて歩いた。プラタナスの葉がすっかり地面に落ちる頃にはクリーニング屋さんの夫も復帰するに違いない。

テーブルの上の籠には様々な秋の色。栗南瓜、柿、葡萄、胡桃の実。豊かな秋、感謝するべき秋だ。




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そうだ、Dozzaへ行こう。

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10月にしては気候が良い。雨が降ることもなく、快晴が続いていることを良い兆候と思うのは前向きすぎるだろうか。穏やかな秋。空の明るい秋。長いボローニャの暮らしを振り返っても、これほど穏やかな10月は見つからない。話によればこんな気候が10月いっぱい続くらしく、こんな素敵なことは滅多にないからと、足が遠のいていた様々な場所に行こうではないかと計画を立てるこの頃だ。そのうち嫌でも雨が降って、一気に秋が深まり、そして冬がやって来る。その前に少しでも楽しんでおこう。相棒とそんな話をしている。

そのひとつがDozzaだった。Dozzaはボローニャ郊外の丘の町だ。ボローニャ旧市街を基準にしたら、Dozzaは南東にあたるだろうか。30kmほど行ったところに在る小さな町だ。決して遠い場所ではないが、それではちょっと、と出向くような場所でもない。それも以前の私達ならば、ちょいちょいと車を飛ばしていったものだけど、近頃はフットワークが悪く、Dozzaは半日旅行に値する場所になった。10月初めにボローニャの祝日があった。本当ならばトスカーナまで足を延ばして美味しい肉を頂く旅になる筈だったが、急に中止になり、それでは近いところで、そうだ、Dozzaへ行こう、ということになった。考えてみれば5年以上足を運んでいなくて、天気の良い10月の初めの小旅行にはもってこいの目的地だった。今年の葡萄の収穫は例年より少し早かったらしい。丘の葡萄畑は既に収穫を終えていて、葡萄を荷台に積んで走るトラックも見当たらなかった。小さな町で旅行者で混み合うことは2年に一度あるくらいだが、ボローニャが祝日とあって、私達のようにボローニャから足を延ばす人達が多いのだろう、俄かに賑わっていた。私達は目的もなく歩き、気まぐれで昼食をとるために店に入り、それが思いがけず大当たりで、お腹の皮が突っ張るほど食べた。こんな大当たりの店がイタリアのどんな街にも存在する。私がイタリアに暮らすことになってよかったと思うのは、こんな風に大当たりの店に遭遇した時である。野菜のグリルを頼んだら、白い大きな皿にポルチーニ茸を発見した時の喜び。どうりで厨房の方からいい匂いが流れてくると思った、と私が手放しに喜ぶと、女主人が嬉しそうに笑った。美味しい食事をありがとうと女主人に礼を言って店を出たら、なだらかな石畳の坂道を優雅に尻尾を揺らして横切る猫たちに出会った。野良猫ではなく飼い猫らしい。赤い革製の首輪をつけていて、歩くたびに銀色のメダルが光る。名前が書いてあるのだろう。それからきっと飼い主の連絡先も記されているに違いない。車の進入が規制されているこの町の中心部ならではの長閑で優雅な風景だった。壁に施された絵。この町は2年に一度新しい絵が描き足されるアートの町なのだ。古いものは少し色褪せていて、それが尚更情緒があって素敵だった。10月というのに昼間は27度にも上がって、歩いていたら額に汗が浮かんだ。此れといった目的もなく来たけれど、全く素敵な祝日の午後になった。また近いうちに来よう、と言ったのは相棒だった。日頃、老いた、病の母親と自分の仕事のことで頭が一杯の彼にとって、とても良い時間だったらしい。この晴天が続くならば、11月早々足を運びたいと思う。

夕方になると忍び寄る湿度。天気は良いが朝晩の湿度はやはり例年のボローニャの秋と同じだ。そうして日が暮れるとあっという間に気温が下がり、まるで昼間の晴天など知らなかったような闇がやってくる。そういえば、旧市街の焼き栗屋さんはもう店を出しただろうか。仕事帰りに立ち寄って、熱々のを袋に入れて貰って家に帰ろう。赤ワインと一緒に頂くのが、ここ数年、気に入っているのだから。




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7日間

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淡々と生活するのが好きだ。いや、それは語弊があるかもしれない。淡々と生活するのに慣れている私だから、そうだ、そういう生活を繰り返していて其れが当たり前になっている私の日常だから、小さな様々が起きると深いため息が出てしまう。

急に水圧が弱くなって水の出が細くなってしまった。そのうち断水してしまうのではないかと心配するほど細い水。手を洗うのすら不自由に感じるくらい細い水で、いくら待ってもそのままだった。パスタを茹でるための鍋に水を注ぐのにも時間が掛るし、野菜を洗うのもままならぬ。私は深いため息をつきながら、レバーを動かせば水が出るのに慣れ過ぎていたことに反省し、あって当然と思っていた水の有難さを感じていた。それから海の向こう側の水が不足している国のことを思った。感謝して水を使うことを学んだ一日だった。
パソコンが故障して、使えなくなった。もうすぐ丸5年になろうとしているにしても、まだまだ活躍できるはずのパソコンだった。スイッチを入れると起動して、キーを叩けば文字が書けて、インターネットで調べごとをしたり、家族や友人に便りを書いたり。パソコンの存在は知らぬ間に私の生活の中の一部分になっていたらしい。だからパソコンが故障しただけで手足を縛られてしまったようになった。昔はパソコンなどなかったのに。無くたって、普通に生活が出来たのに。今夜、パソコンの機嫌が直って再び使えるようになったのは、幸運というべきだろう。有難いことだ。これからも仲良くやっていこうと思う。まだあと数年は頑張って貰えるように、労わりながら。
しばらく体調が悪かった。何か眩暈のようなものだ。疲れているのかと思っていたから、医者には行かなかったが遂に降参して医者に行った。医者は私の長い長い説明に辛抱強く耳を傾けて、処方箋と検査をする指示書を書いてくれた。思っていたより悪いものではないらしい。ほっとした。勿論検査をしてみなければわからないけれど、緊急に検査を要さないところを見ると、それほど悪いものではないということだろう。健康であることの喜び。具合が悪くなって気がつくのは愚かすぎるのかもしれない。

食器棚から野草の緑と勝手に名をつけているガラスコップを取り出した。古いガラスのコップ。吹きガラスの為に所々に空気が入っている。薄手のガラスで軽くて、そして美しい緑色。私の大の気に入りのガラスコップ。もともとは6つだったが、20年という歳月の間にふたつ割れてしまった。ミネラルウォーターを注ぐと緑色がさらに美しく見えた。そうして気が付いたのは、この緑色は野草の緑であり、うちの猫の瞳の緑だということ。あんたの瞳、綺麗ねえ。褒められたのを猫は理解したのか、機嫌がいい。そして私も機嫌がいい。水のことにしても、パソコンのことにしても、健康のことにしても、当たり前のことなどひとつもない。それに気がつけて良かった、そんな7日間だった。




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